7時5分前に犬の散歩に出掛ける。今日は月曜日。
国道を渡って大きな川沿いの道を東上し2つ目の枝道を左に折れ北上して市の施設の駐車場を通って帰るコースを歩く。天頂は晴れているが地上に近い所は東西南北雲に覆われていた。色は白い。風は北西でかなり強い。その証拠に北に向かうカラスの群れは屋根すれすれに上下しながら飛んでいた。風がなければ高い空をゆっくり同じペースで飛んでいる。
散歩中、犬と同化することは殆どないが朝、犬が起きてきて挨拶をする時、ああ、同じだなと思う。初対面ではないのにそのような感じの気恥ずかしさを感じているようなのだ。睡眠というのは短い死のような気がする。そこからの復活が目覚めなのだ。何かが終わって何かが始まるのである。だから初対面的な気持ちになるのだ。
我が家の近くで小鳥が忙しく鳴いているのが聞こえてきた。チュピチュピチュピチュと鳴いている。屹度、メジロだろうと思った。栽培種のツバキの花の近くにメジロが動いていた。そのそばの木は白梅で小さな丸い花芽をたくさん付けていた。
昔、何故かウグイスとメジロは春告げ鳥として同じように思っていた。図鑑を見ても全体の色が似ていると思った。
7時35分に帰着。
昨夕の散歩について
4時5分前に犬の散歩に出掛ける。
公園の東側の市議会議員選の掲示板に立候補者のポスターが貼られてあった。グラウンドの南側も。1週間後に投開票がある。
選挙カーも候補者の名前を連呼して走っていた。
高架工事の手前で砂をほうきとちりとりで集めている小さな子供がいた。白い麻袋のようなものが立てられて歩道に並んでいた。中は砂である。特にこの季節は西寄りの風の日が多いので海岸から砂が毎日多量に運ばれてきて歩道などに溜まるのだ。その後始末をしているのだ。おそらく春が来るまで続くのだろう。ふと、雪国の雪かきを思い浮かべた。自分の責任でもないのにそういう所に暮らしているというだけで他所にはない作業を強制される。昔からのことと捉えるしかないのだろうか。相手が自然であれば人はそれに合わすしかないのだろう。
カモメ、カラス、セキレイ、トビ、ウを海岸で見た。大抵、毎日見ているのでどうということはないが、ちょっと考えてみると色、形、大きさ、体のバランス、生活スタイルなど、これだけの多様性がありながらもいくつかの共通項で鳥という仲間に括られている。子供でも鳥といえばそうでないものとの区別は出来る。見たことのない鳥でも見ればそれが鳥だと分かる。どうしてだろうか。子供の脳に既に分類が出来ているとしか思えない。鳥という言葉を与えるのは大人だろうが、鳥という概念は出来ている。それは脳に生命誕生以来の記憶が組み込まれていると考えれば納得がいく。そんなことがあるのだろうか。あると言われればあるような気もするが。個体発生が進化を体現しているのはその傍証になるのだろうか。また、言葉というものは目に見、耳に聞き、鼻で嗅ぎ、体表で触り心地を感じ、味を感じる具体的なことに言葉を当てはめるだけでなく、まとめたり分類したり関連づけたりする脳の作用にもそれぞれ言葉を付加する。おそらく文法も既に脳の形成とと共に誕生していたのだろう。
4時35分に帰着。