「コンコルド」の異名を取った1983年のオールスター競輪優勝者、菅田順和が、今日から行われる平FIIの開催を最後に引退する。
“コンコルド”57歳菅田引退「感謝している」(スポニチアネックス)
ちなみに、菅田は今日、2レースに登場。
思えば、半年先にデビューした中野浩一よりも、菅田のほうが当初は将来の競輪界を背負って立つ選手だという見方をされていた。1976年の世界選・プロスクラッチレースの3位決定戦で中野を破って銅メダルを獲得したし、直後に行われたオールスター競輪では、ドリームレースを含めて3連勝を果たし、完全優勝に王手をかけた。
しかし、世界選で菅田に敗れた中野は帰国後、その屈辱感を感じ、以後は菅田を破ることを主眼に置いていたという。結果、新人王は菅田よりも先に獲ったし、1977年の世界選・プロスクラッチ決勝では菅田をストレートで下した。これで、中野と菅田の立ち位置は変わってしまった。
また、菅田は中野との交友を深めながらも、一方でフラワーラインの一員に加わらねばタイトルを取れない、という葛藤にも悩まされていた。中野の強さを痛感していた菅田は長い葛藤の末、フラワーの一員に加わることを決意。そして1983年のオールスターでは、そのフラワーラインの結束のおかげで制し、無冠時代にピリオドを打った。
ま、タイトルがわずか一つだけというのは、ネームバリューを考えると物足りない気がするな。
しかしながら、「中野時代」を取り巻いた選手たちがどんどんいなくなっていくね。
“コンコルド”57歳菅田引退「感謝している」(スポニチアネックス)
ちなみに、菅田は今日、2レースに登場。
思えば、半年先にデビューした中野浩一よりも、菅田のほうが当初は将来の競輪界を背負って立つ選手だという見方をされていた。1976年の世界選・プロスクラッチレースの3位決定戦で中野を破って銅メダルを獲得したし、直後に行われたオールスター競輪では、ドリームレースを含めて3連勝を果たし、完全優勝に王手をかけた。
しかし、世界選で菅田に敗れた中野は帰国後、その屈辱感を感じ、以後は菅田を破ることを主眼に置いていたという。結果、新人王は菅田よりも先に獲ったし、1977年の世界選・プロスクラッチ決勝では菅田をストレートで下した。これで、中野と菅田の立ち位置は変わってしまった。
また、菅田は中野との交友を深めながらも、一方でフラワーラインの一員に加わらねばタイトルを取れない、という葛藤にも悩まされていた。中野の強さを痛感していた菅田は長い葛藤の末、フラワーの一員に加わることを決意。そして1983年のオールスターでは、そのフラワーラインの結束のおかげで制し、無冠時代にピリオドを打った。
ま、タイトルがわずか一つだけというのは、ネームバリューを考えると物足りない気がするな。
しかしながら、「中野時代」を取り巻いた選手たちがどんどんいなくなっていくね。
これだけでもいい加減なレベルでなかったのがわかる。