ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

アドラーかニーチェか

2017-01-20 16:53:08 | 日記
「嫌われる勇気」を観た。心理学者アドラーの見解を解説した自己啓発
本の、その触(さわ)りをベースにしたテレビドラマである。昨夜はそ
の第2回目。キーワードは「アドラーの目的論」である。私はアドラー
の心理学についてはほとんど無知であり、このドラマで紹介された見解
ぐらいしか知らないが、昨夜のドラマで取り上げられた「目的論」と
は、「人は自分の目的を実現するために、感情を作り出し、これを操作
する」という考え方であるらしい。
私が興味を持ったのは、このアドラーの考え方が、ニーチェのそれと正
反対だからである。人を突き動かす原動力になるのは、非理性的な情動
であり、「理性は感情の(自己実現のための)道具」だというのが、
ニーチェの基本的な考え方である。「感情は理性の道具」(アドラー)
なのか、それとも「理性は感情の道具」(ニーチェ)なのか。

テレビドラマ「嫌われる勇気」では、アドラーの考え方を説明するため
に、「引きこもり」の例を挙げていた。引きこもりの少年は、「俺は人
に会うのが嫌だから、自分の部屋から出ないんだ」と考える。それに対
してアドラーは、「この少年の場合は、『自分の部屋に引きこもる』と
いうしっかりした目的がまず先にあり、この目的を実現するために、
『人に会うのは嫌だ』という感情を作り出しているのだ」と言うのであ
る。

私はニーチェの考え方を説明するために、ドストエフスキーの『罪と罰』
の例を挙げることにしている。この小説の主人公である青年ラスコーリ
ニコフは、下宿のオーナーである老婆に激しい殺意をいだき、この殺意
の感情を実現するために、「あのババアは醜く、意地汚い人間のクズ」
だが、「それに比べて自分は前途有望な人材であり、将来は人類に貢
献する優秀な頭脳を持っている」と考えて、自分を納得させ、殺人を決
行するに至る。彼が作り出した「有為の才能」云々というナチス張りの
屁理屈は、殺意に似た彼の非合理な感情が、自己を実現するために作り
出した道具に過ぎないのである。

一方、アドラーはどうか。アドラーに言わせれば、ラスコーリニコフが
いだく殺意に似た感情は、この青年が「醜い老婆を殺す」というはっき
りした意志的目的を実現する、そのために作り出した付随的な道具的感
情だということになる。

さて、あなたは、ニーチェとアドラーと、そのどちらの考え方に軍配を
上げるだろうか。

テレビドラマ「嫌われる勇気」では、「私は、同僚を苦しめるアイツが
憎くて、許せなくなり、アイツを殺したのだ」と言う真犯人に対して、
「嫌われる勇気」を持ったヒロインの刑事がこう述べている。「いい
え、あなたはあの人を殺すという目的を実現するために、『同僚に対す
る同情』という感情を利用したのです。」

じゃあ、この真犯人はどうして「アイツを殺す」という目的をいだくよ
うになったの?と突っ込むのは止しにしよう。こう突っ込めば、「アド
ラーか、ニーチェか」という、先の問いに再び戻ってしまうから。
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