1948(昭和23)年の今日(12月28日)、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの日本研究書『菊と刀』が長谷川松次によって日本で翻訳・出版された。
ルース・ベネディクトは、アメリカの女性文化人類学者である。
ベネディクトが、第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年)に、アメリカ戦時情報局の委託で行われた日本文化の研究の成果をまとめた日本文化論が『菊と刀』である。日米戦争終結を目前にして、アメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのであろう。
ベネディクトはまだ、現地調査が不可能な状況のもと、日本に一度も調査に来ることなく、在米日系人(敵国民として収容所に抑留された日系人)との面接、日本映画や文学の分析などを通じて日本社会の体質に鋭く迫り、「菊(美)」を愛でる一方で「刀(武)」を好む矛盾に満ちたその性質を、内面的な規範ではなく、外面的な強制力(他者からの評価)によって、行動を律する「恥の文化」として抽出。つまり、ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるとし、日本の「恥の文化」と自分達欧米人の「罪の文化」とを対比させ、罪を基調とする文化では、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える・・・、「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っている。彼女研究の成果は、『菊と刀(副題:日本の文化の型)』と題されて、終戦後の1946(昭和21)年に刊行された。
戦後、アメリカが日本の占領政策を無事に成し遂げえたのには、ベネディクトの研究成果とその進言が大いに参考になったであろうと言われている。彼女はアメリカ軍がマリアナ諸島を占領した頃から戦時情報局で日本問題を担当し、皇居を爆撃してはいけないとか、天皇を辱めると困難な問題が生じるなどと、数々の重要な進言をしたといわれている。彼女の『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調しているが、最近ではそれを懐疑する傾向も見られるようだ。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれてているような書き方に対して、批判の目が向けられているのである。
しかし、この本が書かれたのは、今から、約50年以上も前のことであるが、私には、よく日本人像を掴んでいると思っており、外国人の目から見た「日本人論」がどんなものであったかは知っておいてよいだろう。
例えば、第二次世界大戦の末期、もう日本の敗戦が濃厚と言うより明白な1944(昭和19)年、最後の決戦での日本の大本営は太平洋戦争誌上初めて「玉砕」を発表した。戦争史上、人間の本能である「生への欲求」を断ち切る行為の背景には、それを受け入れうる何らかの精神的風土があったのだろう。
この玉砕を前にして、現地の指揮官達は、次のように述べている。
玉砕を前にして、「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを 虞(おそ)る」(アッツ島の山崎保代部隊長の訣別電)
「今や止まるも死進むも死・・・・勇躍全力を尽くして従容(しゅうよう)として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし」(サイパン島の南雲忠一中部太平洋方面司令長官の守備兵への訓示」)
「最後の決戦に当り既に散華せる麾下数万の英霊と共に皇室の弥栄(いやさか)と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ全員或は護国の鬼と化して敵の我か本土来寇を破摧(はさい)し、或は神風となりて天翔(か)けり必勝戦に馳せ参するの所存なり」「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂(たま)還(かえ)り魂還り皇国護らん」(沖縄の牛島満第三十二軍司令官訣別電)
これらに見られるのは、「尽忠殉国、万死報告」の天皇=国家中心主義、精神主義、武士道、集団主義などである。特に最後の点に関して言えば、アメリカ人の人類学者ルース・ベネディクトも『菊と刀』の中で、玉砕を「集団的自殺」と規定している。少なくとも以上の要素を精神的背景としてあげる事ができる。まさに、玉砕とは日本軍人にとって、「玉のように美しく砕けること。名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと」(広辞苑)であったのである。傷病者にまで自決を強制できる異常性の一つの理由もそこにあったといえる。
そして、この玉砕がサイパン戦や沖縄戦に見られるように、軍人にのみ見られた現象ではなく、一般国民をも含む「集団的自殺」をも招いているのである。(週刊朝日百科「日本の歴史」)。
ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教であり、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できないだろう。
しかし、日本人が、戦後復興を遂げた経済成長期に、海外旅行ブームがあったが、そんな時、東南アジアでは生活に困窮した女性たちが春を売っているのを良い事に、旅行会社などがそれらの女性を目的にしたツアーを組み、団体で旅行に行くといった恥ずかしいことがブームになったことがある。そのようなツアーに参加しているのは、日本国内では、大真面目に仕事している男たちである。昔から、日本人には、「旅の恥は掻き捨て」といった風潮があった。自分の顔見知りが住んでいるところでは、極真面目そうな顔をして普通に行動をしているが、そんな地元を離れた知らない土地では、平気で、恥ずかしいことをする者が大勢いる。これは、多分今でも同じことであろうと言うよりも、むしろ非常に多くなっているだろう思う。恥ずかしい話であるが、ベネディクトが言っているように、日本には、確かに、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」といった面が見られるのは悲しい事だ。
