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青色発光ダイオード開発の日本人3氏にノーベル物理学賞

2014-10-08 09:29:08 | 政治経済問題
<ノーベル賞>物理学賞に中村修二氏ら日本人3氏

毎日新聞 10月7日(火)18時51分配信

スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2014年のノーベル物理学賞を名城大(名古屋市)の赤崎勇・終身教授(85)、名古屋大の天野浩教授(54)、米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授(60)の3氏に贈ると発表した。

赤崎氏と天野氏は、窒化ガリウムを使った半導体結晶の加工技術を確立し、長年不可能だった青色発光ダイオード(LED)や青色半導体レーザーなどの開発に成功。中村氏はそれらの量産技術を開発し、世界で初めて製品化した。青色LEDは屋外大型ディスプレーや携帯電話のバックライト、屋内照明や信号機などに広く応用され、省エネに大きく貢献。青色レーザーは大容量光ディスクや高速通信機器など今日のIT時代に不可欠なさまざまな技術を可能にした。

 授賞理由は「明るく省エネルギーの白色光源を可能にした効率的な青色LEDの発明」。日本の受賞は12年の山中伸弥・京都大教授に続く快挙で、物理学賞は08年に南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏が受賞して以来。日本の受賞者数は、米国籍の南部氏を含め22人(医学生理学賞2、物理学賞10、化学賞7、文学賞2、平和賞1)となる。授賞式は12月10日にストックホルムで開かれ、賞金計800万スウェーデンクローナ(約1億2000万円)が贈られる。

 青色LEDは、赤色、緑色の開発に続いて、世界の研究者が開発に取り組んでいたが、材料となる窒化ガリウムの半導体結晶を作る技術が困難を極め、70年代後半には多くの研究者が断念していた。

 赤崎氏は、17年間勤めた松下電器産業から名古屋大に戻った81年に窒化ガリウムの研究に着手。85年、サファイアの基板の上に、クッションとなる中間層を置き、その上に窒化ガリウムのきれいな結晶を作ることに成功。89年に世界で初めて青色に発光させ、窒化ガリウムによって青色LEDを製造できることを証明した。95年には青色半導体レーザーの開発にも成功した。

 中村氏は、徳島県阿南市の蛍光材料メーカー「日亜化学工業」に技術者として在籍していた88年、赤崎氏の研究を踏まえ、窒化ガリウムを使った青色LEDの製品化に着手。結晶をサファイアの基板に直接、均一に薄く成長させる技術を5年で編み出し、93年に青色LED、99年には青色レーザーの製品化を世界で初めて成し遂げた。

 一方、04年1月には、青色LED製法特許の譲渡に対する対価を日亜化学工業に求めた裁判で「200億円判決」(05年1月、東京高裁で8億4000万円で和解)を勝ち取り、「技術者の反乱」と話題を呼んだ。

 青色LEDの実現で、光の三原色をLEDで作り出すことが可能になり、白色の照明や屋外のフルカラー大型ディスプレーなどの実用化につながった。寿命が長く消費電力が小さいLEDは、地球温暖化防止や省エネ型の照明として、とりわけ原発事故後に国内で爆発的に普及が進んだ。

 また、青色レーザーの開発で、従来のDVDに比べ単層で5倍、複層化で数十~数百倍もの情報が記録できる次世代光ディスク「ブルーレイ」が実現。映画やハイビジョンテレビの録画など、大容量記録媒体の主流になりつつある。【千葉紀和】


ブルーレイなどに代表される青色発光ダイオードの開発は、まさに画期的であった。しかもそれを開発したのが日本人だった。青色発光ダイオードの知名度の高さを鑑みると、ノーベル物理学賞受賞は時間の問題と言われていたが、ついに、日本の3氏が受賞を果たした。

有名なのは日亜化学工業という中堅会社のサラリーマン時代に、青色発光ダイオードの製品化に導いた中村修二氏であるが、これを開発したのが赤崎勇氏であることは後に知られるようになった。

ちなみに、今使っているマウスにも、しっかりと、青色LEDが使われているよ。


赤崎氏が基礎、中村氏実用化=窒化ガリウムの青色LED―ノーベル賞

時事通信 10月7日(火)20時9分配信

 発光ダイオード(LED)は、電子が多いn型半導体と電子が抜けた穴が多いp型半導体を接合させて作り、電子が接合部で穴に落ちる際、エネルギーを光として放出する。米イリノイ大のニック・ホロニアック名誉教授が1962年に米ゼネラル・エレクトリック社で赤色のLEDを開発し、続いて黄緑色や黄色もできた。

 光の波長が短い青色を実現するには、接合部の「落差」が大きく、高いエネルギーを放出させる半導体が必要となる。最初に炭化ケイ素系で青色LEDが開発されたが、暗過ぎたため、セレン化亜鉛系と窒化ガリウム系が候補とされた。

 薄膜の単結晶を作るには、結晶構造が似た物質を基板とし、その上に原料ガスを吹き付けて成長させる。窒化ガリウムは良い基板がなく、p型の作製も困難だったため、70年代後半にはセレン化亜鉛の研究開発が主流となった。

 しかし、赤崎勇氏は窒化ガリウムの方が放出エネルギーが高く、結晶が安定していて優れていると考え、松下電器産業(現パナソニック)に勤務していた73年、開発に着手した。81年からは名古屋大で大学院生の天野浩氏(現同大教授)らと取り組み、85年にサファイア基板上に緩衝層を低温で作ってから窒化ガリウムの結晶を成長させる方法を開発。89年にはこの結晶にマグネシウムを加え、電子線を照射する方法でp型を作り、n型と接合して青色LEDを実現した。

 一方、中村修二氏も88年、日亜化学工業で青色LEDの開発を決意。米フロリダ州立大に1年間留学して「有機金属化学気相成長法(MOCVD)」を習得した。ガスを基板の上と横から吹き付ける「ツーフローMOCVD」装置を開発し、窒化ガリウムの高品質結晶を作製。マグネシウム添加結晶を熱処理してp型も作った。さらに、窒化ガリウムにインジウムを加えた薄膜を発光層とする多重構造の結晶で高輝度の青色LEDを開発し、同社が93年に世界初の製品化を発表した。 



ノーベル物理学賞 世界変えた夢の技術 青色LED、鍵は窒化ガリウム

産経新聞 10月8日(水)7時55分配信

 ■赤崎・天野氏が基盤技術

 ノーベル物理学賞の授賞対象となった青色発光ダイオード(LED)は「20世紀中の実現は困難」とされた夢の技術だった。しかし、赤崎勇・名城大終身教授(85)と天野浩・名古屋大教授(54)が共同で基盤技術を開発し、米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授(60)が実用化への道を切り開いた。

 LEDは1962年、米ゼネラル・エレクトリック社の研究員だったニック・ホロニアック氏(85)が発明した。電球と違って半導体の中の電子が直接光に変わるので熱を出さず、エネルギー効率もいいのが最大の利点だ。光の三原色のうち、赤色と緑色のLEDは60年代に実現。残る青色がそろえば、どんな色でも合成が可能になり、自由自在な調光や映像表示装置への応用も見えてくる。しかし、実用的な輝度の青色を放つ高品質な半導体結晶を作るのは困難を極めた。

 各国の研究者がセレン化亜鉛という物質を材料に青色LEDの研究を進める中で、松下電器産業(現パナソニック)に在籍していた赤崎氏は、窒化ガリウムを使って実現を目指した。

 昭和56(1981)年に名古屋大工学部の教授に就任。原料となるガリウムや窒素、水素を含んだガスを約1千度の高温でサファイア基板に吹き付ける方式で、窒化ガリウムの結晶化に成功した。

 しかし、結晶はゴツゴツして不透明で、品質は低かった。青色LEDの開発には透明でひび割れのないきれいな結晶が必要だった。

 58年ごろ街を歩いているときに、以前に別の研究で開発した「低温堆積バッファー層技術」の導入をふと思いついた。基板と結晶の間に、相互の性質の干渉を和らげる緩衝地帯となる層を設け、結晶生成時に生じるひずみを少しでも減らそうという手法だ。

 そして60年、サファイア基板上に、原料ガスより低温の約500度で窒化アルミニウムを吹き付けてごく薄い膜を作り、原料ガスを約1千度で吹き付けてみた。すると、表面が鏡のように平らで、無色透明な窒化ガリウム結晶ができ上がっていた。48年に研究を始めて以来、10年以上も夢見てきた見事な結晶だった。

 得られた高品質結晶はN型半導体だったが、赤崎氏はこれに微量のマグネシウムを加えて電子線を当てることにより、平成元年にP型の作製にも成功。ただちにN型を接合し電気を流してみると、ついにLEDは青い光を放った。

 「目にしみるような青さで、本当に感動した」と赤崎氏は振り返る。世界で初めて青色LEDの基礎技術が完成した瞬間だった。

 この成果がブレークスルーとなって関連研究が大きく進み、表示装置や照明の一大変革につながった。

 大学院生だった天野氏は赤崎氏の研究室で実験に参加。昭和60年のある日、実験装置の不具合をきっかけに、天野氏が窒化ガリウムの結晶を成長させるため、窒化アルミニウムの薄膜を使う実験を担当。薄膜を作った後、装置が回復したため温度を上げ、窒化ガリウムを付着させると、高品質の窒化ガリウム結晶が成長していた。

 一連の功績が評価され、ノーベル賞委員会が発表した授賞内容の資料は赤崎、天野両氏の連名だった。



ノーベル物理学賞 中村氏「新手法決め手」 高品質の結晶育成

産経新聞 10月8日(水)7時55分配信

 高輝度青色LEDの量産技術を開発し、実用化への道筋をつけたのは中村修二氏。日亜化学工業に勤務していた平成元年、青色LEDの実現に必要な窒化ガリウムの研究を始めた。

 窒化ガリウムの結晶化は赤崎勇氏が成功していたが、時間がたつにつれ基板が熱くなって上昇気流が起こり、きれいな窒化ガリウムの結晶ができなくなってしまう課題があった。

 従来の方法は反応装置内で、窒化アルミニウムの薄膜を表面に作ったサファイア基板にガリウムや窒素、水素を混ぜた原料ガスを約1千度で吹きつけ、基板上に結晶をつくっていた。

 中村氏はさまざまな方法を検討した末、「上昇気流の発生をなんとか抑えることができれば、高品質結晶を長時間にわたって作り続けられるのではないか」と思いついた。

 そこで、中村氏は基板の上から窒素ガスを、横からはガリウムと窒素、水素の高温ガスを吹き付ける方法を考案した。

 反応装置内で、窒化アルミニウムの薄膜を作ったサファイア基板に原料ガスを吹き付けるまでは同じだったが、上昇気流を押さえつける工夫を加えたのだ。

 短期の米国留学で習得した技術に独自の改良を加えた「ツーフロー」と呼ばれる新しい結晶育成法だ。

 実験してみると、2つの吹き出し口を使うことで、窒化ガリウム膜の結晶性は飛躍的に向上。中村氏は「(青色LEDの実用化は)この新手法が決め手になったといって過言ではない」と語った。



ノーベル物理学賞 実用化を日本人の“手”で

産経新聞 10月8日(水)7時55分配信

 ■日亜化学工業、5年に世界初の製品化

 電球や蛍光灯に代わる新たな光源として、急速に社会に浸透している発光ダイオード(LED)。1962年に米国で発明されたが、実用化に必要な重要技術の開発は、すべて日本人が成し遂げた。

 LEDは電流を通したときにプラス電荷の正孔が動くP型半導体と、マイナス電荷の電子が動くN型半導体を張り合わせた構造を持つ。両者の境界であるPN接合面で正孔と電子がぶつかって結合、電気エネルギーが光エネルギーに変わって発光する。

 実用化の最大の課題は明るさだった。当初のLEDは赤色だったが、発光効率がわずか0・01%にすぎず弱い光しか出なかった。

 この問題を解決したのが当時、東北大教授だった西沢潤一氏(88)。ヒ素、ガリウム、アルミニウムからなる高品質の結晶を材料に使い、赤色LEDを実用的なレベルまで高輝度化することに成功した。

 次の課題は多色化だった。LEDは素材によって発光の色が変化する。このため赤色以外の高輝度光を発する素材の開発競争が始まったが、西沢氏がガリウム・リンで高輝度の緑色LEDの開発に成功。光の三原色のうち2色までが実用レベルに到達した。

 ここに青色が加われば、三原色がそろってどんな色でも自在に合成可能になり、フルカラーディスプレーや白色照明などにも応用が広がる。このため70年代に入って、最後の青色LEDの開発競争となった。

 決着がついたのは平成元(1989)年。名古屋大教授だった赤崎勇氏(85)が窒化ガリウムの高品質結晶を使って青色LEDの開発に成功。天野浩氏(54)は大学院生時代に赤崎氏の指導を受け、実験に参加した。その後、日亜化学工業(徳島県)の研究者だった中村修二氏(60)が窒化ガリウム結晶の大量生産技術を開発、5年に同社が世界で初めて青色LEDを製品化した。



日本人3氏 ノーベル賞 青色LEDで照明に革命

東京 2014年10月8日 07時19分

<赤崎 勇氏(あかさき・いさむ)>1929年1月30日、鹿児島県知覧町(現・南九州市)生まれ。旧制七高、京都大理学部卒。神戸工業(現富士通テン)に入社、59年に名古屋大助手となり、講師、助教授を経て松下電器産業(現パナソニック)入社。81年名古屋大教授。92年に名誉教授。同年から名城大教授。04年から名古屋大特別教授。10年から名城大終身教授。紫綬褒章。中日文化賞、武田賞など受賞。文化功労者。文化勲章。名古屋市在住。85歳。

<天野 浩氏(あまの・ひろし)>1960年9月11日、浜松市生まれ。静岡県立浜松西高卒。83年、名古屋大工学部を卒業。学生時代から、赤崎勇氏の研究室で青色LEDをテーマに研究を始めた。名古屋大で博士号取得。88年、名古屋大助手に。名城大助教授を経て02年から名城大教授。10年から名古屋大教授。専門分野は電子・電気材料工学。98年応用物理学会賞、02年武田賞を受賞。名古屋市在住。54歳。


<中村 修二氏(なかむら・しゅうじ)>1954年5月22日、愛媛県瀬戸町(現・伊方町)生まれ。愛媛県立大洲高、徳島大工学部を経て同大学院修士課程修了。79年徳島県阿南市の日亜化学工業入社。青色LEDの研究を始め、93年製品化に成功。94年に徳島大から博士号取得。99年日亜化学退社。00年2月から米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。仁科記念賞、本田賞など受賞。カリフォルニア州在住。米国籍。60歳。

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そうかもしれませんね (鬼の岩蔵)
2014-10-09 01:03:31
 連下さんの仰る通りかもしれません。
 今から20年ほど前,私の叔父がやっている結婚相談所のお見合いパーティで,サクラのバイトをしたことがあります。私が呼ばれたのは理系(特に理学系)の男性が多いパーティの時でした。そのパーティで理学系の人は自己紹介のときに,平気で自分の仕事(研究)紹介で「トポロジーが・・・」,「染色体が・・・」などと女性が興味を持たないようなことを口走り,場が盛り上がらないことがよくありました。
 あっ,これなんか偏見かもしれません。連下さんの文系力とは全然違うかもしれません(笑)
 あと気になるのは,中高の先生でどうしようもない先生も多少いますが,やれ事務作業,部活動,会議,保護者対策,研修など,授業や教材研究や生活指導や進路指導以外で時間を取られすぎとよく耳にします。私の知人の高校教師もそう言っています。それが大学教授にもあてはまるようです。大学教授の仕事の2大柱は「学生の教育」と「自分の研究」です。前者は大学での授業やゼミ,後者はもちろん研究,論文を書く,学会発表などです。しかし大学も少子化の波を受け,生徒確保のための会議などが増えてきているようです。給料も外国に比べると平均は1割~2割ほど安いようですし。そこにも流出原因がありそうです。
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科学者や技術者の海外流出の背景には (連下 恵一)
2014-10-08 09:02:36
理系人間が成果の価値を発信して売り込む「文系力」の不足、文系人間が理系の成果を自ら評価する「理系力」の欠乏があるのではないでしょうか。
10月4日付でBoD先生が「日本が弱いのは文系力」と指摘されたのに同意致します。
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おめでとう (鬼の岩蔵)
2014-10-07 21:43:52
 日本人3人受賞ですか。中村先生はここ5年ほど,いつ受賞してもおかしくない状況でしたからようやくという感じもします。
 こういう研究と技術のプロフェッショナルを日本の企業または大学から何故外国に流出させてしまうんでしょうか。元クラリオンガールの事業仕分け以来多少こういう技術研究の重要性が広まってきましたが,まだまだ流出は止まっていないように思います。
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