猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

ちょっと歪んだ、もうひとつの『東京タワー』   長いけど読んでね。

2007年12月05日 02時03分42秒 | ルーツ

現在。

関東地方で再放送中の、ドラマ『東京タワー』。
(これはいわずと知れたリリー・フランキー氏の大ベストセラーで
 母と子の普遍的な愛を描いた感動作、ですね)

これを見ていると、私はいつもある人物を思い出す。

この物語の主人公と同じ、筑豊出身で、女と酒が大好きだったある人物。

.....彼は母の恋人で、いわゆる『ヒモ』だった。

ちょうど私が10歳頃のこと。

暮れも押し迫って母が突然姿を消した時。
たぶんすでに彼の存在は母の中で大きくなっていたのだろう。

彼女が出て行ってしまう少し前の私の誕生日に。
母が持ち帰った大きなぬいぐるみのプレゼントと、
それにも負けないほど大きなケーキは、
きっと彼が持たせたものに違いない。

彼女が姿を消した後。

暗い平屋建ての家には、
父と私・小さな妹・まだ2歳の弟・頭のおかしい祖父が残されたが.....
新しい年を、母はきっと彼と迎えたのだろう。

別れ話のもつれで『俺は今から自殺するから』と脅す父から母が逃げ出したとき。
「彼が親身になって助けてくれたのだ」といまだに母は言うが.....

それが愛情からのものなのか。
それともその後、母から金を引き出すためのものだったのかは、
私にはわからない。

しかし、確かに彼は私が母と同じような形で家出をし、
母の元へたどり着いた16歳の頃から、私の人生にも深く関わり、
私へ向けて我が子に対するような愛情を注いでくれた。

子供っぽくて、わがままで、女好きで、
年中私の母を泣かせるどうしようもないヤツだったけれど。

彼は私に対してだけはいつも、『良いおじさん』であろうとし、
あれこれと世話を焼いてくれたものだった。

妻帯者だった彼が、母と一緒に暮らすことはなかったが.....

週に何度かは母の元へ泊まってゆき、
普通の家庭のように一緒にみんなで食事をする。

そんなおかしな仮想家庭は結局10年ほども続き、
彼と母との関係自体は、そこからさらに5年ほど続いたのだと思う。

若い頃の私は、彼が母から金を引き出し、遊び歩くことを知って、
当初は激しく怒りをぶつけたものだが.....
何度かそんなことを繰り返していくうちに、
母と彼が互いに依存状態であるのだと気づいて、
いつしか口を差し挟むこともなくなっていた。

彼らのその歪んだ関係がなんであったのか。

それはいまや、平和な毎日を送る私には、理解出来ないものとなっているが。

しかし確かに当時は私も「彼らはこれで幸せなんだな」と理解し、
母が「またウソをつかれた」と泣き喚こうと、
「もうあいつとは別れる!」といきり立とうと、
適当に聞き流していることが出来たのだ。

.....彼らの関係はいつもそうだった。

母は「今度こそはアイツだってウソをつかないと思う」と言い、
彼は「今度だけ、頼むよ!」と言って母から金を引き出し.....
その話を聞いた私はいつも冷めた目線で母に
「ウソ丸出しなのはわかってるじゃん?今度も騙されるよ」といい続け.....

結局そのとおりになっては母が泣く。
そのくり返しなのだった。

しかし一方で『ヒモ』の通例のように、驚くほどマメな彼は、
母の運転手役から、ときには殴られ役までこなし、
私の学校への送り迎えや、
ときには踊りに行った先まで迎えに来てくれることもあった。

子供を持たない彼は、そうして私と親子ごっこをしたかったのかもしれないが、
結局彼は最後まで私にだけは弱く、
私が怒れば小さく身を縮めて、
「erimaはおじさんが嫌いなんだね?」とさめざめと泣く。
そんな感じだった。

誰よりカッコ悪い生き方をしながら、誰よりカッコをつけたかった男。
それが彼だったのだと思う。

傲慢な私は、母も彼も少々頭が弱いのだと思い、
そう思うことで多くのことを許した。

そしてそんな彼が。
誰より何より大切にしていたのが自分の母親だった。

彼は私の母や、自分の妻や、
そのほか大勢いたであろう同じような愛人達のことは裏切ったとしても、
母親だけは絶対に裏切らなかった。

何かといえば「おふくろ?」と電話をかけ、
どこかへ遊びに連れて行き、
美味しいものを探しては「おふくろのところへ持っていく」と、
いそいそと母親の元へと通い.....
酒を飲んではその『おふくろ』への感謝と愛情を口にして涙をこぼすのだった。

