12月1日「鉄の記念日」
日本鉄鋼連盟が1958(昭和33)年に制定。1857(安政4)年の今日(12月1日)、岩手県の釜石高炉(現在の新日鉄釜石製鉄所)が操業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった。
釜石鉱山は地図(橋野高炉跡 [遺跡・史跡] -観光案内参照)上で見ると釜石市大橋(JR最寄り駅は陸中大橋駅)にある。岩手県釜石市橋野町には橋野高炉跡という国指定の史跡がある。この史跡は大島高任(おおしまたかとう)がわが国最初の洋式高炉による銑鉄の製造に成功した高炉のうち3座が遺跡として保存されている。橋野高炉跡入口にある看板には、「この史跡は、大島高任の技術指導によって大橋の地に安政4年に三座の様式高炉が築造され12月1日(鉄の記念)に初出銑に成功した翌5年に築造された三座である。・・・以下略」と書かれている。(以下参考の「近代の夜明け」参照のこと)
ヨーロッパでは、近世技術の父とも言われるG・アグリコラは医者として薬草や鉱物の研究を進めるうち、鉱山学・金属学に深い関心を持ち、ついに大著『デ・レ・メタリカ』(鉱山冶金につい))をあらわした。そして、この本が公刊された1556年ころから、西欧先進諸国では”鉱山業がなくては技術も存在しない”といった産業技術思想が高まりだしていた。
日本でも、16-17世紀ともなると、鉱山業の奨励策が盛んに打ち出されてくる。南部藩(岩手県)に生まれた本草家・阿部将翁(あべしょうおう、友之進)は、薬草・薬石の調査と最終のため諸国遍歴中、磁針の狂ったことから釜石鉱山大橋で、磁鉄鉱を発見したという記録(1727=享保12年)をのこしているという。将翁が活動を終えた18世紀半ばになると、金属の生産や用途に対する社会的な関心が非常に高まっていた。たとえば、1754(宝暦4)年一般読書人向けにまとめられた平瀬徹斉著、長谷川光信挿画『日本山海名物図会』(刊行:1797年)の巻一は、全て金・銀・銅・鉛・鉄の鉱山冶金の紹介にあてられ(以下参考の「日本山海名物図会」参照のこと)、さらに、1784(天明4)年には、江戸期最高の製鉄技術(近世たたら製鉄法)の古典ともいうべき『鉄山必要記事』(『鉄山秘書』の名で知られる)が伯耆(ほうき)国(現鳥取県)の鉄山師・下原重仲(しげなか)によって書かれている。
前者の鉄山の箇所には「鉄蹈鞴(てつのたたら)」と題した、いわゆる「たたら吹き」の絵があり、「鉄をふくには、ふいごにて湯になりがたし。故にたたらにかけて湯にわかすなり。歌。ひとすぢに はげむ心の力なり まがねもついに 湯とぞなりける。 まがねふく しずのいとなみ いとなまや 身のいたづきも 思いしらずて」。・・・の解説があるという。(朝日百科「日本の歴史」より)
生産現場の紹介に古歌をそえるなんて、心憎い配慮である。昔の人の民衆への配慮の心意気が伝わってくるよね~。江戸時代中期には、すでに、人の生活の中に鉄の占める役割が重要となっていたことが伺える。
釜石高炉の発見・操業開始以降の歴史などについては、以下参考の「釜石市立鉄の歴史館」や「いわての鉱山史」などの詳しく書かれているので、そこで見られるとよい。
日本への鉄文化の流入は、稲作と共に大陸から渡ってきた。始めは原始的な野だたら製鉄から、やがてシーソーのように動く天秤の仕組みを応用した天秤フイゴで大きな飛躍を遂げ、釜石鉄山の大橋での大島高任の洋式高炉でほぼ完成した。現在でも大まかな仕組みは、高任の設計した洋式高炉とほぼ変らないようだ。
幕末に日本各地に反射炉が作られたのは、19世紀になって強まってきた西欧列強の軍事的圧力、直接的には 1853年のペリー来航を契機に大砲を鋳造しようとしたためであった。大島高任もはじめ水戸藩で反射炉を使って大砲を鋳造しようとしたが失敗し、国産銑(銑=ずく。「銑鉄(ずくてつ)」の略。銑鉄(せんてつ)の俗称)を原料とする大砲の鋳造をあきらめ、南部藩に帰藩して洋式高炉による製鉄にとりくんだのだという。
