ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私も間違う

2018-08-16 07:48:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「良い教員は保守的」8月9日
 『本来の保守とは』という見出しの特集記事が掲載されました。東京工業大教授中島岳志氏が、安倍首相について語ったものです。その中で中島氏は、『本来の保守は、懐疑的な人間観をもっています。それは他者だけでなく、自分も間違えているかもしれないという人間観です。だから自分とは異なる意見を聞き、合意形成を試み、着地点を見いだしていくことが重要なのです』と語られています。
 全く同感します。だから安倍首相は本当の保守ではない、と話は展開していくのですが、ここではそこに深入りはしません。ただ、この「本来の保守」という概念は、教員にとっても非常に重要なものだということを強調しておきたいと思います。
 自分は完全な人間だと考えるようになると、完全な人間である自分が考える理想は正しく、他の不完全な人間が言っていることは間違いであり、無視するか否定するかしてもよいということになります。教員が、こうした考えに立つとき、絶対者である教員が描いた子供像、学級像というものがあるべき姿として固定されます。そして、それに沿おうとしない子供やその言動は全て「悪いこと」という烙印が押されてしまいます。
 その後にくるものは、はみ出した子供への非難と攻撃、排除でしかありません。こうした教員が、いわゆる普通の指導力しかない場合には、子供も反撃をします。その行き着く先が、学級崩壊です。
 一方、教員が不幸にして「強力な指導力」をもっている場合、子供は全面的に屈服するしかありません。一部の子供は教員の手先となり、教員の支配に協力することで、学級内に自分の居場所を築き上げます。教員に反感を持ち続ける子供の中で、精神的にタフな者は、教員の圧政を堪え忍び、面従腹背で学校生活を乗り越えようとしますが、そこまでのタフさのない子供は、問題行動という形で学校外に生きる場を見いだしていくか、不登校という形で閉じこもるか、最悪の場合は自殺という形で苦しみから逃れようとしていくのです。
 しかし教員が「本来のの保守」であれば、意に添わない子供の言動に直面したとき、自分が間違っているのかもしれないという疑念が生じますから、相手(子供)の話に耳を傾けてみようということになります。そうなれば、教員と子供との間で対話か成立し、その結果、教員が指導を微修正したり、より丁寧な説明や説得が行われたり、目標は変えないままやり方だけを変えるといった対応が取られたりするようになります。そうした学級では、子供たち一人一人が、自分も学級の一員としてこの学級を作っているという自覚が生まれ、できるだけみんなで妥協して一致点を見いだしていこうとする動きが強まります。学級経営の名人といわれる教員は、皆このタイプです。
  つまり、こうあるべき、こうでなければいけない、という決めつけるタイプは、良い教員には向かないということです。教員は、「本来の保守」派でなければならないのです。もちろん、この場合の「保守」は、政治信条や国旗・国歌問題ということとは無関係です。国旗・国歌問題では私と正反対の意見をもっている教員でも、「本来の保守」で学級経営の名人はいましたから。
 残念ながら私は、教員として「本来の保守」派ではなく、安倍首相のような偽物の保守でした。指導力がなかったため、子供を自殺に追い込む事態は避けることができましたが。猛反省です。

 

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