けさ市役所の高齢福祉課から封書が届いた。「敬老祝品在中」とある。開けてみると、1,000円のQUOカードが1枚入っていた。
なんとも複雑な心境である。自分が「敬老」の祝品をもらうほどのジジイになったとは・・・。まだ若い、などとは思っていない私だが、こうもおおっぴらに敬意やら祝意やらを突きつけられると、自分の意識との落差に、なんだかこそばゆい気がしてならない。
ふと昔の出来事を思い出した。あれは私が55、6歳の頃だったと思う。私は東京の秋葉原が始発の快速電車に乗っていた。秋葉原の大きなビルの一室で研究会があり、その帰りのことだった。通勤時間帯でもないのに、車内はそこそこ混んでいて、私はしばらく立ったままだった。疲れてはいなかった。研究会ではずっと座り放しだったから、立っているのがむしろ心地好かったほどである。
ところがである。近くの椅子席に座っていた若い女性が、やおら立ち上がり、「どうぞ」と私に声を掛けたのである。「あ、いえいえ、大丈夫です」と咄嗟に私は返したが、なぜか落ち着かない、居心地の悪い思いをした。気恥ずかしい思いが半分、悲しい思いが半分、といったところだろうか。悲しさは、「ああ、自分もそんな歳になったのか・・・。よほどのジジイに見えたのだろうなあ」という思いから来ていた。
このときの私自身の意識と、「(ジジイに!)見られた自分」との認識のギャップが、けさ市役所(高齢福祉課)からの封書を開けたときに私が感じたそれと、ほとんど変わらなかったのである。
それは最近の胃の不調でも同じことなのだろう。「おかしいな。昔なら薬を飲めばすぐに治ったはずなのに、ちっとも治る気配がない。変だぞ」。
だが、胃痛が治らないのは、それ自体が高齢のなせる業で、この歳ではそれは「変」でも何でもなく、ごく普通のことなのだろう。
それにしても敬老の日、昔は9月15日だったが、今は「9月の第3月曜日」とかで、今年は9月20日だとか。ハッピーマンデー制度でそうなったらしいが、リタイア・ジジイは「毎日がサンデー」状態だから、敬老の日が何曜日になっても、ハッピーかどうかなんて関係ないわな。
なんとも複雑な心境である。自分が「敬老」の祝品をもらうほどのジジイになったとは・・・。まだ若い、などとは思っていない私だが、こうもおおっぴらに敬意やら祝意やらを突きつけられると、自分の意識との落差に、なんだかこそばゆい気がしてならない。
ふと昔の出来事を思い出した。あれは私が55、6歳の頃だったと思う。私は東京の秋葉原が始発の快速電車に乗っていた。秋葉原の大きなビルの一室で研究会があり、その帰りのことだった。通勤時間帯でもないのに、車内はそこそこ混んでいて、私はしばらく立ったままだった。疲れてはいなかった。研究会ではずっと座り放しだったから、立っているのがむしろ心地好かったほどである。
ところがである。近くの椅子席に座っていた若い女性が、やおら立ち上がり、「どうぞ」と私に声を掛けたのである。「あ、いえいえ、大丈夫です」と咄嗟に私は返したが、なぜか落ち着かない、居心地の悪い思いをした。気恥ずかしい思いが半分、悲しい思いが半分、といったところだろうか。悲しさは、「ああ、自分もそんな歳になったのか・・・。よほどのジジイに見えたのだろうなあ」という思いから来ていた。
このときの私自身の意識と、「(ジジイに!)見られた自分」との認識のギャップが、けさ市役所(高齢福祉課)からの封書を開けたときに私が感じたそれと、ほとんど変わらなかったのである。
それは最近の胃の不調でも同じことなのだろう。「おかしいな。昔なら薬を飲めばすぐに治ったはずなのに、ちっとも治る気配がない。変だぞ」。
だが、胃痛が治らないのは、それ自体が高齢のなせる業で、この歳ではそれは「変」でも何でもなく、ごく普通のことなのだろう。
それにしても敬老の日、昔は9月15日だったが、今は「9月の第3月曜日」とかで、今年は9月20日だとか。ハッピーマンデー制度でそうなったらしいが、リタイア・ジジイは「毎日がサンデー」状態だから、敬老の日が何曜日になっても、ハッピーかどうかなんて関係ないわな。