ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

避けずに考える

2024-08-30 08:06:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「タブー?」8月25日
 放送タレント松尾貴史氏が、『目を背けてきたものを見る』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、死体について『公の場で口にすると眉をひそめられ、あるいは聞かなかったことにされがちだ』と書き、『「死」が例外なく誰にも訪れることであるわりに、私たちにとってその現象は遠いものになってしまった』と述べられていました。
 その通りです。私は、2歳になったばかりのころ、父方の祖父を亡くしました。葬儀等の記憶は全くありません。同居していなかった母方の祖父が大学生のときに亡くなり、これが実質的に身近な人の死を体験する初めての機会になりました。次の身近な人の氏の直面したのは、母方の祖母が亡くなったときで、38歳でした。約20年に1回、それも同居していない祖父母の死、そのせいだけではないでしょうが、私は「死」というものをあまり意識することなく生きてきました。
 そんな私ですが、40歳を超えるころから、つれあいの母、父、自分の父、母と立て続けに亡くしました。自分の父母のときには、数年間にわたる介護も経験し、最後は緩和ケアという形で、死を宣告された父母の病床で「死」と向き合い続けました。
 順送りに祖父母、父母を見送り、特に父母の場合、その最期に寄り添えたことは幸せなことだったのかもしれません。でも、そのときの喪失感は今でも思い出すと、体がブルッと震えるような感覚がします。私は、死について何も知らず、準備もなく、覚悟もなく、無防備なまま向き合うことを強いられたのです。
 今の子供たちはどうでしょうか。「死」について知ること、考えることは人生について考えること、人について考えること、生きることについて考えることに他なりません。我が国は、無宗教の国と言われています。それは昔からそうでした。しかし、○○教、○○宗といった明確な形での信仰はなくても、先祖を敬うような素朴な宗教感情は皆がもっていました。でも今は、それさえも薄れてきているように思えます。つまり、「死」はますます遠い存在になっているのではないでしょうか。
 そうであるならば、学校教育の中で「死」について考える、そんな機会を設けるべきです。そうした取り組みは、いじめや自死などの悲しい出来事を減らすことにもつながっていくと考えます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする