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6時35分に犬の散歩に出掛ける。今日は土曜日。
幼小中辻曲がりコースを歩く。晴れていて風はない。
野球部員が中学校に向かっていた。ユニフォームの上にブルゾンを着ている。練習試合があるのだろう。三連休の中日である。
犬はしきりに立ち寄りをする。その子供たちは我々を追い越す時、いちいち立ち止まり、一旦、気を付けの姿勢をとって最敬礼で「おはようございます。」と言う。勿論、返すが、その丁寧さ礼儀正しさは人を良い気分にし、それが出来る自分も良い気分になるのだ。一挙両得、ウィンウィン、一石二鳥である。私も学び直す必要があるようだ。不愛想、無表情が習慣として定着してしまっているからだ。健康ならそれを喜び外に出すが良い。
この中学生は1,2年生だろう。小学校も卒業式が終わったようで、今、児童生徒学生が一番少ない時期だ。4月になれば生き返ったように活気を取り戻し賑やかになるだろう。
小学校の運動場の周りの道を過ぎ直線の道に入る。そこの道端の露が玉となって残っているイヌムギの葉を犬はヤギのように食べた。ここのイヌムギはとりわけ緑が濃く新鮮である。
犬はよく引っ張る。「おっ」とか「うっぃ」とかの声が出てしまう。「んあえ」という声が出た。これが人間が本来的に出す音なのだ。叫びなども「うぉー」とか「えあお」である。
言葉としての音は矯正され、制限されているのだ。現代の日本語は特にその傾向が強い。古代は母音の数がもっと多かったそうだ。その経緯は調べてみると大変興味深いものだろう。個人的な感想だが、多分、感性的に動物的な音を嫌ったからではないかと考えられる。
動物の声を文字で記すのが困難で言語によってその表記が多様なのは言葉としての音の矯正、制限に由来している。
外国語には母音、子音の数が多いものが多い。発音に関しては伝統が残っているということになる。
英語を読んでいてどうしても分からないところが残る。しかし、逆に分かるとはどういうことなのだろうかと思う。それは結局、文、文章を情景と比較して全体を記憶することなのではないか。呑み込むしかないのだ。そして、それが土台となって読みは広がり深まる。
犬の背中に再びフケが見られるようになった。毛を分けて見るとフケが奥にもある。毛が密なのに驚いた。
8時15分前に帰着。
昨夕の散歩について
5時5分前に犬の散歩に出掛ける。
出発の時刻が遅くなったのはひとえに犬のせいだ。散歩に行く予兆、つまり、北の玄関に行って施錠を解き、小さな手提げを持って来て、オウブンに冷凍してある食パン半切れをセットしてといった準備をすると犬は興奮状態になる。
ワンワン吠える。これが好きではない。はっきり言って飼い犬に吠えられるのは手を噛まれるより嫌いだ。吠えれば自分の意思が通るというかなりレヴェルの低い心性を許容したくないのだ。お前はもっと賢いはずだとの思いが背景にある。
それで犬と心理的な綱引きである。物理的な綱引きは散歩毎にやっているが。
怒っても仕方のないことだ。犬は反応してくれたことに喜ぶだけだ。ここは無視に如くはない。しかし、これは時間がかかるうえに私の性分に合っていない。だが、他に方法はない。
2階に上がって読書の続きをする。勿論、下の犬は気にかかる。ワウワウがクウウンに変わる。やがて無言になる。
降りて行くより先に足音を感じるともう吠えだす。戻って読書の続き。バウバウがクウウイーンに変わり間もなく声が消える。
これを何度繰り返したか。しかし、現実から学ぶしかないのだ。
どうにか気持ちが落ち着いてきたようだ。ここでふと気が付いたことがある。北の家に居る時はもっとお利巧で我儘は殆どないのに、南だと吠えれば何でも自分の思い通りと思い込んでいる。まあ、その理由に思い当たる節は無きにしも非ずであるが致し方ないことだろう。
公園、グラウンドを散歩する。糞をしたのでこれで良いだろうと思った。住宅地の方へ引き返し帰る。
散歩の時間が短かった。歩く距離もわずかだったろう。しかし、朝は犬は1時間かそれ以上歩いているがそれが適切なのかどうか気になった。長過ぎるという気がしないでもないからだ。
夜は私同様早く寝るし、昼も殆どうつ伏せで寝ているようだ。深く眠っているかどうかは知らないが、体は長時間休ませている。朝の散歩の運動量が過重なためだろうか。
5時25分に帰着。
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