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大小迫 つむぎの家

よみがえれ!大小迫の里山。 人と人、人と自然をつなぎ、つむぐ「つむぎの家」

綾里街道(九十九曲峠) その1

2012年02月20日 | 綾里の自然

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綾里小学校裏手の橋のたもとに立て看板が立っています。昔、ここから川をさかのぼり不動滝路の途中から、九十九曲の峠を越えて隣村の赤崎村に至る唯一の陸路で、平泉藤原氏の時代には塩を運んだ街道であっことが記されています。

綾里側の入り口(不動滝神社:拝殿)から赤崎口(縄文遺跡で有名な大洞貝塚)までの約8kmの山路で、大正7年に就航した「綾里丸」や昭和8年に開通した県道ができるまで、この峠を越えて往来した古道です。

綾里に住みながら一度も通ったことが無かった路を、今回初めて歩いてみました。

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綾里側からの峠への上り口ですが、今では標識もなく、知らないと通り過ぎてしまいます。

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登り口から30分ほど荒れ果てた九十九曲の路を上ってくると、大きな老松が路の脇にそびえています。おそらくここで一休みし、これからの険路に気を引き締め、また、赤崎側から峠を越えてきてもう少しで綾里に着くという安堵の目印だったろうと、過日の旅人達の思いに浸りました。

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老松から10分ほど上ると、林道にぶつかり、その林道を100mほど進むと標識が立っていました。平成8年に「道の日(8月10日)が制定され、それを記念して平成12年に、この古道がここから整備されたそうです。

不動滝の鳥居脇から林道が造られており、今では車でこの登り口まで来れるようになっていることが分かりました。

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登り口からは、路が整備された跡がうかがえ、落葉した灌木越しに冬の日差しが心地よく背中を押してくれました。

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灌木の間からは、綾里の最高峰の大股山(614m)や眼下に綾里川ダムの堰堤が望めました。

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街道には雪も残っていましたが、尾根筋の古道は、かつての人や牛馬の往来の頻繁さを物語るかのように、広くなだらかに窪んでいます。

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林道登り口から15分も歩き振り返ると、樹木の間から綾里の街並みが展望できます。

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そして、古道南側、すぐ隣の山の峰の姿に見覚えがあり、「つむぎの家」の里山の峰が繋がっていたことに驚きました。

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「つむぎの家」の峰と「峠峰」の中間峰に東北電力の電波反射板があり、峠路の途中から行くことができたので寄ってみました。道は雪に覆われており、ところどころ鹿やテン、タヌキの足跡がついていましたが、反射板の近くは風が強く、私たちの足跡のみでした。

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でも、反射板からの眺望は絶景で、大船渡湾が一望でき、湾の向こうには、氷上山(875m)の秀麗が迎えてくれていました。この氷上山は陸前高田の町のシンボルで、震災で消滅した高田松原から眺めた姿と、ここから見る姿がダブって思わず手を合わせて祈りました。

強い北西の風が吹き付けていましたが、復興に向けて歩んでいる大船渡の街を見おろし、春が間近に来ていることを自然が知らせているようでした。


冬の不動滝

2012年02月19日 | 綾里の自然

綾里には「不動滝」という名瀑・名水があります。岩手名水20選にも指定されています。

今回、厳冬の滝を訪れてみました。

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不動滝は、雌滝、雄滝の二つの滝があり、二つの滝に挟まれた中央の岩窟に不動尊が祀られた祠(ほこら)があります。

滝に至る途中は、老木が鬱蒼としており、あたかも仙郷に入るがごとき趣きがあります。

上の写真は、途中の小さな滝ですが、あたかも左上の大木(樹齢300年以上のトチノキ)の根元から湧き出しているかの如くです。

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滝にたどり着いてまず目飛び込んできたのが、全面結氷した雄滝でした。

高さ15mの滝ですが、厳冬にはこのように凍てつき、白い柱の芸術を見せてくれます。

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一方、こちらは雌滝で、すぐ上の老杉(樹齢300年以上)の根元から湧き出しています。この湧き出している清水が、岩手の名水20選に指定されており、私たちもこの清水を汲んできてお茶やコーヒーに愛用しています。

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雌滝の湧水は枯れることなくこんこんと流れ出ていますが、この寒さで岩から浸み出た水が、大きな氷柱となって一面に垂れ下がっていました。

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中央の祠に、いつの時代からか、不動尊が祀ってあります。昔は、元朝参りや旧の端午の節句には参詣人で賑わったそうですが、今は、元朝参りに訪れる人も少なく、この厳冬の時期にはタヌキやテンなどの動物の足跡だけがうっすらと積もった雪道の参道に残っていました。

