玄奘三蔵は唯識仏教を求めて天竺(インド)に旅をした。
龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、
「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。
唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加える。
末那識とは深層に働く自我執着心のこと。
阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいう・・・
さて、漢民族である玄奘が、国禁を犯してまで西方のインドで仏教を学んだうえで
経を翻訳したことは中国仏教において非常に大きな意味があり、
日本の仏教にも多大な影響を与えている。
日本で唱えられる般若心経は玄奘訳であることが多いようだ。
しかし、玄奘の時代にもすでに立派な訳は存在しており
西方への旅の途中、玄奘は経を唱えることで病気など含めた幾多のの困難も乗り越えたのである。
とりわけ般若心経、特に「羯諦 羯諦。波羅羯諦。・・・」が効いたという。
この部分は「真言=仏の言葉」で、本来、その意味を詮索しないのが原則だ。
また、この部分は、咒(呪)=陀羅尼でもある。
中国では秘密(言葉では説明できない特殊な霊的能力のある語)のことを咒といったが、
陀羅尼(種々の善法を集め散失させず、悪法をさえぎる力)と
用例が似るところから陀羅尼を咒と訳した。
「羯諦 羯諦」以下は通常の言葉に置き換えて訳すことは不可能とされており、また訳しても意味がないと言われる。
一説にはこの真言を唱えることに意義があり、音そのものに不思議な力があるのだそうだ。
gate gate paragate para-samgate bodhi svaha
私もこの真言は好きで、玄奘が実際にこれで病気を克服したということを知ってからは一層好きになった。
この言葉の裏にある、歴史の重みが好きなのである。
龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、
「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。
唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加える。
末那識とは深層に働く自我執着心のこと。
阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいう・・・
さて、漢民族である玄奘が、国禁を犯してまで西方のインドで仏教を学んだうえで
経を翻訳したことは中国仏教において非常に大きな意味があり、
日本の仏教にも多大な影響を与えている。
日本で唱えられる般若心経は玄奘訳であることが多いようだ。
しかし、玄奘の時代にもすでに立派な訳は存在しており
西方への旅の途中、玄奘は経を唱えることで病気など含めた幾多のの困難も乗り越えたのである。
とりわけ般若心経、特に「羯諦 羯諦。波羅羯諦。・・・」が効いたという。
この部分は「真言=仏の言葉」で、本来、その意味を詮索しないのが原則だ。
また、この部分は、咒(呪)=陀羅尼でもある。
中国では秘密(言葉では説明できない特殊な霊的能力のある語)のことを咒といったが、
陀羅尼(種々の善法を集め散失させず、悪法をさえぎる力)と
用例が似るところから陀羅尼を咒と訳した。
「羯諦 羯諦」以下は通常の言葉に置き換えて訳すことは不可能とされており、また訳しても意味がないと言われる。
一説にはこの真言を唱えることに意義があり、音そのものに不思議な力があるのだそうだ。
gate gate paragate para-samgate bodhi svaha
私もこの真言は好きで、玄奘が実際にこれで病気を克服したということを知ってからは一層好きになった。
この言葉の裏にある、歴史の重みが好きなのである。