YUKI

言語、言語で表現できることすべて

gate-gate

2005-03-10 18:51:55 | 閑話休題
玄奘三蔵は唯識仏教を求めて天竺(インド)に旅をした。

龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、
「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。
唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加える。
末那識とは深層に働く自我執着心のこと。
阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいう・・・

さて、漢民族である玄奘が、国禁を犯してまで西方のインドで仏教を学んだうえで
経を翻訳したことは中国仏教において非常に大きな意味があり、
日本の仏教にも多大な影響を与えている。
日本で唱えられる般若心経は玄奘訳であることが多いようだ。

しかし、玄奘の時代にもすでに立派な訳は存在しており
西方への旅の途中、玄奘は経を唱えることで病気など含めた幾多のの困難も乗り越えたのである。
とりわけ般若心経、特に「羯諦 羯諦。波羅羯諦。・・・」が効いたという。

この部分は「真言=仏の言葉」で、本来、その意味を詮索しないのが原則だ。
また、この部分は、咒(呪)=陀羅尼でもある。

中国では秘密(言葉では説明できない特殊な霊的能力のある語)のことを咒といったが、
陀羅尼(種々の善法を集め散失させず、悪法をさえぎる力)と
用例が似るところから陀羅尼を咒と訳した。

「羯諦 羯諦」以下は通常の言葉に置き換えて訳すことは不可能とされており、また訳しても意味がないと言われる。
一説にはこの真言を唱えることに意義があり、音そのものに不思議な力があるのだそうだ。
gate gate paragate para-samgate bodhi svaha

私もこの真言は好きで、玄奘が実際にこれで病気を克服したということを知ってからは一層好きになった。
この言葉の裏にある、歴史の重みが好きなのである。

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四苦八苦

2005-03-09 11:01:54 | 閑話休題
四苦は「生老病死」の苦しみ。

生まれた限りは、老いたくなくともいつかは老い、
病気になりたくなくともいつかは病気になり、
死にたく無くともいつかは死なねばならない。
そんな「思いどおりにならない(duhkha)」苦を四苦といいます。

八苦は四苦(生老病死)に、

怨憎会苦(憎い者と会う苦しみ)、
愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五取蘊苦(五盛陰苦・五陰盛苦=迷いの世界として存在する一切は苦しみ)を指します。

およそ、心の平安は人間関係により乱される。
怨憎会苦(憎い者と会う苦しみ)は、辛いものだ。
自分のことを誠実にやっていればよいものを、
悪意を持って、他を陥れることに血道をあげる輩が存在するのは、信じがたいが、事実である。
Get out of my life!

悪も善も相対的なものであろうが、憎いものは憎いと思うのも当然のことである。
憎しみを持つ自分を嫌悪する必要は全くない。



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ナーガールジュナ(Nagarjuna)龍樹

2005-03-09 11:01:04 | 閑話休題
龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。
「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。
また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。
当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。
紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。

さて、1日に何回かは般若心経を唱えているが、「空」は厄介である。
縁起によって成り立つのだから「空」なのだ、という説明があるが、
絶対的「実体」なんか存在しないというのは、この不確実性の時代に生きる者にとって既に皮膚感覚となっており、あまりにも当然の主張であるように感じられる。
閉塞の時代に生きる者にとって「空」とは?

西洋哲学は主張する。
人間存在は、関係の編み目の結節点に解体・消滅する、と。
「空」とどこが違うのか?



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苦(ドゥッカ)、渇愛(タンハー) 

2005-03-09 10:59:00 | 閑話休題
『現実の世界は苦であるという真理』(苦聖諦)は、仏教の根本教説である四聖諦の一番目です。

「苦」は duhkha (ドゥフカ)というサンスクリットを漢訳したもので、原義は「思いどおりにならない」ということです。

「まず信じるところから始めるのではなくて、
事実はどういうことなのかを実際に自分で観察してみる」
ありのままの姿を観察することによって、存在のシステムはどのように成り立っているのか、というこの世の仕組みがわかる。

生命現象とは、最も複雑な物質代謝であろうと考えているが、
「苦」とは、生命・非生命を越えた宇宙の真実なのだろう。

『苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)

(タンハー)とは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。

およそ仏教では「愛」は悪いものだ。
「慈悲」の心が大切なのである。
愛こそすべてと歌い上げているこの現代日本では受け入れがたい思想であろう。
「諦」という字を「あきらめる」の意味で使うのはアジア諸国で日本だけらしい。
本来は「正しく認識する」という意味なのだという。

苦しむために生まれた人間が渇愛を排し、生きていくことはむずかしいことである。


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悟り

2005-03-09 10:58:06 | 閑話休題
仏教の悟りは、中庸による「心の平安」ということになるのであろうが、
「足るを知る」ということは「現状に満足せよ」という弱者・敗者の論理と、どこが違うのか、よく分からなかった。

正岡子規によれば、悟りとは・・・
「いつでもにっこり笑って死んでいけるのが悟りと思っていたが、
どんな状況・境遇でも平気で生きていることが悟りだと思うようになった」と述べたそうだ。
私は、これ以上の悟りの定義を知らない。

「人生の問題は解決しない。端的に、問題そのものが無意味となるだけだ」
とウィトゲンシュタインは述べた。
これもまた、優れた「悟り」の定義であろう。

原始仏教では、悟りを開いた人は神通力を得るとされていた。
「悟り」が存在するのなら「神通力」が存在しても不思議はない。
怪力乱心とまではいかなくても、分別知を越えた無分別知を得たならば、
普通人には考えられないようなパフォーマンスができてもおかしくない。
雀鬼、桜井章一もそうなのかもしれない。



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