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それでも、綾里九十九曲峠の入り口近くの鳥居から不動滝までの参道は、石畳で整備されており、落ち葉の敷き詰められた渓谷の小道は、厳寒の季節にもかかわらず温かさがありました。

この不動滝は、海岸から4kmの近さにありますが、幽玄・仙郷の趣きがあり、四季折々の景観と美味しい名水を私たちに与えてくれています。


綾里岬-その2.立石山と藤二大明神-

2012年02月18日 | 綾里の自然

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綾里岬も国立公園内にあり、国及び県の事業で30年ほど前に立石山に園地が造られました。

岬途中の林道から園地に登れるようになり、案内板も作られましたが、今では殆ど登る人は無いようです。

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私たちは、岬突端の綾里灯台から立石山を目指して歩き始めました。

灯台と立石山の中間点に電波灯台が設置され、そこまでは、点検・整備のための道路が造られていました。

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電波灯台からは、わずかに道らしきものが残っていて、千島笹に覆われた尾根道を20分程歩くと、突然視界が開け、はるかかなたに唐桑半島、金華山も望むことができました。この辺りは、昔から広い草原になっており、戦後の開拓で放牧が行われ、今でも夏になると放牧されています。

実は、灯台からの道は、この放牧地の囲いのバラ線で遮断されており、かつての立石山から灯台に通じる道は、ほとんど利用されなくなっていることに、一抹の寂しさを感じました。

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放牧地の中を行くと、見晴らしの良い場所に「あずまや」がありました。人の利用は無くなったようですが、牛の絶好の休み処となっているようです。

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さらに進むと、小高い丘があり、看板が目につきました。藤二大明神の案内板です。

昔、藤二という人がこの立石山に住んでいて、金華山までの見張りをしていたところ、荒波の海中に赤くなっている所を発見し、それを漁師達に伝えたところ、そこで漁をすると必ず大漁になったそうで、その場所を「藤二が根」と言い、今でも定置網漁場の目安になっています。

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横には立派な石造りの鳥居が建っています。

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丘の上には石碑があり、天保12年(1841年)建立と記してあります。旧の3月23日を縁日として、綾里各地区の老若男女がお参りをしていたと言われていますが、今は静かに佇んでいます。

かつては、綾里小学校と中学校では、春か秋の遠足には、必ず立石山に登り、この藤二大明神の近辺の雄大な草原で昼飯をほおばりながら、眼下に広がる太平洋を眺めたものでした。

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藤二大明神から50m程の所に、丸い石がありました。「味噌玉石」と呼ばれています。なるほど、その形は、むかし囲炉裏端に吊るされていた味噌玉にそっくりです。

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味噌玉石からさらに40m程の所に、延寿院跡の看板が立っていました。

宝暦年間(江戸時代中期)には、この地に建てらていたそうで、文政10年(1827年)の延寿院文書には、立石山高林寺と号し、檀家345軒を有し、立石山一体を所有していた旨が書かれていますが、今は建物跡の面影もありません。

ただ、この辺りを掘り返すと、手のひらサイズの薄い石に、摩伽陀経の経文が書かれたものが出てきます。伝えによると、文明3年(1471年、室町時代)に大和国立石村の宥善という人が、この地に摩伽陀経の庵を結んで住んだことから、この山を立石山と呼び、この辺りの原野を摩伽多ケ原と称したそうです。

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延寿院跡からは、灌木の林になり雪が消えずに残っていました。

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山頂の近くに碑があり、三角点かと思って近づいてみると、古い墓のようでした。文字は残念ながらはっきりと読み取れませんでした。

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碑から2分程の所に山頂の三角点がありました。標高359mの高さです。むかし、灯台まで何度か通った道ですが、灯台道は山頂の脇を迂回しており、今回初めて目にしました。

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麓の田浜地区に通じる道です。今は殆ど人が通らず、倒木や藪に覆われていましたが、40年前までは、灯台道として、郵便局員が配達に通い、燈台守の子どもたちが通学した道の名残が残っています。

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ようやく灯台から麓の天照御祖神社にたどり着きました。いろいろ散策しながらの4時間でした。この神社が延寿院を移したもので、天保3年(1832年)に全村民の信仰処として「村社」の称を受け今日に至っています。

麓の田浜地区も震災の影響は大きく、なんと、20mの高さにある神社の拝殿まで、大津波が押し寄せ、鳥居や社務所は跡形もなくなっていました。。

昨年、震災前の2月に岬を徒歩で一周し、一年後の今回は灯台から立石山を縦走してみましたが、三陸の海や山は素晴らしく、何事もなかったかのような表情を見せていましたが、自然の怒りは非情なまでも構築物を呑み込み、なぎ倒し、すざましさを現しました。