明治維新になり、新政府によって新国家が形成され、殖産興業など新生日本の国策により、官営釜石製鉄所が1874(明治7)年に起工、1880(明治13)年に操業を開始したが操業に失敗した。そして、同明治13年に、近代資本主義を育成するために公布された「工場払下概則」によって民営へ引き継がれ、高任の思想を生かし製鉄所を再興して操業を成功させ、釜石製鉄所の基礎を築いたのが海軍御用商人であった田中長兵衛をはじめとする田中製鉄所の人々で、その後、多くの人の操業への2年近くの挑戦が繰り返された。1917(大正6)年会社組織となり、田中鉱山株式会社が発足したが、第1次世界大戦後の不況・恐慌で経営悪化に追い込まれ、資金難から三井鉱山株式会社に譲渡。1924(大正13)年社名を釜石鉱山株式会社とした。又、明治政府は、「殖産振興、富国強兵」をスローガンに1896(明治29)年、「製鉄所官制」を発布、1901(明治34)年に、八幡村に官営製鐵所が誕生した。
第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、1934(昭和9)年1月29日に日本製鉄株式会社法により、官営製鐵所・九州製鋼株式会社・輪西製鐵株式会社・釜石鉱山株式会社・富士製鋼株式会社・三菱製鐵株式会社・東洋製鐵株式会社の官民合同で日本製鐵株式会社を設立した。
1945(昭和20)年第二次世界大戦敗戦後、当時の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官、ダグラス・マッカーサーの指示のもと行われた財閥解体を実施するための法律「過度経済力集中排除法」が1947(昭和22) 年に公布され、1950(昭和25)同法により解体され、八幡製鐵株式會社(この時官営製鐵所の名称が八幡製鐵所へと変更)・富士製鐵株式會社・日鐵汽船株式會社(現・新和海運株式会社)・播磨耐火煉瓦株式會社(現・黒崎播磨株式会社)に分かれたが、1970(昭和45)年 、八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社とが再度合併し、新日本製鐵株式會社として設立された。この再合併に際しては、あまりにも業界内で大きな企業が出現することとなるとして、是非について経済界で大きな議論を巻き起こした。
この新日鉄の“鉄”という漢字の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、本多光太郎は「鐵は金の王なる哉」と評した。しかし現行字体では偏と旁を分けると「金を失う」とも読めるため、あえて旧字体の“鐵”を商号に使用している。江戸時代の思想家三浦梅園(、みうらばいえん)は、「金とは五金(金、銀、銅、鉛、鉄)の総称なり、五金の内にては鉄を至宝とす。如何となれば鉄その価、廉にして、その用広し。民生一日も無くんば有るべからず」と記しているが、現在最も広範に利用されている金属であることを考えると、正鵠(せいこく)を射た説ともいえる。
以下参考の「いわての鉱山史」によれば、第二次世界大戦中、釜石製鉄所と大橋鉄山をもつ釜石は、資源を自給できる貴重な軍需工場地帯であったため英米軍の攻撃を受け、製鉄所も壊滅的な打撃を受け、高炉11基が破壊され、製銑、製鋼工場は実にその9割以上を失たそうだが、戦後の朝鮮戦争特需で鉄鋼生産が爆発的な伸びたことで再度成長の基盤を確立した。そして、1960(昭和35)年には従業員8,000人を抱える大工場となった釜石製鉄所は、1962(昭和37)年には鉄鋼不況によって40日間高炉封印を行ったほか、中型工場の廃止、7年間で1,700人を他製鉄所に配置転換などの体質改善・合理化を進めている。さらに1967(昭和42)年には1,000人に大規模人員削減を行い、八幡・富士の両社が再び合併して新日本製鐵となった1970(昭和45)年以降も合理化を進め、1975(昭和50)年には大型・線材工場の一時休止を行っている。このころの従業員は4,169人と15年間で半減、さらに1980(昭和(55)年には3,312人となっている。その後も、円高と世界的不況で事態は好転せず、鉄鋼業は海外立地などで国内空洞化が進み、新日本製鐵は八幡・名古屋・君津・大分への高炉集中と室蘭・釜石・広畑・境の高炉休止を決定、釜石は線材工場のみ280人体制とすることが決まった。そして、1989(平成元)年、高炉の全面休止によって、釜石製鉄所の歴史に終止符が打たれた。
新日鉄事態は、今でも、日本における粗鋼生産量のシェアは3割以上の3,000万トン以上を占め、業界首位。世界シェアでもアルセロール・ミッタルに次ぐ第2位である。高級鋼材などの技術水準の高さには定評があり、業界を代表する鉄鋼メーカーである。
かって日本の産業を支えてきた、炭鉱や鉄鋼、造船など特定の一社の企業の事業所や工場など地域の産業の大部分を占める都市を企業城下町と呼ぶが、それは、企業の盛衰が都市の盛衰に直結するようなことから呼ばれたものである。釜石市もその企業城下町である。
