6時45分に犬の散歩に出掛ける。今日は日曜日。
海岸道路を南下して礫岩広場に至るコースを歩いた。庭に敷石や木の葉が濡れていた。はて、夜の内に雨が降ったのだろうか。曇り空から時々、小さな細かい雫が落ちてきた。風はない。
高架工事の下を通って海岸に向かった。船の光、灯台の光、街灯の光、住宅の光などが見えた。それだけまだ暗いということだ。
久し振りに礫岩広場に入って歩く。小鳥の声しかしない。
帰路、離れ犬が同じ道を歩いていた。細長い薄茶色の犬で赤い首輪をしていた。高さは我が犬とだいたい同じだが体重は半分もあるまい。痩せた犬だ。こちらに寄ってくることもなく行ったり戻ったりしていた。朝早いが時々車が通る。事故に遭わねば良いが。
7時25分に帰着。
昨夕の散歩について
4時5分前に犬の散歩に出掛ける。小倉から来た親戚がリードを持ってくれた。
日が出ていて暖かい。
グラウンドの金網越しに黒のトイプードルと対面した。あのつやのある若い犬だろう。随分会っていないので忘れてしまっていた。
犬との散歩もかなりの期間続いている。また、その記録であるこのブログも一年半以上続いている。と、どうなるかは最近のこのブログが示している通りである。
日時や場所など記録的なことを別にすれば、出来るだけ同じことを記したくない。子供の頃から同じことを繰り返すのが嫌だった。
ところが、犬との散歩ではもう変化が起こりそうもない。新しい体験も期待できない。こちらの感性も錆び付いてきた。だから、次第に内容が枯れてくるのは致し方がない。
何も見ず、何も聞かず、何も感ぜず習慣として犬と歩くだけだ。犬のために歩いているのだ。
しかし、犬は違う。自分のために歩いている。散歩に出る前の態度や目を見ていると如何に楽しみにしているかよく分かる。行きたくて行きたくて仕方がないのだ。だから、散歩中は一時たりとも注意を逸らさず目にするもの耳にするもの鼻にするものをすべて確認しようとする。目は下を見、前方を見、後ろを振り返り、時に頭上を見上げ、更に時々、横の私を見る。耳と鼻に関しては空気を伝わってくるので必ずしも方向は重要ではないようだ。
犬の飼い主として犬の喜びはこちらの喜びでもあるが、そうとばかりとは言えないこともある。その最大のものが道端のものを拾い食いすることだ。これを制するために少々の神経と体力を使うものではない。それでもやられてしまうことがある。最近では、そうなったら、もう過去のことだと早々に諦めるようになった。
4時半に帰着。