7時15分前に犬の散歩に出掛ける。今日は土曜日。
幼稚園、小学校の前を通るコースを歩く。曇り。北寄りの風が冷たい。
散歩に出掛ける時刻が少し早くなったのは起床時刻が早くなったからだ。この所、6時台に起床していた。眠いのだ。それが昨日、今日と5時台に起床するようになった。睡眠は十分という感じと空腹を感じるからだ。
ジョウビタキがカッカッカと鳴いていた。その方向を見ると庭木の小枝にジョウビタキが止まっていた。少し地味なのでメスのようだ。
犬は夕方の散歩では糞をせず、朝の散歩で2度するようになった。この3日間がそうだ。
7時15分に帰着。
昨夕の散歩について
4時15分前に犬の散歩に出掛ける。
青空が広がり暖かく風もない。春のような気候になった。どうやら上着は不要のようだ。
公園、グラウンドを通って海岸に向かう。グラウンドに枝がたくさん落ちて散らばっていた。太いの細いの長いの短いのなど様々だ。大抵は桜の枝のようだ。サッカーボールや野球のボールが折ったのだろう。
グラウンドの西の丘の下には茶色の枯れた松葉や松ぼっくりが集められていた。昔はこれで風呂を焚いたり七輪の火起こしに使ったものだ。人間の生活にとって火は身近なものだった。暖をとる為のものだし灯りとしての働きもあったし動物から身を守る防御の施設と多目的でもあった。が、それも過去のことになりつつある。暖をとる為の機械は専用の物があるし、灯りにしても、防御の施設も専用化されている。機能の曖昧さは許されず著しく特化・分業化されてしまい単一の働きしか出来なくなった。
この数十年の歴史はそれ以前の数千年の歴史に匹敵する変化を人間の生活にもたらしたといえるかも知れない。
これからのことを思うと不思議な感じがする。一休みするのだろうか、少し戻ってみるのだろうか、或いは更に加速するのだろうか。
いずれにしても一時的な揺らぎはあっても先は見えている。最終的には更に加速するしかないだろう。そのように我々はつくられている。変化が変わらぬ真理なのだ。
犬に引っ張られてアアとかウウとか唸っている私であるが、これも何時までも続く訳ではない。そう思うと、今の状態は仕方がないと妙に納得できてしまう。受け入れるしかないのだ。
海辺のカフェの駐車場の横から浜に下りる。北に向かい大きな川に至る。突堤の先端の方に人が歩いていてその足元に2匹の猫が付き添っていた。この気候だからなと思った。そして突堤に上がる気が萎え引き返す。犬は不承知のようだったが仕方があるまい。譲る時は譲るしかない。
4時20分に帰着。