かつて人口は9万人を超えることもあったが、製鉄所の高炉閉鎖に伴い人口が激減している(43,067人:2006年9月末現在)。
杜撰な市の財政運営から深刻な財政難に陥り深刻な問題を引き起こしている夕張市も、北海道の中央部に位置する、かつては石狩炭田の中心都市として栄えたところであった。1990年に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山。元々炭鉱により開かれた町であり、大規模な農業にも向かない地域であった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく人口が激減したところである。財政運営の失敗は、批判されてしかるべきことではあるが、かっての企業城下町は大同小異皆寂れてしまっており、これらの企業城下町に対して、なんのフォローもしてこなかった国のも責任はないのであろうか。ただ、市の力だけでやれといっても出来るところと出来ないところがあるように思うのだが・・・。この問題は、これからの地方分権化に係る問題である。優良な企業が優秀な人材が若者達が全て繁栄しているところへ集中している状況で、取り残された地域が全て自前で上手くやっていけると思っているのだろうか。このブログを書きながらつい、そんなことを考えてしまった。
(画像は、釜石鉱山の大橋高炉見取り図。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
日本鉄鋼連盟
http://www.jisf.or.jp/
釜石市立鉄の歴史館
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/
いわての鉱山史
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/kouzan/
新日本製鐵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A3%BD%E9%90%B5
鉄-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84
反射炉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89
近代製鉄の夜明け
http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/marc4/iwate/seitetu/index.html
【経済】 大島高任
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/takatou.html
橋野高炉跡 [遺跡・史跡] -観光案内(地図)"858年(安政5)建造。現存する日本最古の洋式高炉遺跡。 "
http://domestic.travel.yahoo.co.jp/bin/tifdetail?no=jtbb0603121
最初の地学書:アグリコラの『地下の事物の起源と原因について』(1546年)
http://www.geocities.co.jp/technopolis/9866/agricola.htm
あべ-しょうおう ―しやうをう 【阿部将翁】
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B0%A4%C9%F4&kind=jn&mode=0&base=1&row=2
日本山海名物図会
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/index.html
企業城下町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
セブンアンドワイ - 本 - 現代語訳鉄山必用記事
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=30849599
夕張市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E5%BC%B5%E5%B8%82
夕張市財政再建
http://www.city.yubari.hokkaido.jp/cgi-bin/odb-get.exe?wit_template=AM020000
