猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

ガーリッシュ? 嫌いじゃないなぁ。

2008年08月23日 10時56分12秒 | 美味しいもの

.....と、いうわけで、二日にわたってお送りしてきました、
夏休み第一日目日記。

麻布・光林寺を出た後は、ガラッと目的が変わって、
我が家には欠かせない、美味しいものを求めての旅となります。

 

光林寺を出て天現寺の交差点を曲がり広尾駅へ。
.....と、天現寺の脇にこんな井戸を見つけましたよ。
近郊の皆さん、こんなのあるの知ってた?
こういうものを見ると触らずにはいられない我が家の三歳児が、
実際ポンプを動かしてみたところ、水は出てきませんでしたが(笑)

 

向かったのは、今夏、銀座三越にオープンしたラデュレ。

美味しいマカロンが有名なこのお店は、最近あの、
ソフィア・コッポラが監督した映画『マリー・アントワネット』で
お菓子の監修をしたことでも有名になりましたが.....

これまでは海外でしか買えなかったものが、ようやく日本進出とあって、
巷の噂では、連日の大行列ということだったのです。

 

いかにも、な箱も可愛いラデュレ(笑)

 

.......ならば。

この夏休みはいい機会と、この日は初めからルートの最後を、
『ラデュレ』に決めておりました。

我々は再び電車に乗ると、一路銀座を目指します。

 

おっと、ラデュレにいく前に、こちらはゴンザが雑貨屋で買った
ベルギー王室御用達とかいうワッフル風お菓子。
うん!普通に美味しいよ(これって褒め言葉~?←知ってる?)

 

.....と。

銀座三越に到着後、ゴンザがまず目指したのは、例のごとく、
『案内カウンターのきれいなおねいちゃん』のところ(笑)

館内のどこにラデュレが位置するのか尋ねれば、
おねいちゃんは、場所を教えてくれると同時に、
「それが大変混雑しておりまして......」と、
『もしかして買えないかもよ!?』ぐらいの勢い。

 

「はよ、ラデュレの菓子を出せ!」という方(笑)
まあまあ、この畑の野菜たちもカラフルできれいでしょ?

 

......が。

実際ラデュレ店頭に着いてみれば、噂の行列はなく、
案内のお兄さんに案内されるがままに、ラデュレ脇にある階段に進むと、
ようやくそれらしいものは見受けられるものの、
それほど大げさなものでもなく.....即並ぶことに決定。

結局、『40分待ち』と掲げられた札の半分ほどの時間、
20分弱で無事店内へ進むことが出来たのでした。

 

う~ん♪なんだか楽しい音が聞こえてきそうなケーキ♪
こちら『ラデュレ』のフランボワーズのタルト。
酸味の利いたクリームが中に入ってます。

 

カラフルで可愛らしい店内は、ゆったりと買い物が出来るように、
一組の客に必ず一人の担当者が必ずつくシステム。

つまり、行列の原因も、このシステムゆえというわけですが.....
ガラスケースの中に目を向ければ、並んだ時間など忘れるほどの、
キラキラしたお菓子がいっぱい!

前述したソフィア・コッポラは、映画の中で、
『ガーリッシュなファンタジー』の世界を表現するのに
ラデュレのお菓子を使ったということですが。

そこにはまさに、乙女心をくすぐる可愛らしいマカロンやケーキが、
踊るように、ひしめくように、並んでいたのでした。

 

よくわからない表現かもしれませんが、
「ああ、こんな靴や帽子が欲しい!」と思わせるような、
見ているだけで幸せになれるケーキ♪
しかもこれ、美味しい!

 

......で、肝心のお味なのですが。

これにはちょっとだけ、気落ち、というか.....。
【世界一美味しいマカロン】というには、物足りないというか。

正直、私とゴンザには『ピエール・エルメ』のマカロンのほうが、
ずっと上に思えたのでした。

 

こちらがそのラデュレのマカロン。
13種類あるということですが、この日は9種類しか残っておらず、
それを全種(1個が231円だったかな)。

 

と、いうのも、エルメのマカロンが食感、素材、香り、味の、
『組み合わせの妙』を持つのに対し、ラデュレは単調というか。

「おいしい.....けど」と、いう感じなのです。

いや、実際。
傾きかけていたラデュレが改革・再建し得たのは、
副社長兼シェフ・パティシエとしてやってきた
ピエール・エルメが腕をふるったからだといいますし、
聞けばあのラデュレ、エルメ両店にある、
『イスパハン』も、エルメがラデュレ時代に生み出したレシピなのだそうで。

それを聞けば、なるほど納得だなぁと。

 

ちなみに上のケーキ、中はこんな感じです。
外と中のたっぷりのクリームが、時に淡く、軽く、
でも、こっくり、しつこすぎず、なんとも美味いの~♪
(ゴンザと半分ずつにしてちょうどいい感じだった)

 

まあ、あるサイトによれば、
『パリのラデュレのマカロンと、日本のラデュレのマカロンの食感は全然違う』
ということですから、これだけで決めてしまうのは危険ですが、
やはり私が、今後マカロンを買うのは『ピエール・エルメ』に戻ると思います。

とはいえ。

『ガーリッシュなファンタジー』を体現したラデュレのケーキは、
見ているだけで女性を幸せにし、充分美味しい。
(高いけど・笑)

次に銀座三越に行った際は、
アクセサリーみたいなケーキだけを箱にたくさん詰めてもらって、
再び『女の子気分』を満喫したいなぁと思った私なのでした。

コメント (8)
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ヒップ ヒップ フレー!

2008年08月22日 02時16分17秒 | お出かけ

さて。

猛暑の中。

浪士たちの墓所に線香を手向けた後、
泉岳寺を出た我々が、大汗をかきながらどこへ向かったかというと.....

以前から私がどうしても会いたいと思っていた人の眠る場所へと、
向かったのでした。

 

ふうふう汗をかきながら、坂を上ったり下ったり。
都内の坂は、その名前の由来が面白く、古地図と照らし合わたりすると、
「へぇえ~!ほおお~」と、ますます面白い。

 

その人の名は、ヘンリー・ヒュースケン。

彼のことは、以前にもこのblogで取り上げたことがありますが.....

1858年の日米修好通商条約の際、
アメリカ全権大使・ハリスの通訳兼秘書として、
大いに活躍したのがこの人です。

 

ヒュースケンの墓がある、南麻布・光林寺の眼前には川が流れていますが、
この川(古川)にかかる橋の上で彼は襲われ、命を落としました。

 

また、彼は、イギリス、フランス、プロシアの代表達の補佐役としても、
大きな働きをしました。

時代の急変により、不穏な空気が流れる江戸、及び近郊で、
次々と外国人が襲撃され、殺害されても、
変わらず行動し続けた人。

結果としては、その自由さが、彼の命を奪うことになってしまうわけですが、
私はなぜだか、この人に惹かれて仕方がないのです。

 

光林寺のある明治通り沿いには、こんな看板もたてられてます。
現在は港区の指定文化財となっている、ヒュースケンの墓。
実は私、彼のことをまだ知らない頃、
このすぐ裏手に年中仕事に来てたのですが.....
まさかお墓を探すために再びウロウロすることになるとは。

あれ?境内は工事中.....中に入れるかな?

 

二十一歳で、単身、オランダからアメリカに渡り、
貧しさの中でチャンスを掴み、長い旅路の末に、
通訳として日本へやってきたヒュースケン。

残念ながら、他の外国人より自由に行動した結果、
1861年、攘夷派の薩摩藩士によって、命を奪われてしまいますが、
彼が遺した日記は、今も、私の心を大きく揺さぶるのです。

 

門をくぐれば、そこには周囲の喧騒とは無縁の時間が.....

 

  「しかしながら、いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、
   この進歩は本当に進歩なのか?

   この文明はほんとうにお前のための文明なのか?

