ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

トランプ銃撃事件 その発生の構図

2024-07-15 15:23:26 | 日記
トランプ前大統領がきのう演説中に銃撃された。これは許されない行為である。
なぜ許されないのか。それは、この行為が「言論を暴力によってねじ伏せようとする行為」であり、民主主義への挑戦を意味するからである、ーーそう答える人がほとんどだろう。

だが、かのニーチェを引き合いに出すまでもなく、我々は皆「力への意志」を持ち、力を行使することによって他人を凌ごうとしたがる度しがたい存在である。

力といってもいろいろある。暴力はその端的で最も原初的な形だが、その他にも金力(財力)や政治権力、軍事力など、世の中にはさまざまな形の力があふれている。

たとえばロシアは、ウクライナを軍事力の行使によって自国の領土にしようとし、中国は台湾やフィリピンに軍事的な威嚇を加えようとしている。日本をはじめ西側諸国は、これを「力による現状変更の企て」であるとし、激しく非難している。

国家が他国に対して力を行使する国際社会の現状は、個人や団体が力を行使する市民社会の現状と決定的に異なっている。

何が違うのか。
国際社会の場合、ある国が他国を支配しようとして軍事力を行使しても、これを押しとどめる有効な手立ては事実上、存在しないといってよい。
ところが市民社会の場合は、ある個人が他人を支配しようとして暴力を行使しようと’すれば、その種の行為はたちどころに押しとどめられる。
押しとどめることができず、暴力行為が実行されてしまったとしても、その種の行為をしでかした者は必ずブタ箱行きとなり、禁固刑や罰金刑を科されることになるから、同じ轍を踏む愚か者はいなくなる。

国際社会と市民社会とのこうした違いは、どこから来るのか。それは、力を行使しようとする者の、その力を凌ぐ、より上位の力の保持者がいるかどうかである。市民社会の場合、「より上位の力の保有者」は警察であるが、国際社会の場合には、それに当たる制裁機構が存在しない。
「国連があるではないか」と言う人もいるが、国連安保理が常任理事国の拒否権によってスポイルされ、「国際社会の警察」として機能していないことは、だれもが知る嘆かわしい現実である。

さて、私はたった今、「市民社会の場合、暴力を行使しようとする者はたちどころに押しとどめられる」と述べた。ならば、トランプ前大統領に対する銃撃はなぜ押しとどめられなかったのか。

それは、アメリカでは銃の規制が行われていないからである。この野蛮な国では、だれもが銃を所持することができ、これを使って国家の要人を狙撃することができるのだ。

むろん警察は、そういう行為が行われないよう、たえず目を配ってはいるが、警察の監視の目をかいくぐって計画を実行に移す不届き者は必ず出てくる。

それもこれも銃の規制がなされず、銃の所持が放任されているために起こり得る犯罪だといえるだろう。聞くところによれば、トランプ氏は銃の規制に反対の立場だとか。とすれば、「トランプ銃撃事件」は、トランプ氏の身から出た錆ということになる。

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