日本鉄鋼連盟が1958(昭和33)年に制定。1857(安政4)年の今日(12月1日)、岩手県の釜石高炉(現在の新日鉄釜石製鉄所)が操業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった。
釜石鉱山は地図(橋野高炉跡 [遺跡・史跡] -観光案内参照)上で見ると釜石市大橋(JR最寄り駅は陸中大橋駅)にある。岩手県釜石市橋野町には橋野高炉跡という国指定の史跡がある。この史跡は大島高任(おおしまたかとう)がわが国最初の洋式高炉による銑鉄の製造に成功した高炉のうち3座が遺跡として保存されている。橋野高炉跡入口にある看板には、「この史跡は、大島高任の技術指導によって大橋の地に安政4年に三座の様式高炉が築造され12月1日(鉄の記念)に初出銑に成功した翌5年に築造された三座である。・・・以下略」と書かれている。(以下参考の「近代の夜明け」参照のこと)
ヨーロッパでは、近世技術の父とも言われるG・アグリコラは医者として薬草や鉱物の研究を進めるうち、鉱山学・金属学に深い関心を持ち、ついに大著『デ・レ・メタリカ』(鉱山冶金につい))をあらわした。そして、この本が公刊された1556年ころから、西欧先進諸国では”鉱山業がなくては技術も存在しない”といった産業技術思想が高まりだしていた。
日本でも、16-17世紀ともなると、鉱山業の奨励策が盛んに打ち出されてくる。南部藩(岩手県)に生まれた本草家・阿部将翁(あべしょうおう、友之進)は、薬草・薬石の調査と最終のため諸国遍歴中、磁針の狂ったことから釜石鉱山大橋で、磁鉄鉱を発見したという記録(1727=享保12年)をのこしているという。将翁が活動を終えた18世紀半ばになると、金属の生産や用途に対する社会的な関心が非常に高まっていた。たとえば、1754(宝暦4)年一般読書人向けにまとめられた平瀬徹斉著、長谷川光信挿画『日本山海名物図会』(刊行:1797年)の巻一は、全て金・銀・銅・鉛・鉄の鉱山冶金の紹介にあてられ(以下参考の「日本山海名物図会」参照のこと)、さらに、1784(天明4)年には、江戸期最高の製鉄技術(近世たたら製鉄法)の古典ともいうべき『鉄山必要記事』(『鉄山秘書』の名で知られる)が伯耆(ほうき)国(現鳥取県)の鉄山師・下原重仲(しげなか)によって書かれている。
前者の鉄山の箇所には「鉄蹈鞴(てつのたたら)」と題した、いわゆる「たたら吹き」の絵があり、「鉄をふくには、ふいごにて湯になりがたし。故にたたらにかけて湯にわかすなり。歌。ひとすぢに はげむ心の力なり まがねもついに 湯とぞなりける。 まがねふく しずのいとなみ いとなまや 身のいたづきも 思いしらずて」。・・・の解説があるという。(朝日百科「日本の歴史」より)
生産現場の紹介に古歌をそえるなんて、心憎い配慮である。昔の人の民衆への配慮の心意気が伝わってくるよね~。江戸時代中期には、すでに、人の生活の中に鉄の占める役割が重要となっていたことが伺える。
釜石高炉の発見・操業開始以降の歴史などについては、以下参考の「釜石市立鉄の歴史館」や「いわての鉱山史」などの詳しく書かれているので、そこで見られるとよい。
日本への鉄文化の流入は、稲作と共に大陸から渡ってきた。始めは原始的な野だたら製鉄から、やがてシーソーのように動く天秤の仕組みを応用した天秤フイゴで大きな飛躍を遂げ、釜石鉄山の大橋での大島高任の洋式高炉でほぼ完成した。現在でも大まかな仕組みは、高任の設計した洋式高炉とほぼ変らないようだ。
幕末に日本各地に反射炉が作られたのは、19世紀になって強まってきた西欧列強の軍事的圧力、直接的には 1853年のペリー来航を契機に大砲を鋳造しようとしたためであった。大島高任もはじめ水戸藩で反射炉を使って大砲を鋳造しようとしたが失敗し、国産銑(銑=ずく。「銑鉄(ずくてつ)」の略。銑鉄(せんてつ)の俗称)を原料とする大砲の鋳造をあきらめ、南部藩に帰藩して洋式高炉による製鉄にとりくんだのだという。
明治維新になり、新政府によって新国家が形成され、殖産興業など新生日本の国策により、官営釜石製鉄所が1874(明治7)年に起工、1880(明治13)年に操業を開始したが操業に失敗した。そして、同明治13年に、近代資本主義を育成するために公布された「工場払下概則」によって民営へ引き継がれ、高任の思想を生かし製鉄所を再興して操業を成功させ、釜石製鉄所の基礎を築いたのが海軍御用商人であった田中長兵衛をはじめとする田中製鉄所の人々で、その後、多くの人の操業への2年近くの挑戦が繰り返された。1917(大正6)年会社組織となり、田中鉱山株式会社が発足したが、第1次世界大戦後の不況・恐慌で経営悪化に追い込まれ、資金難から三井鉱山株式会社に譲渡。1924(大正13)年社名を釜石鉱山株式会社とした。又、明治政府は、「殖産振興、富国強兵」をスローガンに1896(明治29)年、「製鉄所官制」を発布、1901(明治34)年に、八幡村に官営製鐵所が誕生した。
