猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

『知る』の扉

2008年09月01日 17時47分33秒 | ぶ~すか言ってやる!

この夏休み中のことだった。

二組の親子の姿を見た。

 

カボチャ、収穫しました♪

 

一つ目は小田原城で。

子は、歳の頃ならもう20歳前後、
つまり立派な大人なのではあるが.....

にきび痕もまだ新しい、
茶髪の、『いかにも』な感じな男の子が、
城址に復元された銅門脇の解説札を目にし、
傍らの両親に、
「この字、なんて読むの?どんな意味?」と。

 

スイカはこれで三個目。
季節の終わりを自ら知ってか、急ぎ気味で熟した感あり。
一般的に『結実から45日が収穫適期』のはずが、だいぶ早く。

 

彼のすぐ脇に立っていた私は、
『はて?この解説にそんな難しい字はあったかいな?』と、
ふと、今自分が読み終えたばかりのそれに興味を戻したのだが、
彼が母親に向けて指し示す字は簡単な『堅固』というもので.....

それに対しては、『あらら、この子、あんまり勉強せず、本も読まなかったのねぇ』
と、そう思っただけで、その場を後にしようとしたのだった。

 

桃が半分贅沢に乗っかった『ラ・ベルデュール』のミルフィーユは
さくさく、ジューシィでおいしい!

 

.....と。

我が子に『堅固』の読みを尋ねられた母親は首を軽くひねって「さあ?」と、
言ったばかり。

そして、その母親に『堅固』をどう読むのか呼び止められた父親の方も、
ニヤニヤして首をひねるばかり。

「ああ......」

私は思わず足をとめ、心の中で深いため息をつき、それがなんと読むのか、
彼に教えてあげたい衝動を抑えつつ、くるりと背中を向ける。

もし、彼の両親のどちらかが、
堅固の読みと意味を我が子に教えてあげられたなら、
彼の知識の扉は、いくつも開いただろうにと思いながら。

 

ここのところよく登場する、リーズナブルでおいしいケーキを作る
『ラ・ベルデュール』だけど、マカロンは「高級な麩菓子」な感じ。
マカロンについては、やはり今のところ、エルメの圧勝。

 

私が子供の頃。

何かに対して疑問を感じ父に尋ねると、
「何のために辞書を買ってやったんだ!自分で調べろ!」と
怒鳴られたものだった。

それは、今になれば、父自身も返答に困ってそうなったことなのかもしれないが、
そう思いながらも、そうやって叱ってもらってよかったと思う。

そして、あの親子が小田原城の見学を終えたのちに、
ぜひ家で協力して、堅固の読みと意味を調べてくれていればいいなぁと。
(せっかく今はインターネットという魔法の箱があるのだから)

知る喜び。
ひとつの疑問が解けると面白いようにそこから次々と知識の扉が開く喜びは、
人間にしか感じられないものだし、
疑問を持って調べる、知ろうとすることこそ、学ぶということに他ならないのだから。

8月30日はぶっちゃんの命日でした。
今年もゴンザが忘れずに買ってきてくれた、
ぶっちゃんの大好物ぼたん海老。
実際には会ったことがない一人と一匹だけど.....
ぶっちゃんを自分の家族と考えてくれるゴンザに感謝。

 

ひとつの文字が読めず、それをそのままにすると、
その他のことも意味がわからないので「もういいや」と思う。

で、「もういいや」と思うことは喜びを放棄することそのもので.....

同じ人生なら、喜びは多いほうがいいに違いない。

 

我々もご相伴にあずかりましたよ。
手前は殻つきだった、ばふんうに。

 

そして、二つ目。

あれは、ゴンザと車に乗って、信号待ちをしていたとき、
窓から見た光景なのだが。

一組の40代とおぼしき夫婦が、近くで遊んでいるらしい我が子を呼びながら、
何かを見せようと、道路わきの植え込みを熱心に見ていた。

.....と。
突如、母親のほうが植え込みに咲く花をブチッとちぎり、匂いを嗅いで
「ポイッ!」っと。

で、隣にいた夫も彼女と同様にブチッと植え込みの花をちぎり、
匂いを嗅いだのち、「ポイッ!」と投げ捨て......

ゴンザも私も開いた口がふさがらないまま、
「あれを我が子に見せようというのか!?」と。

 

頭と殻はお味噌汁に放り込んで~。
ぶっちゃん、今年も海老、美味しかったね!

 

彼らが我が子に何を見せ、何を教えたかったのかは知らないが......

彼らが何の疑問も持たず、ためらいもなく、植え込みの花をちぎった姿や、
それをぞんざいに投げ捨てた姿は、子に確実に受け継がれるだろう。

子供に、花の匂いをかがせ、体験させることは素敵だが、
それ以前に、小さな生命の大切さを教えることのほうが、
大切なのではないだろうか?

誰かが一生懸命育てた植え込みの花を、ちぎってはいけないと教えることも。

.....それは思いやりを知る、恥を知るということだ。

幸い、親の呼ぶ声もそっちのけで遊んでいるらしい子供は、
その場に駆け寄ることもなく、花をちぎって捨てた親の姿を見ずに済んだようだが、
彼らの姿勢が同じである限り、同様のことは、その子が育つ過程で、
たくさんあるのではないだろうか。

......そりゃあね。

子育てをしたこともない私が、何を偉そうなと、
自分でも思わないでもないけれど、
二組の親子の姿は、『知る』ことの意味を、
深く、我々に考えさせたのだった。

コメント (10)
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