1702年の今日(12月14日)は吉良上野介義央 (江戸幕府高家肝煎)の忌日。 <数え62歳>
今日は、記念日「四十七士討ち入りの日、忠臣蔵の日」でもある。赤穂浪士側から見れば、本所の吉良邸に討ち入りし、見事主君の仇討ちを成し遂げた記念すべき日ではある。
1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。この事件により浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
浅野の家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。当時吉良邸内には約150人がいたが、寝込みを襲われ、100人にも及ぶ者が長屋に閉じ込められ、応戦もままならなかった。2時間の戦いの末、吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、赤穂浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
この記念日のことについては以前に私のブログでも採りあげたので見てください。↓
「 四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日 」
一般に、忠臣蔵の「悪役」として有名な吉良上野介義央の評価は芳しくない。しかし義央の領地三河国幡豆郡吉良荘では、義央が1686(貞享3)年に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓などに力を入れたことや人柄から名君として知られており、現在でも地元では非常に慕われている。吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは吉良義央が赤馬に乗って領内を視察したのを期に作られた玩具だとされる。しかし、この話は義央が専ら江戸に居て自らの領地を殆ど訪れた形跡がないことから(領地に入ったことが確認されているのはたった一度のみ)、地元での義央に対する評価というのは悪役の汚名を着せられた領主に対する同情によるところも大であったかもしれない。
吉良 義央は江戸時代前期の高家肝煎。高家のうち、役職に就いている者は「奥高家」と呼ばれ、さらに奥高家から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選び「高家肝煎」とした。俗に「三高」と呼ばれ、吉良家はその一家なのである。通称は左近。官位は従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。官位名をとって吉良上野介と呼ばれることが多い。吉良家は足利一門なので、本姓は清和源氏。したがって正式な名は源義央(みなもと・の・よしひさ)となる。
松の廊下での刃傷は、長矩が義央に賄賂を贈らなかったために、数々の嫌がらせを受けたことによる怨恨によるものとの説をはじめ、さまざまな説があるが、いずれも確かな根拠はなく、永遠の謎である。しかし、原因の十分な究明がなされないまま、長矩が切腹させられたため、さまざまな憶測を呼ぶことになる。
徳川家の公式記録、『徳川実記』には、「吉良は、朝廷、幕府の礼節典故に通じていることではその右に出る者がいなかった。そのため名門大名といえどもみな辞を低くして彼の機嫌をとり、儀式のあるごとに教えを受けた。それゆえ、彼は賄賂をむさぼって莫大な財をなしたという。しかるに内匠頭は少しもへつらうことなく、このたびの接待人を賜っても賄賂を遣わなかったので、吉良はその事を憎み、何事も内匠頭に告げ知らせず」と、あり、享保期の学者、室鳩巣(むろ きゅうそう)は『赤穂義人録』で、「義央自らその能を矜り人に驕る。長矩人となり強硬、ともに屈せず」とあり、早い時期から刃傷の原因が吉良の浅野に対してのいじめであったと言う説が定着していたと推測される。しかし、先に室鳩巣が赤穂事件の後で書いた『赤穂義人録』で吉良悪く、浅野を良いように書いているが、室鳩巣は赤穂浪士を擁護派であり、その反対に荻生徂徠(おぎゅう そらい)など吉良を擁護する立場の者も多くいた。
『徳川実記』にもあるように、諸大名に対して公式の場での礼儀作法を伝授するのは高家の役割であり、当時は、伝授に対して諸大名から金品の謝礼を受けることが慣習的に認められていたことである。こうした収入は、格式は高くても(それに伴って経費も増加する)、実際の収入面では旗本に過ぎない高家にとっては貴重な収入源であったのである。
だから、ここで言うところの高家への金品の謝礼といったものは、今で言うところの不正な賄賂とは少し性格が違うものなのである。
元禄のこの時代の礼儀作法を知らない大名たちに高家のものが、役目の落度のないように指導して、その謝礼をうけとるのだから、賄賂は、その謝礼、や敬意の象徴、好意の示現として、受取られたものであり、むしろ、この時代のこのような慣習に反して、賄賂を怠ったもの者は、反対に高家への、敬意を欠き、好情を無にするものとして、認定さたのは、当然の事と云えたであろう。だから、寧ろ、義央は世問並の当然の事を要求し、長矩は世問並の当然の事をしなかったと云ふ可きであろう。この当時賄賂は、高家といえども収入の低い旗本の貴重な収入源として幕府が認めていたものなのだから・・・、ただ、それを良いことに、やり過ぎはあったかもしれないが、世間並みのことをしなかったら、吉良も面白くはなかっただろう。
1701(元禄14)年3月14日、江戸城松之大廊下で、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、浅野長矩を取り押さえたのが梶川 頼照(かじかわ よりてる)であるが、梶川は、 このときの刃傷事件の仔細を「梶川与惣兵衛日記」に残しており、浅野が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか!」と叫んだという話もこの日記を根拠とするものとされている。
その日記には、梶川 が上野介と当日の勅使の刻限等について会話を交わしているところへ、突然、上野介の後ろから「この間の遺恨を覚えているか!?」と声をかけてきて斬りかかったので驚いたと書かれている。忠臣蔵の芝居などでは刃傷の直前、上野介と内匠頭が口論の上、上野介の罵詈雑言に耐えかねて刃傷に及んだ形になっているが、実際には刃傷の直前、上野介は梶川と会話を交わしていたのであり、内匠頭とは口論などなく、その場には、直接、刃傷を誘発する状況はなかったのである。内匠頭の不可解な行動は、「梶川与惣兵衛日記」でも良くわからない。
結局、浅野長矩が刃傷に及んだ理由は、はっきりとしておらず、多門伝八郎の取調べに対しても長矩自身「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったという。
性格的には、長矩は良く言えば節倹、悪く言えば吝嗇(りんしょく)であったという。それに、長矩は生来短気であったともいわれる。吉良の手当てをした栗崎道有の「栗崎道有記録」には、長矩は癇癪持ちであったことを記しているというし、また長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたともされている。
吉良家は足利家の庶流の名家であり、徳川家との縁も深い。そんな二人の勅使接待のあり方については、普段からかみ合わないところがあり、長矩が勅使接待の費用を節約しすぎて指導役である高家の吉良義央と行き違いを生じたということも十分に考えられる。勅使接待の仕方について、公家や朝廷と幕府との間を取り持つ高家の吉良上野介が納得できないような、様々な行き違いを生じ、倨傲(きょごう)な吉良と短気な浅野という二人の性格的な問題も加わって、そして…こういうことになったのではないかな・・・。しかし、何があろうと、殿中で、いきなり切りかかった長矩が、お咎めを喰うのは当然の事であり、吉良義央には何の非もない。
元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士とその遺児への処分と同時に、吉良家の当主義周にも処分が下された。領地召し上げの上、信濃国高島藩諏訪家にお預けというものであった。この処分は、討ち入りのあったとき命を捨てても親を守るべきところ、そうしなかったのは不届きであるという理由で下されたものである。しかし、義周(当時18歳)は自ら武器をとって応戦したものの、不破数右衛門(一説に武林唯七)に面と背中を斬られてそのまま気絶してしまった。しかし吉良公子と気づかなかったのか、息子には興味はなかったのか、そのまま捨て置かれて首は取られなかったのであるがそれが、不届きという理由で処断されたのである。義周は、配流から3年後に21歳の若さで病死し、名門吉良家は断絶することとなった。
そして、「仮名手本忠臣蔵」によって流布した悪いイメージから、吉良家をとりまく世間の目は冷たく厳しいもので、家臣や領民にも及んだという。
この赤穂浪士の討ち入りをめぐっては長い年月にわたって、賛否両論がたたかわされた。四十六士を「義士」として賞賛した室鳩巣の「赤穂義人録」は討ち入りに対する賛成意見の代表的なものであるが、一方、佐藤直方の「四十六人之筆記」などは、討ち入りを法に反する行為として批判するもので、荻生徂徠も批判している一人である。
以下参考の「忠臣蔵新聞」の以下のページなどには、吉良を擁護する説が書かれている。一見すると良い。
書評忠臣蔵038号-文春新書の岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(5)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/shohyo/shohyo038.htm
再び忠臣蔵ブーム!?(4)-忠臣蔵新聞222
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news222.htm
(画像は、松の廊下:豊国筆・都立中央図書館蔵。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
忠臣蔵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5
Wikipedia - 吉良義央
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉良義央
吉良義央 ー「日本史人物伝」
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/kira_yoshinaka.htm
忠臣蔵新聞
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/newsindex7.htm
吉良の言い分
http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/kira.html
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)-不運の吉良家名君-
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei121.htm
郷土玩具の杜:吉良の赤馬
http://www11.ocn.ne.jp/~popyah/aichi/akauma.htm
その時歴史が動いた「関白」対「源氏長者」~家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2004_07.html#01
室鳩巣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
荻生徂徠 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
不合理ゆえに我信ず: 忠臣蔵の評価(荻生徂徠と室鳩巣)
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2005/07/post_2f93.html
「武士は食わねど・・」 発掘!お金の話 - gooマネー
http://money.goo.ne.jp/column/story/06/index0608.html