第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、1934(昭和9)年1月29日に日本製鉄株式会社法により、官営製鐵所・九州製鋼株式会社・輪西製鐵株式会社・釜石鉱山株式会社・富士製鋼株式会社・三菱製鐵株式会社・東洋製鐵株式会社の官民合同で日本製鐵株式会社を設立した。
1945(昭和20)年第二次世界大戦敗戦後、当時の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官、ダグラス・マッカーサーの指示のもと行われた財閥解体を実施するための法律「過度経済力集中排除法」が1947(昭和22) 年に公布され、1950(昭和25)同法により解体され、八幡製鐵株式會社(この時官営製鐵所の名称が八幡製鐵所へと変更)・富士製鐵株式會社・日鐵汽船株式會社(現・新和海運株式会社)・播磨耐火煉瓦株式會社(現・黒崎播磨株式会社)に分かれたが、1970(昭和45)年 、八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社とが再度合併し、新日本製鐵株式會社として設立された。この再合併に際しては、あまりにも業界内で大きな企業が出現することとなるとして、是非について経済界で大きな議論を巻き起こした。
この新日鉄の“鉄”という漢字の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、本多光太郎は「鐵は金の王なる哉」と評した。しかし現行字体では偏と旁を分けると「金を失う」とも読めるため、あえて旧字体の“鐵”を商号に使用している。江戸時代の思想家三浦梅園(、みうらばいえん)は、「金とは五金(金、銀、銅、鉛、鉄)の総称なり、五金の内にては鉄を至宝とす。如何となれば鉄その価、廉にして、その用広し。民生一日も無くんば有るべからず」と記しているが、現在最も広範に利用されている金属であることを考えると、正鵠(せいこく)を射た説ともいえる。
以下参考の「いわての鉱山史」によれば、第二次世界大戦中、釜石製鉄所と大橋鉄山をもつ釜石は、資源を自給できる貴重な軍需工場地帯であったため英米軍の攻撃を受け、製鉄所も壊滅的な打撃を受け、高炉11基が破壊され、製銑、製鋼工場は実にその9割以上を失たそうだが、戦後の朝鮮戦争特需で鉄鋼生産が爆発的な伸びたことで再度成長の基盤を確立した。そして、1960(昭和35)年には従業員8,000人を抱える大工場となった釜石製鉄所は、1962(昭和37)年には鉄鋼不況によって40日間高炉封印を行ったほか、中型工場の廃止、7年間で1,700人を他製鉄所に配置転換などの体質改善・合理化を進めている。さらに1967(昭和42)年には1,000人に大規模人員削減を行い、八幡・富士の両社が再び合併して新日本製鐵となった1970(昭和45)年以降も合理化を進め、1975(昭和50)年には大型・線材工場の一時休止を行っている。このころの従業員は4,169人と15年間で半減、さらに1980(昭和(55)年には3,312人となっている。その後も、円高と世界的不況で事態は好転せず、鉄鋼業は海外立地などで国内空洞化が進み、新日本製鐵は八幡・名古屋・君津・大分への高炉集中と室蘭・釜石・広畑・境の高炉休止を決定、釜石は線材工場のみ280人体制とすることが決まった。そして、1989(平成元)年、高炉の全面休止によって、釜石製鉄所の歴史に終止符が打たれた。
新日鉄事態は、今でも、日本における粗鋼生産量のシェアは3割以上の3,000万トン以上を占め、業界首位。世界シェアでもアルセロール・ミッタルに次ぐ第2位である。高級鋼材などの技術水準の高さには定評があり、業界を代表する鉄鋼メーカーである。
かって日本の産業を支えてきた、炭鉱や鉄鋼、造船など特定の一社の企業の事業所や工場など地域の産業の大部分を占める都市を企業城下町と呼ぶが、それは、企業の盛衰が都市の盛衰に直結するようなことから呼ばれたものである。釜石市もその企業城下町である。
