YUKI

言語、言語で表現できることすべて

wonder of being

2007-04-14 18:20:13 | 閑話休題
おどろく(驚く)には、もともと「目が覚める」という意味がありました。
古文の世界だけどね「はっと気がつく」という意味も。
現在は「意外なことに出くわして、心に衝撃を受ける。」
という意味だけれど、英語の wonder に通ずるものがあると思うのです。

ウィトゲンシュタインという哲学者は、
自分自身が存在すること自体が「神秘」に他ならないものと考えていたようです。
抽象名詞ではない、嫌になるくらいの「私」以外には適用され得ない「私」。
なぜ、私が「私」なのか?
彼の哲学は、この問いに答えるというか問いを解消するための試み
つまり、自殺衝動・願望と戦い続けるための仕掛けなのだと解釈しています。

彼が「論理哲学論考」で述べた通り、論理空間においては
可能性は事実なのですから不可能性が証明されないかぎり
可能性…私が「私」であることは「事実」なのです。

「世界とは私の世界である」
「独我論の述べることは正しいが、それは語りえぬことである」

この世界が存在すること自体に驚く瞬間というのは
優れた文学者にはよくあることのようです。

ヴァージニア・ウルフという人は病気のせいもあり、
自分で「存在の瞬間」と呼ぶ現象に悩まされました。
時間感覚が失われ、あらゆる人間的な意味が消滅し、
「物」が物自体として顕れてくる永遠のような瞬間に襲われるのです。
少女ウルフは、雨上がり、水たまりの前で
「存在の瞬間」に襲われ
水たまりを飛び越えられず立ちつくしたそうです。
本人が書いたことですから、多少の脚色があるでしょうけれど
精神を病む人には珍しい症状ではないと思います。
彼女は、この「存在の瞬間」に積極的な意味を見つけ出そうと
悪戦苦闘したようですねぇ。

もともと、意味とは存在そのものとは違うものです。
石は石でしかありませんが、石の「意味」とは
例えば、建築材になるとか凶器になるとか「無意味役立たず」だとか
意味=人間の意志といえるのですね。
石の意味は人間の意志によってかわる、なんちてね。

私も、はっと目が覚めたように
存在することの不思議に襲われます。
文学的にいえば、「無」への烈しい郷愁の為せる技ですねぇ。

「かたちのないもの」にこそ価値がある。「愛」がそうだ、
なんて風なことを聞くことがありますが
「かたちあるもの」がすべて、という通俗性を前提とした
アンチ・テーゼという点において、ものすご~く通俗的なんですなぁ。

固定した「形」はありませんが「愛」にも形はあります。
形になりえない、愛は…存在するのかなぁ。
愛って、見える人には見えるんですよぉ~。

「客観的相関物」とエリオットが、もったいぶった名前をつけました。
主人公の心情を反映する、目に見えるもののことです。

でもね、「孤独におしつぶされる」という表現にあるように
「孤独」は具体的な圧力というか重さとして知覚できるんだなぁ。
「鬱」状態になると実感しちまいますね。

深夜、軽いパニック状態になると「宇宙に一人ぼっち」という
「死」の孤独を実感できるしねぇ。

「かたちなきもの」の「かたちある瞬間」を描く…
これが文学の使命であると思うのです。

言語でのみ構築された世界にひたることは、
言語的存在という側面をもつ人間にとって宿命的に必要なこと。

ウルフのいう「存在の瞬間」は、「人生」という「夢」から
瞬間的に目覚めてしまうことなんでしょう。
水たまりを飛び越えられなかった少女は、老いたウルフとなって
水に飛び込みます plunge into....
彼女にとって文学的創作は治療のためだったということでした。

「夢からさめて、目覚めることはできるのか?」なんて警句があります。
夢から醒めるとは、死ぬことなんですね。
「夢」から醒めて「存在」そのものとなる…
これは語りえぬこと、語った瞬間に無意味になることですなぁ。
「夢」は虚飾ではありません。

「存在におどろく」という「自意識」を持つことにより
人間となったものの、存在のあり方が「夢」なのであって
「夢」は存在そのものではなく「かたち」がありませんが
「かたち」を作り出す力として、けして消えるものではありません。

唯識仏教の指摘するとおり、「識」の存在だけは認めねばならないようにね♪





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