でも、地域の人々は、また明日に向かって歩んでいます。立石山や綾里灯台の歴史を胸に刻みながら、明日への一歩をまた踏み出そうと思いました。


震災後の綾里岬-その1.綾里崎灯台-

2012年02月17日 | 綾里の自然

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昨年2月、震災前に綾里岬を一周したのですが、あれから一年が経ちました。その後、どのようになっているのかと思い、綾里岬にいってみました。旧三陸町時代に建てられた案内板は、風雨に晒されながらも立っていました。

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綾里岬は林道があり、車で一周できますが、未舗装の狭い道です。岩盤がしっかりしており、地震による地割れや陥没はありませんが、ところどころ崩れた石がありましたが、車の通行は大丈夫でした。

林道からは太平洋が一望できます。途中、眺望のよい場所から碁石海岸や唐桑半島、遠くには金華山が見えますが、この日はあまり視界がよくなく、わずかに広田半島がかすかに見える状況でした。

でも、眼下の切り立ったリアス式の海岸は、まさに絶景です。

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林道から灯台へ降りる道です。15分ほど降りると灯台に着きます。

昭和40年代までは、燈台守が暮らしていた生活道です。今は、立石山(次回に報告予定)の中腹に電波灯台が建てられ、この灯台道は全く使われなくなりましたが、ところどころ往時の名残がありました。

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綾里崎灯台の全景です。白亜の四角柱の灯台で、三陸沖を航行する船舶の道しるべとしてだけではなく、綾里地域の人々のシンボルでした。

以前は、学校の春の遠足地として訪れ、太平洋を見下ろす白亜の姿に、荒波や風雪に耐える道しるべとして心に刻まれ、焼き付き、人生の中で困難に陥った時に目に浮かんだものです。

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今回訪れたスタッフに、その思いを伝えている一場面です。写真では見えませんが、灯台の側面に太平洋戦争末期に米軍の飛行機から機銃掃射を受けた弾痕が残っております。

古い映画ですが、「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)の<おーいら岬の燈台守は・・・>の歌にある映画のロケにも登場した灯台です。映画では、ほんの一場面に登場しただけですが、この綾里崎灯台を守っていた「燈台守」の子どもが、毎日ここから綾里中学校まで6kmの山道を越えて通ってきたことが思い出され、いま思うとその強靭な精神力・体力に感嘆するばかりです。

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灯台から眺める太平洋は、まさに絶景の限りです。安山岩で出来ている岬は、岩肌も白亜で、緑の松の木とのバランスも素晴らしく、心を和ませてくれます。

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灯台から北方の風景です。対岸の脚崎(すねざき)、その後方に首崎(こうべざき)が望めます。その奥には死骨崎(しこつざき)が連なり、三陸のリアス海岸の醍醐味が味わえます。

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でも、灯台の周囲を見渡すと、枯れた松や雑木の倒木が目につきます。厳冬の時期、葉を落とした木々の姿から、岬の先端の風の強さ、自然の厳しさが伝わってきます。

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灯台守の宿舎跡です。40年前に無人化され、建物跡はコンクリートで覆われておりますが、生活の跡がしのばれます。

塀で囲まれた中は雑草で覆われていましたが、ところどころに鹿の「ぬたば」があり、こんな岬の先端まで鹿が降りてきていることに驚くとともに、ある意味では、完全に無人化した綾里崎灯台を、鹿が守ってくれているのかとの思いが交錯しました。

今では電波灯台が、立石山の中腹に建てられ、灯台としての機能もなくなり、取り壊される運命でしたが、地元の強い要望があり、歴史的建造物として、また私たち綾里で育った者の心のよりどころとして、たたずんでいる姿に力強さを感じています。


氷の造形

2012年01月29日 | 綾里の自然

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田んぼの中の氷の造形ですが、魚が泳いでいるようです。

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冬水田んぼの中に、泥を持ち上げ5階建てビルが建ちました。

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川の中の氷の造形、鳥獣戯画が描かれているようです。

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水たまりの氷。

氷が解けて流れては結び、また凍ると生き物のごとく水の動き感じる氷の造形です。

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緩やかに流れる川で、キラキラとガラスのような輝きを見せる氷の造形。

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勾配のある川の流れで見せてくれた氷の造形。

*「私は骨もなく腕もないが、石も板も使わずに橋をかける。火にも燃えず、水にも沈まない。鏡のようになめらかで、卵の殻のように弱いこともあるが、時には鋼鉄のように強い。母から生まれ食べ物なしに太り、やがて元の母を産む。そして日光を見て涙を流す」氷のなぞなぞをまとめた倉嶋厚氏の言葉。

厳しい冬の寒さの中で見せてくれた氷の造形、冬ならではの自然が作り出した美しさに、心惹かれました。