今日(12月18日)は、平賀源内 (蘭学者,本草学者,戯作者,浄瑠璃作者)の忌日。
1778(安永7)年、平賀源内 (蘭学者,本草学者,戯作者,浄瑠璃作者)が誤って、2人を殺傷して投獄され、翌・1779(安永8)年12月18日(1780年1月24日)の今日、孤独と失意のうちに獄中で病死 したとされている。
源内 は、通称で名は国倫(くにとも)、号は俳句では李山、物産学では、鳩渓(きゅうけい)、戯作では風来山人または、天竺浪人、浄瑠璃では福内鬼外(ふくうちきがい)を名乗る。
平賀源内 と言えば、医学・本草学を学び、エレキテル(静電気発生機)を製作、火浣布(石綿を布にしたもの)、寒暖計などを発明し、「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」という風習は、売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて平賀源内が考案した、との説が有力。晩年には、戯作に没頭した一代の奇才として知られている。
1763(宝暦13)年に、『物類品隲』』(ぶつるいひんしつ)を刊行した。
彼は本草学について、『物類品隲』の天芥菜(てんかいさい)の解説で、「和名ダイコンナ。江戸方言タンゴナ。備前方言ダイコンサトウト云(中略)。今猶西国、民間ニ伝テ痘瘡(天然痘)ニ用テ効験アリ。京師(京都)及び東都(江戸)ノ医人、和名同キヲ以ッテ依名迷実(なによりてじつにまよう)、狼牙草(ろうがそう)ヲ用フ。或ハ水揚梅(すいようばい)ヲ用ルモノハ皆非ナリ。」と述べている。源内にとって、心がけねばならない最も基本的なことは、此処に記されている<依名迷実>-名にまどわされるーであったという。本草学一般において、書物にみえる本草の名前と実名を照合・同定することが重要な基礎作業であることはいうまでもないが、このことを絶えず厳しく考えていたそうだ。
この名と物との同定は中国の本草学では、<名物ノ学>とよばれる。源内の仲間の1人で、『物類品隲』の巻頭に序を寄せている後藤梨春(りしゅん)も「吾友平賀鳩渓ハ少ヨリ名物之学ニ専精」(原文漢文)と紹介しており、この名物ノ学が源内の本草学を考える出発点になっているという。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
源内の、『物類品隲』は、本草学の中でも異彩をはなち、日本博物学史上の傑作と評価されているようだが、この”物類”という名称には、彼の自然観が反映しており、源内以前に貝原益軒は本草学で、”人類・博物”の用語を使っているが、この”物類”という用語はは、当時本草学が博物学に更に深く傾斜していったことの表れでもあり、”人類”と一応対応する概念だという。
源内 は、讃岐国高松藩の御蔵番の子として生まれ、22歳で父の跡を継いだ。領主・松平頼恭(よりたか)は、薬草や薬園に関心が深く、源内は、藩医の元、城下の栗林荘(現在の栗林公園)の薬草園に勤務させられ、やがてその才を認められ、1752(宝暦2)年25歳の時、長崎へ遊学することとなった。1754(宝暦4)年、帰藩後、本草学に打ち込むが、まもなく、藩籍を離脱して、江戸に出て、本草学田村藍水(らんすい=元雄)に入門。本格的に本草学を学ぶ。師である藍水は、阿部将翁(しょうおう)の門の出で、伝統的な本草学から言えば、傍流であったが、将翁は、中国に漂着して本場の中国で本草学を学んで帰国するという特異な経験を持ち、1721(享保6)年、幕府が、殖産興業政策によって、専門家を求めた時、自ら応じて官に仕えるようになった学者だという。幕府の政策は諸国に特産品を奨励し、鉱山の開発などを進めたもので、源内を始めとする本草学者の活動もこの政策に負うところが多い。将翁は、北海道をはじめ、全国を徒破したことでわかるようにその学問態度は、"実地を踏む"ことを必須としていたそうだ。源内が関学であろうと大家であろうと、非は非として批判したのはこうした実証的学風によるといえるそうだ。
源内 は師藍水を説いて、1757(宝暦7)年、第1回、薬品会(やくひんえ)を組織、以後、1762(宝暦12)年の源内主催の会まで、5回開催した。藍水・源内らの催した薬品会は実質的には珍しい動物、植物、鉱物等の標本の展示会であった。『物類品隲』は、この5回の薬品会の出品物をダイジェストしたカタログ集であった。本草学はその対象が身近にあり、素人でも比較的容易に参入できることから、やがて、江戸にいろいろな会が出来、会員の相互研鑽の中から本格的な博物学者が輩出されるようになった。
そして、その間に同門の中川淳庵、淳庵の同僚、杉田玄白らともらと交友するようになり、幕府老中の田沼意次にも知られるようになった。
当時の本草学では、対象を正確に写しとる能力が要請された。そのため源内は、長崎で洋画の技法を学んでおり、1773(安永2)年には、阿仁(あに)銅山の検分のため秋田に赴(おもむ)き、小田野直武や佐竹曙山(秋田藩藩主・佐竹義敦の画家としての号)に洋画法を伝えたといい、また司馬江漢に与えた影響も大きいという。そして、源内作と伝えられる油絵「西洋婦人図」と呼ばれる作品を今に残している。以下参照。↓
神戸市立博物館:名品撰/西洋婦人図・平賀源内筆。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/079.html
源内は、高松藩の家臣として再登用されるが、学問に専念するため、1761(宝暦11)年には、藩主に、「禄仕拝辞願」を出して、許可され、以後生涯浪人の身となった。
晩年にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、源内をして日本におけるコピーライターのはしりだとも評されている他、戯作の開祖、人形浄瑠璃の発表など芸術面においても幅広い分野で活躍しているが、これは、実際には、仕官も出来ず浪人の身となっていた源内にとっては、生活のためのものであったろうと思われる。
又、晩年、中でも戯作に没頭していたというが、これも、源内を疎外した封建体制や社会の欠陥への痛烈な批判、風刺を滑稽、洒落、諧謔(かいぎゃく)を交えた内容で、仕官の道を絶たれた不平不満のはけ口だったのではないかと言われている。戯作では風来山人または、天竺浪人などというふざけた名を使っている。
源内 は、エレキテルの復元を最後の栄光に、ふとしたことで殺傷事件を起こし、1779(安永8)年12月18日(1780年1月24日)の今日、江戸伝馬町の獄中で、孤独と失意のうちになくなったという。墓所は浅草の総泉寺にある。
友人で蘭方医である杉田玄白は、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)と墓誌銘に書いた。玄白も”狂医”を自認する非常の知識人であったが、源内の死は、刃傷沙汰で人を殺したため、自殺未遂、自首、投獄されての死であったという。しかし、その非常の行為の根には、時代と自己に対するいらだちがあったのだろう。天才というものは、えてして不幸な最後を遂げるものだ。
後に、高松藩家老の木村黙老は、辞職願いを出した源内の心境を、「源内はもと足軽の子だから、登用せられても同僚達が彼を侮蔑し、また君寵を得たるも妬殺するためだ。」と書いているという。あの有名な源内がキセルを右手で構えた絵は黙老の作である。斜の構えた戯作者の風貌をうまくとらえている。黙老は文人としても著名だったという。
(画像は、木村黙老画・平賀源内。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
平賀源内 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
知の職人たち-南葵文庫に見る江戸のモノづくり-51 参製秘録* (さんせいひろく)田村元雄 撰
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2006/shiryo_05.html
平賀源内先生遺品館
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/
讃岐の風土記 by 出来屋(79)“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”
http://dekiya.blog57.fc2.com/
地域の本棚
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_0005-19.html
早稲田大学図書館 WEB展覧会 「描かれた生きものたち」前編
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/ikimono1/
神戸市立博物館:名品撰/西洋婦人図・平賀源内筆。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/079.html
江戸東京博物館<企画展示室><「平賀源内展」>
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2003/1129/1129.html
平賀源内墓
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/gennnai.html
後藤 梨春 / 全国名前辞典
http://bone.shazaku.com/cat_23/ent_12.html
語り部と歩く歴史文化道
http://www.netwave.or.jp/rekishi/kataribekiko/kataribekikotaka.htm
1778(安永7)年、平賀源内 (蘭学者,本草学者,戯作者,浄瑠璃作者)が誤って、2人を殺傷して投獄され、翌・1779(安永8)年12月18日(1780年1月24日)の今日、孤独と失意のうちに獄中で病死 したとされている。
源内 は、通称で名は国倫(くにとも)、号は俳句では李山、物産学では、鳩渓(きゅうけい)、戯作では風来山人または、天竺浪人、浄瑠璃では福内鬼外(ふくうちきがい)を名乗る。
平賀源内 と言えば、医学・本草学を学び、エレキテル(静電気発生機)を製作、火浣布(石綿を布にしたもの)、寒暖計などを発明し、「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」という風習は、売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて平賀源内が考案した、との説が有力。晩年には、戯作に没頭した一代の奇才として知られている。
1763(宝暦13)年に、『物類品隲』』(ぶつるいひんしつ)を刊行した。
彼は本草学について、『物類品隲』の天芥菜(てんかいさい)の解説で、「和名ダイコンナ。江戸方言タンゴナ。備前方言ダイコンサトウト云(中略)。今猶西国、民間ニ伝テ痘瘡(天然痘)ニ用テ効験アリ。京師(京都)及び東都(江戸)ノ医人、和名同キヲ以ッテ依名迷実(なによりてじつにまよう)、狼牙草(ろうがそう)ヲ用フ。或ハ水揚梅(すいようばい)ヲ用ルモノハ皆非ナリ。」と述べている。源内にとって、心がけねばならない最も基本的なことは、此処に記されている<依名迷実>-名にまどわされるーであったという。本草学一般において、書物にみえる本草の名前と実名を照合・同定することが重要な基礎作業であることはいうまでもないが、このことを絶えず厳しく考えていたそうだ。
この名と物との同定は中国の本草学では、<名物ノ学>とよばれる。源内の仲間の1人で、『物類品隲』の巻頭に序を寄せている後藤梨春(りしゅん)も「吾友平賀鳩渓ハ少ヨリ名物之学ニ専精」(原文漢文)と紹介しており、この名物ノ学が源内の本草学を考える出発点になっているという。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
源内の、『物類品隲』は、本草学の中でも異彩をはなち、日本博物学史上の傑作と評価されているようだが、この”物類”という名称には、彼の自然観が反映しており、源内以前に貝原益軒は本草学で、”人類・博物”の用語を使っているが、この”物類”という用語はは、当時本草学が博物学に更に深く傾斜していったことの表れでもあり、”人類”と一応対応する概念だという。
源内 は、讃岐国高松藩の御蔵番の子として生まれ、22歳で父の跡を継いだ。領主・松平頼恭(よりたか)は、薬草や薬園に関心が深く、源内は、藩医の元、城下の栗林荘(現在の栗林公園)の薬草園に勤務させられ、やがてその才を認められ、1752(宝暦2)年25歳の時、長崎へ遊学することとなった。1754(宝暦4)年、帰藩後、本草学に打ち込むが、まもなく、藩籍を離脱して、江戸に出て、本草学田村藍水(らんすい=元雄)に入門。本格的に本草学を学ぶ。師である藍水は、阿部将翁(しょうおう)の門の出で、伝統的な本草学から言えば、傍流であったが、将翁は、中国に漂着して本場の中国で本草学を学んで帰国するという特異な経験を持ち、1721(享保6)年、幕府が、殖産興業政策によって、専門家を求めた時、自ら応じて官に仕えるようになった学者だという。幕府の政策は諸国に特産品を奨励し、鉱山の開発などを進めたもので、源内を始めとする本草学者の活動もこの政策に負うところが多い。将翁は、北海道をはじめ、全国を徒破したことでわかるようにその学問態度は、"実地を踏む"ことを必須としていたそうだ。源内が関学であろうと大家であろうと、非は非として批判したのはこうした実証的学風によるといえるそうだ。
源内 は師藍水を説いて、1757(宝暦7)年、第1回、薬品会(やくひんえ)を組織、以後、1762(宝暦12)年の源内主催の会まで、5回開催した。藍水・源内らの催した薬品会は実質的には珍しい動物、植物、鉱物等の標本の展示会であった。『物類品隲』は、この5回の薬品会の出品物をダイジェストしたカタログ集であった。本草学はその対象が身近にあり、素人でも比較的容易に参入できることから、やがて、江戸にいろいろな会が出来、会員の相互研鑽の中から本格的な博物学者が輩出されるようになった。
そして、その間に同門の中川淳庵、淳庵の同僚、杉田玄白らともらと交友するようになり、幕府老中の田沼意次にも知られるようになった。
当時の本草学では、対象を正確に写しとる能力が要請された。そのため源内は、長崎で洋画の技法を学んでおり、1773(安永2)年には、阿仁(あに)銅山の検分のため秋田に赴(おもむ)き、小田野直武や佐竹曙山(秋田藩藩主・佐竹義敦の画家としての号)に洋画法を伝えたといい、また司馬江漢に与えた影響も大きいという。そして、源内作と伝えられる油絵「西洋婦人図」と呼ばれる作品を今に残している。以下参照。↓
神戸市立博物館:名品撰/西洋婦人図・平賀源内筆。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/079.html
源内は、高松藩の家臣として再登用されるが、学問に専念するため、1761(宝暦11)年には、藩主に、「禄仕拝辞願」を出して、許可され、以後生涯浪人の身となった。
晩年にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、源内をして日本におけるコピーライターのはしりだとも評されている他、戯作の開祖、人形浄瑠璃の発表など芸術面においても幅広い分野で活躍しているが、これは、実際には、仕官も出来ず浪人の身となっていた源内にとっては、生活のためのものであったろうと思われる。
又、晩年、中でも戯作に没頭していたというが、これも、源内を疎外した封建体制や社会の欠陥への痛烈な批判、風刺を滑稽、洒落、諧謔(かいぎゃく)を交えた内容で、仕官の道を絶たれた不平不満のはけ口だったのではないかと言われている。戯作では風来山人または、天竺浪人などというふざけた名を使っている。
源内 は、エレキテルの復元を最後の栄光に、ふとしたことで殺傷事件を起こし、1779(安永8)年12月18日(1780年1月24日)の今日、江戸伝馬町の獄中で、孤独と失意のうちになくなったという。墓所は浅草の総泉寺にある。
友人で蘭方医である杉田玄白は、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)と墓誌銘に書いた。玄白も”狂医”を自認する非常の知識人であったが、源内の死は、刃傷沙汰で人を殺したため、自殺未遂、自首、投獄されての死であったという。しかし、その非常の行為の根には、時代と自己に対するいらだちがあったのだろう。天才というものは、えてして不幸な最後を遂げるものだ。
後に、高松藩家老の木村黙老は、辞職願いを出した源内の心境を、「源内はもと足軽の子だから、登用せられても同僚達が彼を侮蔑し、また君寵を得たるも妬殺するためだ。」と書いているという。あの有名な源内がキセルを右手で構えた絵は黙老の作である。斜の構えた戯作者の風貌をうまくとらえている。黙老は文人としても著名だったという。
(画像は、木村黙老画・平賀源内。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
平賀源内 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
知の職人たち-南葵文庫に見る江戸のモノづくり-51 参製秘録* (さんせいひろく)田村元雄 撰
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2006/shiryo_05.html
平賀源内先生遺品館
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/
讃岐の風土記 by 出来屋(79)“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”
http://dekiya.blog57.fc2.com/
地域の本棚
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_0005-19.html
早稲田大学図書館 WEB展覧会 「描かれた生きものたち」前編
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/ikimono1/
神戸市立博物館:名品撰/西洋婦人図・平賀源内筆。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/079.html
江戸東京博物館<企画展示室><「平賀源内展」>
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2003/1129/1129.html
平賀源内墓
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/gennnai.html
後藤 梨春 / 全国名前辞典
http://bone.shazaku.com/cat_23/ent_12.html
語り部と歩く歴史文化道
http://www.netwave.or.jp/rekishi/kataribekiko/kataribekikotaka.htm