戦後の炭鉱町で男に混じり、
力仕事で稼いでは、彼と彼の兄弟を育てたという母親。

彼の父親は早くに癌で亡くなったそうだから、
その苦労はきっと並大抵のものではなかったろうが、
それを見て育った者として、当然彼は母親を何よりも大切と思ったことだろう。

『大きくなって、人の道をはずれても母親のことだけは忘れない』
これだけ聞くと、なんだか昭和の匂いぷんぷんの任侠映画みたいだが、
それは確かにその時代に存在していたものだ。

その後、母と完全に別れた彼はなぜか妻とも別れ.....
何より大切にしていた母親が亡くなって3年と経たず、
一人で孤独に死んだ。

肝臓癌を患っていたのだという。

彼が亡くなって数ヵ月後に、偶然そのことを知った母は、
私に電話をかけてきて、
「別れてからもたまには電話を寄こしていたのに、なぜ私を頼ってくれなかったのか」
と、泣いた。

それに対し、私は
「別れて10年も経つ相手に頼ろうとは思わないだろうし、
 彼のことだから、彼女はいっぱいいたと思うよ」と答えたが、
母は..... きっと納得していなかったのだろう。

彼女は、自分だけは大勢の愛人の中で特別だったのだと、
そう思いたかったのに違いない。

しかし、彼は死ぬ時は一人であることを選び、
車の中でこときれていたのだと。

親しい人によると、そういうことだった。

「肝臓癌だったなんて、どれだけ痛くてどれだけ苦しかったろう?
 なんで一本電話をくれなかったのか」

そう泣きじゃくる母に私は言った。

「彼らしい最期じゃないの。
 カッコ悪いところを見せるのが大嫌いな男だったんだから....
 誰にも苦しんでいる姿はみせたくなかったんだよ、きっと。
 ....本当は誰よりカッコ悪い男のくせにね」と。

そして、その葬式の席で幾人かの女が彼を巡って争ったらしい、
という話を聞いて、私は声をたてて笑った。

「本当に、本当に彼らしい最期だね。
 死んでも女に取り合いされるなんて。男冥利、ヒモ冥利に尽きるじゃん!
 きっとあの世で喜んでるよ」と。

すると..... 母も「そうだね~。そうかもしれないね」と、つられて笑った。

今、私の手元の携帯電話には、一通のメールが残っている。

生前の彼が、母から聞いて知った私の結婚に
「おめでとう!」と送ってくれたメールだ。

きっと、メールの打ち方も、年若い彼女にでも教えてもらったのだろうと思うが、
ピコピコと彼が打ってきたそれには、
確かに、歪んではいても、人としての思いがあったように思う。

そのメールには私への祝福の言葉と一緒に、
ちびくんが亡くなったことに対し、
「ちびはerimaに感謝してると思うよ」と、あり.....
「何かあったらすぐにおじさんに言ってくれ。おじさんはerimaにだけは弱くてね」と、
そう最後に結んであった。

この時もう、彼は自分の死期が近いことを知っていたはずである。

そして、何の因果なのか.....

彼は今。
偶然にも私が住んでいる場所からすぐ近くの墓地に眠っている。

あれほど大事にしていた『おふくろ』と共に.....。

彼が私に対してだけは、常に『良いおじさん』であろうとしたのは、
彼の母親が彼に対し、いつも『良いおふくろ』であったせいだろうか。

一度墓参をした際。
屋内型のその墓地では、私や母が、写真で初対面する彼の『おふくろ』が、
彼の年若き日の写真に寄り添っていた。

私がそこへ再び出向くことは、おそらくないが.....
きっと彼は満足しているだろう。

大好きなおふくろに育てられ、愛され、
多くの女を泣かし、親子ごっこをし、
けれど、結局、誰からも心底は憎まれず生涯を終えた彼。

私の大切な大切なちゃあこも。元は彼が拾ってきた猫だ。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする