今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

紙の記念日

2006-12-16 | 記念日
今日(12月16日)は、「紙の記念日」
1875(明治8)年の今日(12月16日)、東京・王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始した。
抄紙会社は実業家・渋沢栄一が大蔵省紙幣寮から民間企業として1873(明治6)年に、独立させたもので、(旧)王子製紙の前身となった。
王子製紙株式会社とは、東京都中央区銀座四丁目に本社をおく総合製紙会社である。
1893(明治26)年、創業地(現・東京都北区王子)の地名を冠し(旧)
王子製紙株式会社に名称を変更。 戦前、戦中、主に北海道、樺太に生産拠点を拡大した。
この前後、国内洋紙生産の80%のシェアを誇ていたが、 敗戦に伴い樺太の生産拠点を失う。戦後の1949(昭和24)年、(旧)王子製紙は過度経済力集中排除法により、苫小牧製紙(苫小牧工場)・本州製紙・十條製紙(後の日本製紙)に分割された。 1952(昭和27)年、苫小牧製紙を「王子製紙工業」に改称。 1960(昭和35)年、「王子製紙株式会社」に改称した。 その後、1970(昭和45)年、北日本製紙、1979(昭和54)年、日本パルプ工業、1989(平成元)年、東洋パルプを合併。 そして、1993(平成 5)年には、神崎製紙(神崎工場、富岡工場)と合併。同時に「新王子製紙株式会社」と改称したが、 1996(平成 8)年、本州製紙と合併し、社名は再度、「王子製紙株式会社」に戻る。 その後、2001(平成13)年以降、王子板紙、王子ネピア、王子特殊紙などの分社化を逐次実施。
そして、世間を賑わせたのが、今年・2006(平成18)年8月、業界第5位の北越製紙経営統合を目的に8月には敵対的買収(TOB)の動きを見せた事である。もし、経営統合が実現すれば世界5位の製紙会社になるはずだったが、北越製紙の三菱商事との提携や日本製紙の介入、さらに北越銀行など地元企業がTOBに応じないことを発表した上、株価がTOBの価格を上回っていることから、8月27日北越製紙の株式公開買い付け成立は困難であるとして、同社との経営統合を断念した。
この報道があったとき、世間は、半ばタブー視されていた敵対的買収をこのような名門の大企業までもが実行しようとしたことに驚かされたが、最近のM&A(合併・買収)の潮流を見ていれば、今の時代は、何時、どの業界でこのようなことがおころうとも不思議ではないといえるだろう。
「なぜ王子製紙は北越製紙との経営統合を選択したのか…」といったことなどは、以下を見られると良くわかるだろう。
財界保守本流・王子製紙の敵対的買収がもたらした教訓 - ビジネス
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/news/060905_oji/
紙の起源は、約5000年前の、古代エジプトで使われたパピルス(Paper の語源である)だと言われている。パピルスは紙の一種であるが、植物繊維から作る今の紙とは違うものである。 現在のの原形となったものは、紀元前2世紀ごろ、中国の漢の時代に発明されたものと考えられている。中国で発明された紙づくりの技術は、交易などを通じて東西へ広まった。西は、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、そこから西進して西域からヨーロッパに伝わった。
このように中国の紙がシルクロードを通って長い年月を経て欧米に伝わり、さらに遅く、わが国に洋紙技術が伝わり、(西洋紙)生産が初めて行われたのは19世紀後半のわが国に欧米から洋紙技術(製法)が渡来し、わが国最初の洋紙生産を東京で有恒社というところで開始(機械抄紙の始まり)されたのが、1874(治7)年のことだそうで、その翌・1875(明治8)年の今日(12月16日)、東京・王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始したのである。
製紙技術そのものの日本への伝来は、地理的条件から、ヨーロッパへの伝来と比較して500年以上も早い。日本に紙の作り方を伝えたのは5世紀ごろ、高句麗(現在の北朝鮮)からやって来た、曇徴(どんちょう)という僧といわれている。『日本書紀』には、曇徴によって、紙漉きと墨の製法と、紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ための石臼が伝えられたと書かれているという。イスラム世界への伝来より、140年も前の事であるが、当時製紙法は、国家機密でもあったというから、高句麗からの技術の伝達は同国との信頼の証でもあり、日本が古くから、朝鮮半島と交流があったことを実証している。『日本書紀』での記録がわが国での製紙の最初の記録であり、曇徴は「紙の祖」とされるそうだ。
わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は702 (大宝 2)年のもので、…正倉院に伝わる美濃、筑前、豊前の戸籍用紙だという。このころの主要な製紙原料はコウゾ(当時は穀(こく)といった)、ガンピ(斐(ひ))、アサまたは麻布の3種だそうだ。(原材料別による紙の種類参照)
江戸時代には、コウゾやミツマタなどの皮を原料とする「手すき和紙」の作られる量が増え、庶民の手にも広く行き渡るようになった。和紙は強さと美しさの点ですぐれており、浮世絵や屏風絵から、障子やふすま、傘や提灯など洋紙が現れるまで、生活のいろいろな場で活躍していた。その後、明治維新をきっかけに製紙技術が西洋から日本に入ってきて、1880年代には国民の生活にも洋風のものが取り入れられ新聞や本の発行も盛んになり、1889(明治22)年には、日本で初の木材パルプの生産(王子製紙・気田工場)がされるようになった。そして、1903(明治36)年、小学校の教科書用紙(国指定)を、明治5年以来の手漉き和紙から洋紙(手漉きから機械漉きへ)へと変更になり、これを期に、わが国でも拡大する紙の消費とともに、洋紙の生産が本格化し増加していくが、反面それまでの伝統的な和紙生産が次第に減少してゆくこととなる。1912(明治45)年には、洋紙の生産と消費が和紙と肩をならべるようになり、それ以降、和紙を追い越し洋紙の時代となる。欧米から伝わった洋紙(西洋紙)に対する日本製の紙「和紙」は薄くかつ強靭で寿命が比較的長く、風合いが美しいのが特徴。しかし、洋紙と比べて品質的には優れている反面、生産性が低いために価格が高く、結果として、次第に、工芸品の材料・家具の部材など一部の用途にしか使用されなくなってゆくのであった。 
また、その後の印刷術が完成すると、大量の出版物が出されるようになり紙の需要は急増していった。近代では木材のパルプから工業的に紙を大量生産する方法が確立し、一般的な情報の記録・伝達媒体として現代文明を支えてきた。
しかし、現在ではコンピューターの導入によってペーパーレス化が進んでいるほか、また環境問題に関連して森林保護の目的で紙の消費抑制やリサイクルの動きも進められている。
現在、世界の製紙会社の上位10社のうち、半分を米国の製紙会社が占めており、日本の製紙会社では、王子製紙が7位、日本製紙グループ本社が10位となっている。
中国をはじめ各地で製紙工場による環境汚染問題が報道されているようであり(以下参考の「EICネット[環境Q&A - 「製紙工場の環境汚染リスクは」」など参照のこと)、グローバル化した今の世界で、生き延びてゆくためには、日本の製紙業界の名門も超えなければいけない難関が多く有るだろうね~。
(画像は、和紙を用いた折鶴。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
王子製紙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AD%90%E8%A3%BD%E7%B4%99
紙への道
http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/
和紙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%B4%99#.E5.8E.9F.E6.9D.90.E6.96.99.E5.88.A5.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E7.B4.99.E3.81.AE.E7.A8.AE.E9.A1.9E日本紙パルプ商事株式会社・パルプ及び加工品のランキング, (資料:RISI)
http://www.kamipa.co.jp/data/kaigai_05.html
EICネット[環境Q&A - 「製紙工場の環境汚染リスクは」
http://www.eic.or.jp/qa/?act=view&serial=16365
紙のミステリー
http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/paper4.htm
曇徴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%87%E5%BE%B4