   この国の人々の質僕な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。

   この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている
   子供たちの愉しい笑声を聞き、
   そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、

   おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
   西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように
   思われてならないのである 」

 

やっと...やっと会えましたね。

 

また、富士山を見て感激した彼は、こうも言いました。

  「今日はじめて見る山の姿であるが、一生忘れることはあるまい。
   この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。

                                  中略

   ああ!昔の友達が二十人もこの場にいたら!
   ヒップヒップフレーを三回繰り返して、
   けだかいフジヤマをたたえる歓声が、周囲の山々にこだまするだろうに」
       

日本に国を開かせるためにやってきた男が、
この国を見つめるうちに洩らした、最大の賛辞。

『どうしても一度墓前に参り、手を合わせなきゃ』

その思いは、私の中にずっとずっと強く、存在し続けていたのです。

泉岳寺からゆっくり歩くこと40分。

南麻布、光林寺にその人は眠っていました。

 

【ヘンリー・コンラッド・ヨアンネス・ヒュースケン】(1832.1.20~1861.1.16)
オランダ語、フランス語、ドイツ語、英語、そしてかなりの日本語を操った人。
『食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、
その他のことはあまり気にしない男』(ハリスによる言葉)
『恰幅のいい男で通人すぎる男』(領事館のボーイによる言葉)
当時江戸に滞在した外国人が見物や遊びに出る際には、
大抵ヒュースケンが同行し、みんなに親しまれ、人気があったということです。
その葬儀には、プロシアフリゲート艦の軍楽隊もつき、各国領事・公使が出席。
遺体はアメリカ国旗で包まれ、オランダ海兵隊八名により運ばれました。
彼の死後、ハリスは日本から賠償金一万ドルを取立て、
それを彼の母親に送っています。

 

広大な敷地の奥まった場所。

緑に囲まれて、セミの声が降り続ける中、
祖国から遠く離れて......

ゴンザがぽつり、呟きました。

「あなたが知っている日本はもうないかもしれませんが.....
  どうぞ、ゆっくり眠って下さい」

手を合わせながら、私は思いました。

次にここを訪れるときは、ビールでも持ってこよう。

彼は、日本のサケだけは、『いやな味、恐るべき飲み物』と、
そう記していたから......と。

夏休み日記、第一日目。
もう少し続きます。

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後編へ行く前に。

2008年08月20日 23時59分10秒 | お出かけ

昨日の泉岳寺の記事で取り上げた、赤穂浪士たちと、
討ち入り周辺の事情の補足を少し.....。

と、いうのも、私自身も以前は思っていた、

「浅野内匠頭、我慢しなさすぎ!」

というご意見がここでもチラホラ聞こえてきたからなのですが.....(笑)

 

京急品川駅ホームには、こんなコンビニ。

 

その辺を補足させていただきますと、実はこの浅野内匠頭さん。

非常な、というか、病的な癇癪持ちだったというお話がありまして。

その辺のことがわかってくると、また見方も変わるかなぁと。

 

『猛烈タンメン鼻血ブー』が奥様方の心を捉えた(爆)
【なんつっ亭】のネギチャーシュー麺は

ネギが別盛り♪
ここのラーメンのどんぶりの径が小さいのは、やっぱり、
あの黒い脂を際立たせるためなのかな?

 

いやね。
我慢しなさすぎという事実には変わりがないわけですが(笑)

それが生まれ持っての『病』だったとすると、
また事情も変わってくるわけで。

いえ、何せ何百年も前の話なので、真実はどうだったのか、
正しいことはわからないんですが......ね。

 

こちらは丸くて平べったい餃子。
「からし醤油でお召し上がり下さい」と書いてあったけど、
私はやっぱりお酢も使いました(笑)

 

憎憎しいジーサンとして描かれる吉良上野介さんも、
お国元では名君として慕われていたというお話もありますし、
まあ、あくまで『忠臣蔵』自体は元禄赤穂事件の史実に脚色を加えたもの、
と考えたほうがいいのではないかと。

ほら。
物を書く人って、話を大げさに面白くしようとするものですし、
(現代でいう、『盛る』ですな・笑)
この討ち入りのお話もきっと、史実をそのまま伝えるだけじゃ面白みに欠ける、
ということだったんでしょう。

 

ところで.....泉岳寺を出て、歩いているとこんなものを見つけましたよ。
「お水はいっさい出しません」って...なんで?(笑)
『英国風』ってそういうことなのか?(←絶対違う・爆)

 

まあ、冷静に考えれば、吉良がもし浅野にウソを教えようとも、
家臣たちが「今までの慣例から考えてもそれは変なんじゃ?」
「一度どこかに確認したほうがいいんじゃ?」と、
と、気を利かせてもよかったわけですからね。

いや、実際は武士の社会じゃ、それぞれの立場・体面を重んじるがために、
命令・伝達系統があまりに煩雑で色々大変だったって話ですけど、
それは現代の会社においても同じわけで......

角が立つなら立つで、色々こっそりと裏から手回しとか
出来なかったのかなぁと。

もうね、これが会社だと考えれば、いわゆる『ホウ・レン・ソウ』と
自己判断がまったく出来ていないダメ社員と見なされますし(笑)

まあ、例えばそれが事実として、
討ち入り前に吉良の屋敷の作りを知る手段を持てたとするなら、
裏から手回しするぐらいは出来たんじゃないかなぁって。

そうも思うわけです。

こっそり賄賂を多く贈るとかね。

 

ねえ?大石さん。

 

ま、とはいえ、そんなことを言ってちゃあ、ロマンもへったくれもなくなるわけで、
事実は事実として知っておいてから、創作、及び想像の部分を楽しむのが、
歴史の正しい楽しみ方かなと。

ほら。

歴史ってのは、そのときの権力者が自分達に都合よく
記録を書き換えたりもするらしいですから。

実際、織田信長の鉄砲隊は一般に言われている人数の
半分ぐらいしかいなかったらしいですし、
宮本武蔵はめっちゃ卑怯な手を使ったっちゅー話ですし(笑)

三十六人斬りと言われた荒木又右衛門だって、
実際斬ったのは二人だけだそうです。

山本勘助なんて、実在しなかったんじゃないかなんて言われてもいますし.....
(最近は実在したという方向になってるらしい)

ちなみに、私が何年か前に読んだ本では、
『大石内蔵助は本当は討ち入りなんかしたくなかった』
って書いてありましたよ(笑)

ただ、経済的にも体面的にも行く道を失った家臣たちが一発逆転するには
武士らしく死ぬことのほかになく......
彼らにせっつかれて、仕方なく討ち入ったんじゃないかって。

ホント、ロマンの欠片も何もない説ですが(笑)

でも、そんな部分も含めて、やっぱり歴史は面白いと思うんです。

 

後世の者は色々勝手なことを言っておりますが、大石さん。
それはやはりあなた方がずっと愛され続けているということなのだと思います。

 

色んな見方があって、色んな解釈があって、
あれを信じる人あり、これを信じる人あり.....。

そしてこうも思います。

やっぱり、赤穂の浪士たちの忠義心は本物だったんじゃないかと。

 

十代の若者から、当時なら老人と見なされた人々まで。
死ぬということに対し、今とは捉え方が違う時代ではあっても、
やはりそれは半端な覚悟では出来なかったことだと思うのです。

 

無骨で融通は利かない人々だったとしても。

お家断絶から討ち入りまでの、辛く長い時間を
ひたすら耐えて待ち続けたわけですから......。

思いをひとつにするって、なかなか難しいのは昔も現代も同じ。

と、いうわけで、諸説あるのを知ってはいても、
やっぱり、あの墓所は私にとって、
ロマン溢れる、聖なる場所なのでした。

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あら楽し。

2008年08月19日 23時59分06秒 | お出かけ

さてさて。

あまりに写真を撮りすぎて、何からUPしてゆけばいいのやら、
わからなくなってきた夏休み日記ですが.....(笑)

五日間のうちの第一日目は、都内某所を目指すことから始まりました。

 

夏休み第一日目は、猛烈な暑さでした!
家を出て30分で、手にはすでに二本目のペットボトルが握られていたほど.....
これ懐かしいでしょ?プラッシー。
昔はお米屋さんで売っていたよね。

 

猛暑の中。

水分補給を心がけつつ、京浜急行に乗り、コトコトと。

途中、あまりに美味しそうなポスターを車内で見かけてしまったため(笑)
一旦下車してお昼を済ませ、再度電車に乗り込んで、目的地へ向かいます。

 

我々が目にしたのは、品川駅のガード下を利用した、
こんな場所のポスター。

これは車内で見たポスターとは違いますが、ガード下へ着くと同時に、
迷わずこの、一度食べてみたかった【なんつっ亭】に決定!

ゴンザが頼んだ『猛烈タンメン鼻血ブー』は味噌ベース。
私は普通にネギラーメンを頼みましたが、ここのラーメンは意外性の連続!
脂っこそうに見えて、不思議なほどさっぱり...美味しくってハマる~♪

食事を終えたら向かいにある高山稲荷で写真をパチリ。
古式ゆかしい神社の後のビルには大型ビジョン。
フシギの国、ニッポーン(笑)

 

携えたのは、先日ゴンザにプレゼントした古地図(現代地図付)。

......が。
あまりに有名なその場所へは、その地図さえも必要とせず、
我々は迷うことなく、現地へと到着します。

 

電車を降りると駅構内にもこんなものが。
この駅は利用したことがないわけじゃなかったけど、初めて気づいた~。

 

そこは、日本人が大好きな物語終焉の地。

.....いや。
むしろ、始まりの地とでも呼ぶのがふさわしいような気もしますが、
とにかく、一人の主君とその主君に忠義を尽くした
彼らの物語は、今も我々日本人の中に生き続けているのは確かです。

 

そう、もうおわかりですね。
我々が向かったのは.....

あの赤穂浪士と主君浅野内匠頭が眠る泉岳寺。
いや、実際、泉岳寺の交差点や駅は年中利用しても、
泉岳寺自体がどの位置にあるのか知らない人は多いと思う。
(私もそうだった)

 

その、小ぢんまりした墓所は、境内の奥。

ひときわ静かな場所にありました。

 

墓所への途上には、浅野内匠頭自刃の場所にあったとされる、
『血染めの石』『血染めの梅』や

吉良上野介の首を洗ったとされる首洗いの井戸が。

 

年末になれば、毎年のように華々しく取り上げられる、彼らの物語。

.....が。

その墓所はあくまでひっそりと、じりじり真夏の太陽の下で、
黙りこくって建ち並びます。

 

小さな門をくぐると、お線香を買える場所があって、
その奥が浅野家、及び浪士たちの墓所。

主君、浅野内匠頭の墓所の左側には.....

寄り添うように、彼に忠誠を誓った人々の墓が建ち並びます(二名は供養墓)。
「あら楽や(楽し) 思ひは晴るゝ身は捨つる 浮世の月にかゝる雲なし」
その墓所の上にも晴れ渡った青空が広がっていました。

 

静かであればあるほど、胸に迫るものもある。

墓石に刻まれたそれぞれの享年を見つめながら線香を手向け、
最後に、彼らを束ねた大石内蔵助(良雄)の墓に手を合わせ、
その場を後にします。

 

『義士おみやげ』って...
なんだかシュールだわぁ(笑)

 

向かうのは、私がどうしても会いたかったある人のところ......。

残酷なほど晴れ渡った真夏の空の下。

我々は、再び歩き出したのでした。

 

                             <夏休み第一日目・後半へ続く>
                     (討ち入りに関する補足記事はコチラ←クリック)

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来たり、見たり、食いたり。

2008年08月18日 22時53分56秒 | 日記

 

いや~、暑かったですねぇ!
この日もいい天気でした~。

 

とうとう終わってしまいました、ゴンザの夏休み。

振り返ってみれば、
暑さのあまり、自転車にはほとんど乗れず......

 

電車で大切に持ち帰った美味しいもの。
チャリンコじゃ、湿気ちゃうしね(笑)

 

遊んではへばり(笑)
遊んではへばりのくり返しでしたが。

楽しかった~♪

 

この方もばてばてでしたな。

 

行きたい場所へ行って、
思うままに行動して、
色々食べて。

 

ぽっかり都会の真ん中で。
ここには外国人観光客の姿も目立ちました。

 

本日、大量の写真と格闘中のため、
ちょいと簡単な記事となりますが。

明日からはこのblogも通常営業に戻ります。

 

坂を下って、てくてく歩き。
どうしても会いたかった人に、会いに行くことも出来ました。

 

ではでは、
『すいか』の件を含め、報告記をお待ち下さい~。

 

白昼見に行った、美しい夢。

 

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