今日は、記念日「四十七士討ち入りの日、忠臣蔵の日」でもある。赤穂浪士側から見れば、本所の吉良邸に討ち入りし、見事主君の仇討ちを成し遂げた記念すべき日ではある。
1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。この事件により浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
浅野の家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。当時吉良邸内には約150人がいたが、寝込みを襲われ、100人にも及ぶ者が長屋に閉じ込められ、応戦もままならなかった。2時間の戦いの末、吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、赤穂浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
この記念日のことについては以前に私のブログでも採りあげたので見てください。↓
「 四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日 」
一般に、忠臣蔵の「悪役」として有名な吉良上野介義央の評価は芳しくない。しかし義央の領地三河国幡豆郡吉良荘では、義央が1686(貞享3)年に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓などに力を入れたことや人柄から名君として知られており、現在でも地元では非常に慕われている。吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは吉良義央が赤馬に乗って領内を視察したのを期に作られた玩具だとされる。しかし、この話は義央が専ら江戸に居て自らの領地を殆ど訪れた形跡がないことから(領地に入ったことが確認されているのはたった一度のみ)、地元での義央に対する評価というのは悪役の汚名を着せられた領主に対する同情によるところも大であったかもしれない。
吉良 義央は江戸時代前期の高家肝煎。高家のうち、役職に就いている者は「奥高家」と呼ばれ、さらに奥高家から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選び「高家肝煎」とした。俗に「三高」と呼ばれ、吉良家はその一家なのである。通称は左近。官位は従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。官位名をとって吉良上野介と呼ばれることが多い。吉良家は足利一門なので、本姓は清和源氏。したがって正式な名は源義央(みなもと・の・よしひさ)となる。
松の廊下での刃傷は、長矩が義央に賄賂を贈らなかったために、数々の嫌がらせを受けたことによる怨恨によるものとの説をはじめ、さまざまな説があるが、いずれも確かな根拠はなく、永遠の謎である。しかし、原因の十分な究明がなされないまま、長矩が切腹させられたため、さまざまな憶測を呼ぶことになる。
徳川家の公式記録、『徳川実記』には、「吉良は、朝廷、幕府の礼節典故に通じていることではその右に出る者がいなかった。そのため名門大名といえどもみな辞を低くして彼の機嫌をとり、儀式のあるごとに教えを受けた。それゆえ、彼は賄賂をむさぼって莫大な財をなしたという。しかるに内匠頭は少しもへつらうことなく、このたびの接待人を賜っても賄賂を遣わなかったので、吉良はその事を憎み、何事も内匠頭に告げ知らせず」と、あり、享保期の学者、室鳩巣(むろ きゅうそう)は『赤穂義人録』で、「義央自らその能を矜り人に驕る。長矩人となり強硬、ともに屈せず」とあり、早い時期から刃傷の原因が吉良の浅野に対してのいじめであったと言う説が定着していたと推測される。しかし、先に室鳩巣が赤穂事件の後で書いた『赤穂義人録』で吉良悪く、浅野を良いように書いているが、室鳩巣は赤穂浪士を擁護派であり、その反対に荻生徂徠(おぎゅう そらい)など吉良を擁護する立場の者も多くいた。
『徳川実記』にもあるように、諸大名に対して公式の場での礼儀作法を伝授するのは高家の役割であり、当時は、伝授に対して諸大名から金品の謝礼を受けることが慣習的に認められていたことである。こうした収入は、格式は高くても(それに伴って経費も増加する)、実際の収入面では旗本に過ぎない高家にとっては貴重な収入源であったのである。
だから、ここで言うところの高家への金品の謝礼といったものは、今で言うところの不正な賄賂とは少し性格が違うものなのである。
元禄のこの時代の礼儀作法を知らない大名たちに高家のものが、役目の落度のないように指導して、その謝礼をうけとるのだから、賄賂は、その謝礼、や敬意の象徴、好意の示現として、受取られたものであり、むしろ、この時代のこのような慣習に反して、賄賂を怠ったもの者は、反対に高家への、敬意を欠き、好情を無にするものとして、認定さたのは、当然の事と云えたであろう。だから、寧ろ、義央は世問並の当然の事を要求し、長矩は世問並の当然の事をしなかったと云ふ可きであろう。この当時賄賂は、高家といえども収入の低い旗本の貴重な収入源として幕府が認めていたものなのだから・・・、ただ、それを良いことに、やり過ぎはあったかもしれないが、世間並みのことをしなかったら、吉良も面白くはなかっただろう。
1701(元禄14)年3月14日、江戸城松之大廊下で、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、浅野長矩を取り押さえたのが梶川 頼照(かじかわ よりてる)であるが、梶川は、 このときの刃傷事件の仔細を「梶川与惣兵衛日記」に残しており、浅野が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか!」と叫んだという話もこの日記を根拠とするものとされている。