そして、戦後、道徳観念を喪失してしまった現代においては、政治家も官僚も県・市会議員のほか民間会社のトップなどでも人の見ていないところでは、贈収賄や談合が罷り通っており、これらを行っている人たちには、なんら罪の意識もなくなってしまったのが現状ではないだろうか。
先日、政府税制調査会の本間正明会長が、週刊誌に「家族ではない女性と官舎に同居している」と指摘された事から、辞任に追い込まれていたが、本人自身が公務員宿舎を含む国有財産の売却推進の報告まで出しておきながら、人から暴露されなかったら平気で、そんなところへ妻以外の女性を住まわせているなど言語同断であるが、もう、この人たちには、ベネディクトのいうところの「罪の文化」どころか、日本人として大切にしていた「恥の文化」すらをも持ち合わせていないようだ。
最近のテレビなどでは、よく、このような官僚や会社役員などが大然揃って、記者会見の席などで、禿げた頭を下げて許し請う姿を目にするが、本人達は、「恥」を偲んで頭を下げたのだから、「罪」が許されるなどと考えているのかも知らないが、頭を下げて許しを請えば罪が許されるものではないことを知っておくべきであろう。
日本人の本質を、日本人以外の外国人からずばりと指摘されていることに対して、外国人の「罪の文化」にもこんな面があるなどといった反論をするのもよいが、日本人が外国人から指摘されるまで気の付かなかった「恥の文化」について、今一度、考え直すために、この機会に「日本人論」を読み直してみるのも良いと思うがどうだろう。
(画像はThe Chrysanthemum and the Sword「菊と刀」ルース・ベネディクト著。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
ルース・ベネディクト-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88
日本人論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%AB%96
「菊と刀」と日本人
http://www.geocities.jp/sugiiteruo/index.htm
『菊と刀』を読みましたか?
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/kikutokatana2/top21.htm
北の狼投稿集:日本人の規範 編
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/kihan/
菊と刀・ルース・ベネデイクト(社会思想社 長谷川 松治 訳)
http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha/MKIKUTOK.html
『菊と刀』の勉強(01)
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/benkyo/BEN01.htm
ルース・ベネディクトは、アメリカの女性文化人類学者である。
ベネディクトが、第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年)に、アメリカ戦時情報局の委託で行われた日本文化の研究の成果をまとめた日本文化論が『菊と刀』である。日米戦争終結を目前にして、アメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのであろう。
ベネディクトはまだ、現地調査が不可能な状況のもと、日本に一度も調査に来ることなく、在米日系人(敵国民として収容所に抑留された日系人)との面接、日本映画や文学の分析などを通じて日本社会の体質に鋭く迫り、「菊(美)」を愛でる一方で「刀(武)」を好む矛盾に満ちたその性質を、内面的な規範ではなく、外面的な強制力(他者からの評価)によって、行動を律する「恥の文化」として抽出。つまり、ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるとし、日本の「恥の文化」と自分達欧米人の「罪の文化」とを対比させ、罪を基調とする文化では、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える・・・、「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っている。彼女研究の成果は、『菊と刀(副題:日本の文化の型)』と題されて、終戦後の1946(昭和21)年に刊行された。
戦後、アメリカが日本の占領政策を無事に成し遂げえたのには、ベネディクトの研究成果とその進言が大いに参考になったであろうと言われている。彼女はアメリカ軍がマリアナ諸島を占領した頃から戦時情報局で日本問題を担当し、皇居を爆撃してはいけないとか、天皇を辱めると困難な問題が生じるなどと、数々の重要な進言をしたといわれている。彼女の『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調しているが、最近ではそれを懐疑する傾向も見られるようだ。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれてているような書き方に対して、批判の目が向けられているのである。
しかし、この本が書かれたのは、今から、約50年以上も前のことであるが、私には、よく日本人像を掴んでいると思っており、外国人の目から見た「日本人論」がどんなものであったかは知っておいてよいだろう。
例えば、第二次世界大戦の末期、もう日本の敗戦が濃厚と言うより明白な1944(昭和19)年、最後の決戦での日本の大本営は太平洋戦争誌上初めて「玉砕」を発表した。戦争史上、人間の本能である「生への欲求」を断ち切る行為の背景には、それを受け入れうる何らかの精神的風土があったのだろう。
この玉砕を前にして、現地の指揮官達は、次のように述べている。
玉砕を前にして、「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを 虞(おそ)る」(アッツ島の山崎保代部隊長の訣別電)
「今や止まるも死進むも死・・・・勇躍全力を尽くして従容(しゅうよう)として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし」(サイパン島の南雲忠一中部太平洋方面司令長官の守備兵への訓示」)
「最後の決戦に当り既に散華せる麾下数万の英霊と共に皇室の弥栄(いやさか)と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ全員或は護国の鬼と化して敵の我か本土来寇を破摧(はさい)し、或は神風となりて天翔(か)けり必勝戦に馳せ参するの所存なり」「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂(たま)還(かえ)り魂還り皇国護らん」(沖縄の牛島満第三十二軍司令官訣別電)
これらに見られるのは、「尽忠殉国、万死報告」の天皇=国家中心主義、精神主義、武士道、集団主義などである。特に最後の点に関して言えば、アメリカ人の人類学者ルース・ベネディクトも『菊と刀』の中で、玉砕を「集団的自殺」と規定している。少なくとも以上の要素を精神的背景としてあげる事ができる。まさに、玉砕とは日本軍人にとって、「玉のように美しく砕けること。名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと」(広辞苑)であったのである。傷病者にまで自決を強制できる異常性の一つの理由もそこにあったといえる。
そして、この玉砕がサイパン戦や沖縄戦に見られるように、軍人にのみ見られた現象ではなく、一般国民をも含む「集団的自殺」をも招いているのである。(週刊朝日百科「日本の歴史」)。
ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教であり、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できないだろう。
しかし、日本人が、戦後復興を遂げた経済成長期に、海外旅行ブームがあったが、そんな時、東南アジアでは生活に困窮した女性たちが春を売っているのを良い事に、旅行会社などがそれらの女性を目的にしたツアーを組み、団体で旅行に行くといった恥ずかしいことがブームになったことがある。そのようなツアーに参加しているのは、日本国内では、大真面目に仕事している男たちである。昔から、日本人には、「旅の恥は掻き捨て」といった風潮があった。自分の顔見知りが住んでいるところでは、極真面目そうな顔をして普通に行動をしているが、そんな地元を離れた知らない土地では、平気で、恥ずかしいことをする者が大勢いる。これは、多分今でも同じことであろうと言うよりも、むしろ非常に多くなっているだろう思う。恥ずかしい話であるが、ベネディクトが言っているように、日本には、確かに、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」といった面が見られるのは悲しい事だ。
そして、戦後、道徳観念を喪失してしまった現代においては、政治家も官僚も県・市会議員のほか民間会社のトップなどでも人の見ていないところでは、贈収賄や談合が罷り通っており、これらを行っている人たちには、なんら罪の意識もなくなってしまったのが現状ではないだろうか。
先日、政府税制調査会の本間正明会長が、週刊誌に「家族ではない女性と官舎に同居している」と指摘された事から、辞任に追い込まれていたが、本人自身が公務員宿舎を含む国有財産の売却推進の報告まで出しておきながら、人から暴露されなかったら平気で、そんなところへ妻以外の女性を住まわせているなど言語同断であるが、もう、この人たちには、ベネディクトのいうところの「罪の文化」どころか、日本人として大切にしていた「恥の文化」すらをも持ち合わせていないようだ。
最近のテレビなどでは、よく、このような官僚や会社役員などが大然揃って、記者会見の席などで、禿げた頭を下げて許し請う姿を目にするが、本人達は、「恥」を偲んで頭を下げたのだから、「罪」が許されるなどと考えているのかも知らないが、頭を下げて許しを請えば罪が許されるものではないことを知っておくべきであろう。
日本人の本質を、日本人以外の外国人からずばりと指摘されていることに対して、外国人の「罪の文化」にもこんな面があるなどといった反論をするのもよいが、日本人が外国人から指摘されるまで気の付かなかった「恥の文化」について、今一度、考え直すために、この機会に「日本人論」を読み直してみるのも良いと思うがどうだろう。
(画像はThe Chrysanthemum and the Sword「菊と刀」ルース・ベネディクト著。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
ルース・ベネディクト-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88
日本人論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%AB%96
「菊と刀」と日本人
http://www.geocities.jp/sugiiteruo/index.htm
『菊と刀』を読みましたか?
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/kikutokatana2/top21.htm
北の狼投稿集:日本人の規範 編
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/kihan/
菊と刀・ルース・ベネデイクト(社会思想社 長谷川 松治 訳)
http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha/MKIKUTOK.html
『菊と刀』の勉強(01)
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/benkyo/BEN01.htm