ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

市長が越えるハードルは

2018-08-10 08:06:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公平を保つ方法」8月3日
 『学テ成績で教員評価 大阪市手当増減を検討』という見出しの記事が掲載されました。大阪市長吉村洋文氏が、『学テの数値目標を設定し、達成状況に応じて教員の手当を増減させる人事評価制度の導入を検討する』と発表したことを報じる記事です。いかにも維新の会らしい発想ですね。そうした意味で驚きはありません。私はもちろん反対の立場です。
 しかし、市長という立場の人が一度やると言った以上、実施されるでしょう。その際の条件を考えてみたいと思います。人事評価制度が教員の指導力向上に資するためには、評価が公平・公正に行われていると教員に思わせることが絶対条件になります。その点で疑念をもたれるようでは、逆効果になってしまいます。
 そのための第一条件が、競争条件の公平さです。例えば、銀行が各支店の業績を評価するとき、立地場所が、住宅街なのか、商業地なのかによって目標とする預金獲得額も貸出額も異なるはずです。もし、そうした条件を無視して同じ目標を設定したとしたら、大きな不満が噴出することでしょう。
 次に結果と責任の明確化です。銀行の例で言えば、預金獲得額が目標を下回った場合、その責任が行員の中の誰にあるのか、誰もが納得する形で明示されていることが必要になります。連帯責任のような形で、自分の努力が無視され、他人のミスや怠惰の責任を押し付けられるようなシステムでは、やる気を掻き立てることなど不可能です。
 そして、評価対象者の選定の公正さです。制度が銀行の全行員を対象としているか、あるいは評価対象者となることのメリットがあるか、評価対象者になるのは希望制か、である必要があります。自分は厳しい評価に曝されているのに、別の行員は目標設定がなくのんびりと仕事をしているというのでは、やってられないよ、という気持ちになってしまいます。それが自分から申し出たことならば文句の言いようがありませんが、何のメリットもなく勝手に対象者にされ低評価を受けるというのではたまったものではありません。
 以上のようなことを教員に当てはめると、まず、学校や学級の置かれた状況をさまざまな条件を勘案して均等化できるのかという問題が浮かび上がります。高学歴・高収入の保護者が集まる地域の学校と生活保護世帯が多数を占める学校とでは、子供の学力に大きな差があるのは常識ですが、どのように目標設定をするのでしょうか。しかも、いじめ自殺事件が発生とか、級友の死亡事故発生、学校管理下での重大事故発生など、子供が動揺し、学力に影響を与える偶発事をどう評価するか、など考えればきりがありません。可能なのでしょうか。
 次に、誰の責任かという点ですが、5年生の学テの場合、4年生の担任の責任を問うのか、現担任か、あるいは入学以降全ての担任の責任を問うのか、もし複数の担任の責任を問うのであれば、その責任の割合はどうなるのか、これも納得のいく答えは難しいでしょう。3年生のときに学級崩壊を起こし、4年生の担任が必死に立て直したものの、授業の充実までには至らなかったケースで、4年生の担任の責任を問うということになれば、不満は収まらないでしょう。
 最後に、もし3年生と5年生の担任(あるいは2年生と4年生)だけが、責任を問われるのだとしたら、その学年を希望する教員は激減するでしょう。もちろん、校内人事権は校長にあり、本人の意向など無視して決定することは可能ですが、そうした軋轢が毎年繰り返されるとなれば、校内の協業の意識は育たなくなってしまい、学校の教育力は大きく低下することになります。
 吉村市長の手腕に注目です。

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