今日(12月6日)は、「シンフォニー記念日」
1914(大正3)年の今日(12月6日)、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『かちどきと平和』を発表した。
山田 耕筰(やまだ こうさく)は、日本を代表する作曲家であり、指揮者でもある。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルやレニングラード・フィル等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。
山田耕筰は、東京都本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。少年時代、宣教師である義兄に西洋音楽の手ほどきをうける。1908(明治41)年、東京音楽学校(現東京藝術大学)声楽科を卒業した後、1910(明治43)年から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。1912(明治43)年、そのベルリン音楽学校作曲科の卒業作品として書かれたものが、古典的な形式による4楽章の交響曲『かちどきと平和』であり、山田26歳のときの作品である。
交響曲へ長調(正しくは『勝鬨(かちどき)と平和』)は、日本人の手による最初の交響曲であり、名称の由来は、初演直前に第一次世界大戦が勃発したためだといわれる。曲を私は聴いたことがないが、標題通り勝利への喜ばしい賛歌と平和への静かな祈りを対照させ、宥和(ゆうわ)させたものだといわれている。ナクソスの『日本作曲家選輯』に収録され(演奏は湯浅卓雄指揮、アルスター管弦楽団による)話題となった。(以下参考の「NAXOS CLASSICAL/山田 耕筰」など参照してください)
同じく山田の作品である「序曲ニ長調」につづいて、2番目の管弦楽曲である。
1914(大正3)年に帰国し、同年12月、帝国劇場における、東京フィルハーモニー会(岩崎が設立した音楽鑑賞のサークル)第14回演奏会において同交響曲を作曲者の指揮により初演された。その時のメンバーを中心として東京フィルハーモニー交響楽団を組織して自ら指揮をつとめ、近衛秀麿と共にNHK交響楽団、NHK交響楽団の前身である日本交響楽協会も設立した。
しかし、何か山田耕筰の生涯を見ていると、女性との恋愛問題で彼を支援してくれていた岩崎を激怒し、資金源を断たれたり、日本交響楽協会では、不明朗経理を理由に内紛が勃発といろいろ問題をおこしているようだな~。
そんなとき、最後まで行動をともにしてくれたのは、黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名ほどだったという。そのようなことは兎も角として、こういった活動は、西洋音楽(ヨーロッパ・クラシック音楽)を日本に定着させるための重要な礎となった。彼はまた、日本楽劇協会を設立しオペラの普及にも努めた。作曲も含めたこれらの活動は、欧米でも高く評価され、フランスからはレジョン・ド・ヌール勲章を授与されている。
山田耕筰は、日本におけるクラシック音楽の土台を築いた大きな存在であるが、彼の作品の中で最も代表的分野は芸術的歌曲であるともいわれている。彼の歌曲は、日本語の美しさやイントネーション(発音=日本語独特の高低やアクセント)を生かして作曲されている。第一次世界大戦後、日本の芸術界を風靡した西洋文化の自由主義的文学活動の中から、北原白秋、三木露風、野口雨情等の新しい叙情詩が生まれてきた。しかし、日本がヨーロッパの近代音楽を取り入れようとした時の最大の問題が、ヨーロッパの歌曲風のメロディと日本語をどのように結び付けるかであった。その難しい問題、詩のイメージを見事な表現力と高い芸術性で歌い上げ歌曲として広く世に問うたのが山田耕筰であり、ここに初めて日本古風の風土的叙情性と西洋音楽が融け合い、美しい花を開かせたといわれている。
歌曲の代表作には「からたちの花」「この道」など、童謡には「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」などがあり、学校の教科などにも取り入れられ広親しまれ歌われている。
私も、時々、思い出したように、手じかにあるハーモニカでこれらの曲を良く吹くが実に綺麗な曲である。それと同時に思うのは、最近若い人たちが自身で作詞・作曲して歌っている曲である。何か西洋の音楽っぽい曲を巻舌のようなへんな日本語で歌っているというか囁いているというような音楽が気になって仕方がない。音楽で最も大切なものは詩であるその詩をいかに、表現するか。それが、作曲の難しさだろう。最近は、どうも、先に曲らしきものができ、それに、適当な詩をつけて、口ずさんでいるといった感じである。へんなどこの国の日本語か?といった歌い方をするのでだから、歌から詩など全然読み取れない。今作られている歌や曲で、後々まで歌い継がれるものはどのくらいあるであろうか。
以下参考の「MIDI音楽(ジャンル別)」の中で、「からたちの花」「この道」などが聞けるよ。
(画像は、山田耕筰 。以下参考の「山田耕筰 - goo 音楽」の画像より)
参考:
山田耕筰-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%B0
東京フィルハーモニー交響楽団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3
おんがく日めくり | YAMAHA
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990609
NAXOS CLASSICAL/山田 耕筰
http://www.naxos.co.jp/title.asp?sno=8.555350&cod=3048
山田耕筰作品集
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kousaka/wagner/122nd/yamakou.htm
山田耕筰 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1107564/index.html
日本楽劇協会
http://www.kt.rim.or.jp/~hy01-jmd/
MIDI音楽(ジャンル別)
http://www.asahi-net.or.jp/~UD3T-KRYM/900-bgm/bgm-index.htm
1914(大正3)年の今日(12月6日)、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『かちどきと平和』を発表した。
山田 耕筰(やまだ こうさく)は、日本を代表する作曲家であり、指揮者でもある。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルやレニングラード・フィル等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。
山田耕筰は、東京都本郷の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。少年時代、宣教師である義兄に西洋音楽の手ほどきをうける。1908(明治41)年、東京音楽学校(現東京藝術大学)声楽科を卒業した後、1910(明治43)年から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。1912(明治43)年、そのベルリン音楽学校作曲科の卒業作品として書かれたものが、古典的な形式による4楽章の交響曲『かちどきと平和』であり、山田26歳のときの作品である。
交響曲へ長調(正しくは『勝鬨(かちどき)と平和』)は、日本人の手による最初の交響曲であり、名称の由来は、初演直前に第一次世界大戦が勃発したためだといわれる。曲を私は聴いたことがないが、標題通り勝利への喜ばしい賛歌と平和への静かな祈りを対照させ、宥和(ゆうわ)させたものだといわれている。ナクソスの『日本作曲家選輯』に収録され(演奏は湯浅卓雄指揮、アルスター管弦楽団による)話題となった。(以下参考の「NAXOS CLASSICAL/山田 耕筰」など参照してください)
同じく山田の作品である「序曲ニ長調」につづいて、2番目の管弦楽曲である。
1914(大正3)年に帰国し、同年12月、帝国劇場における、東京フィルハーモニー会(岩崎が設立した音楽鑑賞のサークル)第14回演奏会において同交響曲を作曲者の指揮により初演された。その時のメンバーを中心として東京フィルハーモニー交響楽団を組織して自ら指揮をつとめ、近衛秀麿と共にNHK交響楽団、NHK交響楽団の前身である日本交響楽協会も設立した。
しかし、何か山田耕筰の生涯を見ていると、女性との恋愛問題で彼を支援してくれていた岩崎を激怒し、資金源を断たれたり、日本交響楽協会では、不明朗経理を理由に内紛が勃発といろいろ問題をおこしているようだな~。
そんなとき、最後まで行動をともにしてくれたのは、黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名ほどだったという。そのようなことは兎も角として、こういった活動は、西洋音楽(ヨーロッパ・クラシック音楽)を日本に定着させるための重要な礎となった。彼はまた、日本楽劇協会を設立しオペラの普及にも努めた。作曲も含めたこれらの活動は、欧米でも高く評価され、フランスからはレジョン・ド・ヌール勲章を授与されている。
山田耕筰は、日本におけるクラシック音楽の土台を築いた大きな存在であるが、彼の作品の中で最も代表的分野は芸術的歌曲であるともいわれている。彼の歌曲は、日本語の美しさやイントネーション(発音=日本語独特の高低やアクセント)を生かして作曲されている。第一次世界大戦後、日本の芸術界を風靡した西洋文化の自由主義的文学活動の中から、北原白秋、三木露風、野口雨情等の新しい叙情詩が生まれてきた。しかし、日本がヨーロッパの近代音楽を取り入れようとした時の最大の問題が、ヨーロッパの歌曲風のメロディと日本語をどのように結び付けるかであった。その難しい問題、詩のイメージを見事な表現力と高い芸術性で歌い上げ歌曲として広く世に問うたのが山田耕筰であり、ここに初めて日本古風の風土的叙情性と西洋音楽が融け合い、美しい花を開かせたといわれている。
歌曲の代表作には「からたちの花」「この道」など、童謡には「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」などがあり、学校の教科などにも取り入れられ広親しまれ歌われている。
私も、時々、思い出したように、手じかにあるハーモニカでこれらの曲を良く吹くが実に綺麗な曲である。それと同時に思うのは、最近若い人たちが自身で作詞・作曲して歌っている曲である。何か西洋の音楽っぽい曲を巻舌のようなへんな日本語で歌っているというか囁いているというような音楽が気になって仕方がない。音楽で最も大切なものは詩であるその詩をいかに、表現するか。それが、作曲の難しさだろう。最近は、どうも、先に曲らしきものができ、それに、適当な詩をつけて、口ずさんでいるといった感じである。へんなどこの国の日本語か?といった歌い方をするのでだから、歌から詩など全然読み取れない。今作られている歌や曲で、後々まで歌い継がれるものはどのくらいあるであろうか。
以下参考の「MIDI音楽(ジャンル別)」の中で、「からたちの花」「この道」などが聞けるよ。
(画像は、山田耕筰 。以下参考の「山田耕筰 - goo 音楽」の画像より)
参考:
山田耕筰-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%B0
東京フィルハーモニー交響楽団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3
おんがく日めくり | YAMAHA
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990609
NAXOS CLASSICAL/山田 耕筰
http://www.naxos.co.jp/title.asp?sno=8.555350&cod=3048
山田耕筰作品集
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kousaka/wagner/122nd/yamakou.htm
山田耕筰 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1107564/index.html
日本楽劇協会
http://www.kt.rim.or.jp/~hy01-jmd/
MIDI音楽(ジャンル別)
http://www.asahi-net.or.jp/~UD3T-KRYM/900-bgm/bgm-index.htm