ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

俺は○○だ

2024-09-09 07:33:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「俺は○○だ」9月5日
 近事片々欄に、『「俺は知事だぞ」。それが何か?権威を振りかざし思い通りにしようとする。その傲慢な態度が自らをおとしめている』という言葉がありました。パワハラ言動で百条委員会が設置された兵庫県斎藤知事のことをさした言葉でしょう。
 自分は、○○であるという自覚、それ自体は悪いことではありません。それを公言することも責められるべきこととは限りません。大切なのは、「自分は○○である」の後に、○○として権利を主張するのか、○○であることに伴う義務を自覚するのか、という点です。私は知事だ、だからこそ県民の信頼を得るために李下に冠を正さず、瓜田に靴を入れずの精神で我が身を正していこう、ということであるならば、誰も非難しないはずです。
 学校教育の場にも、ミニ斎藤氏はいました。宴会に遅れて来て、既に飲食が始まっていたことに腹を立て、「校長がくるまで待っているのが常識だろう」と怒鳴った校長。職員旅行の宴席で、自分の前に誰もいないことに腹を立て、校長と教務主任を呼び、「お前たちは俺のお守りをするのが仕事じゃないのか」と喚き、殴りつけた校長。私が教員になった40年以上前には、そんな人物がいたものでした。
 もちろん、彼らは嫌われ、軽蔑されていましたが、本人はそのことに気づかず、自分のことを指導力のある大物校長だと自己満足したまま退職していきました。そんな時代だったのです。しかし、今は違います。校長などの管理職や教委の幹部は、自分の立場を義務や果たすべき責任という観点から認識し直すことが必要です。
 些細なことですが、私は統括指導主事のとき、自分で毎朝のお茶を入れていました。ゴミ捨ても自分でしていました。「統括、私がやります」と言ってくれる人もいましたが、自分のことは自分で、と言って丁重にお断りしました。私の部屋では、先輩だから、指導主事と研究生だから、というような「上下関係」を職務以外のことに持ち込む雰囲気は亡くなりました。
 教員も同じです。「先生だから」と自分は椅子に座ったまま給食が運ばれてくるのを待っているようではいけないのです。子供のことで保護者を学校に読んだとき、「あんたの子供がまた問題を起こして~」ではなく、まず「お忙しい中急にお呼びしてすみません。お仕事は大丈夫でしたか。おいでいただきありがとうございます」という気持ちで接し、第一声を発するようでなくてはなりません。
 相手を尊重すれば、相手も尊重してくれる、相手を見下せば、相手も本心では軽蔑してくる、それは人間関係の常識です。教員がそうした常識を踏まえないようでは、学級経営も対保護者との関係も決してうまくはいかないものです。

 

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