かつて人口は9万人を超えることもあったが、製鉄所の高炉閉鎖に伴い人口が激減している(43,067人:2006年9月末現在)。
杜撰な市の財政運営から深刻な財政難に陥り深刻な問題を引き起こしている夕張市も、北海道の中央部に位置する、かつては石狩炭田の中心都市として栄えたところであった。1990年に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山。元々炭鉱により開かれた町であり、大規模な農業にも向かない地域であった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく人口が激減したところである。財政運営の失敗は、批判されてしかるべきことではあるが、かっての企業城下町は大同小異皆寂れてしまっており、これらの企業城下町に対して、なんのフォローもしてこなかった国のも責任はないのであろうか。ただ、市の力だけでやれといっても出来るところと出来ないところがあるように思うのだが・・・。この問題は、これからの地方分権化に係る問題である。優良な企業が優秀な人材が若者達が全て繁栄しているところへ集中している状況で、取り残された地域が全て自前で上手くやっていけると思っているのだろうか。このブログを書きながらつい、そんなことを考えてしまった。
(画像は、釜石鉱山の大橋高炉見取り図。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
日本鉄鋼連盟
http://www.jisf.or.jp/
釜石市立鉄の歴史館
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/
いわての鉱山史
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/kouzan/
新日本製鐵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A3%BD%E9%90%B5
鉄-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84
反射炉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89
近代製鉄の夜明け
http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/marc4/iwate/seitetu/index.html
【経済】 大島高任
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/takatou.html
橋野高炉跡 [遺跡・史跡] -観光案内(地図)"858年(安政5)建造。現存する日本最古の洋式高炉遺跡。 "
http://domestic.travel.yahoo.co.jp/bin/tifdetail?no=jtbb0603121
最初の地学書:アグリコラの『地下の事物の起源と原因について』(1546年)
http://www.geocities.co.jp/technopolis/9866/agricola.htm
あべ-しょうおう ―しやうをう 【阿部将翁】
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B0%A4%C9%F4&kind=jn&mode=0&base=1&row=2
日本山海名物図会
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/index.html
企業城下町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
セブンアンドワイ - 本 - 現代語訳鉄山必用記事
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=30849599
夕張市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E5%BC%B5%E5%B8%82
夕張市財政再建
http://www.city.yubari.hokkaido.jp/cgi-bin/odb-get.exe?wit_template=AM020000