その日記には、梶川 が上野介と当日の勅使の刻限等について会話を交わしているところへ、突然、上野介の後ろから「この間の遺恨を覚えているか!?」と声をかけてきて斬りかかったので驚いたと書かれている。忠臣蔵の芝居などでは刃傷の直前、上野介と内匠頭が口論の上、上野介の罵詈雑言に耐えかねて刃傷に及んだ形になっているが、実際には刃傷の直前、上野介は梶川と会話を交わしていたのであり、内匠頭とは口論などなく、その場には、直接、刃傷を誘発する状況はなかったのである。内匠頭の不可解な行動は、「梶川与惣兵衛日記」でも良くわからない。
結局、浅野長矩が刃傷に及んだ理由は、はっきりとしておらず、多門伝八郎の取調べに対しても長矩自身「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったという。
性格的には、長矩は良く言えば節倹、悪く言えば吝嗇(りんしょく)であったという。それに、長矩は生来短気であったともいわれる。吉良の手当てをした栗崎道有の「栗崎道有記録」には、長矩は癇癪持ちであったことを記しているというし、また長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたともされている。
吉良家は足利家の庶流の名家であり、徳川家との縁も深い。そんな二人の勅使接待のあり方については、普段からかみ合わないところがあり、長矩が勅使接待の費用を節約しすぎて指導役である高家の吉良義央と行き違いを生じたということも十分に考えられる。勅使接待の仕方について、公家や朝廷と幕府との間を取り持つ高家の吉良上野介が納得できないような、様々な行き違いを生じ、倨傲(きょごう)な吉良と短気な浅野という二人の性格的な問題も加わって、そして…こういうことになったのではないかな・・・。しかし、何があろうと、殿中で、いきなり切りかかった長矩が、お咎めを喰うのは当然の事であり、吉良義央には何の非もない。
元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士とその遺児への処分と同時に、吉良家の当主義周にも処分が下された。領地召し上げの上、信濃国高島藩諏訪家にお預けというものであった。この処分は、討ち入りのあったとき命を捨てても親を守るべきところ、そうしなかったのは不届きであるという理由で下されたものである。しかし、義周(当時18歳)は自ら武器をとって応戦したものの、不破数右衛門(一説に武林唯七)に面と背中を斬られてそのまま気絶してしまった。しかし吉良公子と気づかなかったのか、息子には興味はなかったのか、そのまま捨て置かれて首は取られなかったのであるがそれが、不届きという理由で処断されたのである。義周は、配流から3年後に21歳の若さで病死し、名門吉良家は断絶することとなった。
そして、「仮名手本忠臣蔵」によって流布した悪いイメージから、吉良家をとりまく世間の目は冷たく厳しいもので、家臣や領民にも及んだという。
この赤穂浪士の討ち入りをめぐっては長い年月にわたって、賛否両論がたたかわされた。四十六士を「義士」として賞賛した室鳩巣の「赤穂義人録」は討ち入りに対する賛成意見の代表的なものであるが、一方、佐藤直方の「四十六人之筆記」などは、討ち入りを法に反する行為として批判するもので、荻生徂徠も批判している一人である。
以下参考の「忠臣蔵新聞」の以下のページなどには、吉良を擁護する説が書かれている。一見すると良い。
書評忠臣蔵038号-文春新書の岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(5)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/shohyo/shohyo038.htm
再び忠臣蔵ブーム!?(4)-忠臣蔵新聞222
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news222.htm
(画像は、松の廊下:豊国筆・都立中央図書館蔵。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
忠臣蔵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5
Wikipedia - 吉良義央
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉良義央
吉良義央 ー「日本史人物伝」
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/kira_yoshinaka.htm
忠臣蔵新聞
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/newsindex7.htm
吉良の言い分
http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/kira.html
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)-不運の吉良家名君-
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei121.htm
郷土玩具の杜:吉良の赤馬
http://www11.ocn.ne.jp/~popyah/aichi/akauma.htm
その時歴史が動いた「関白」対「源氏長者」~家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2004_07.html#01
室鳩巣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
荻生徂徠 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
不合理ゆえに我信ず: 忠臣蔵の評価(荻生徂徠と室鳩巣)
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2005/07/post_2f93.html
「武士は食わねど・・」 発掘!お金の話 - gooマネー
http://money.goo.ne.jp/column/story/06/index0608.html