6時25分に犬の散歩に出掛ける。今日は水曜日。
丘陵の頂越えのコースを歩く。曇っている。風があって心地良い。
犬の引っ張りは相変わらずである。右手がかぶれていてその様相がひどくなっているが、右手にリードを左手に携帯を持って歩いていると犬の引きに右手が痛むので犬の言いなりになる。それで逆コースを歩く羽目となった。市の施設の駐車場に入り裏門から出て駅の裏に出て命豊かな川沿いの道を遡る。
市の施設の敷地を歩いていて左手にイヌビワの黒い実を付けたものがあった。イチジクの仲間だろうにどうしてイヌビワなのだろう。白い乳液が出るのもイチジクと仲間同士であることを示している。粒々の種子があるのも共通している。
その近くにシオカラトンボが飛んでいた。その上をウスバキトンボの群れが飛んでいた。ウスバキトンボは地物から離れた空の虫だ。飛行も大きく真っ直ぐに飛ぶ。一方、シオカラトンボは地物に止まるように地物の形状に合ったように微調整を繰り返しながら細かく上下左右に飛んでいる。
犬は命豊かな川沿いの道で腹這いになった。5,6分は休んだだろう。仕方がない。後は休まなかった。
川沿いの公園に入りそこに設置してある水道に犬は行き、私を見上げるので蛇口を開いて水を飲ませる。私は上の噴水の方で飲んだ。うまい。
7時40分に帰着。
昨夕の散歩について
6時40分に犬の散歩に出掛ける。横浜の親戚がリードを持ってくれた。
空が曇ったりしていてこの時刻、かなり暗くなってきた。そして聞こえるのは蝉の声ではなく秋の虫の様々な音である。蝉に比べると随分落ち着いた、かすかに秋の面影を伝える声である。あの激しかった夏も陰りを帯びてきた。
圧倒的な隆盛を極めた時季、植物、動物、個人、種族、王朝、国家など何でも、それが長く続いた例しなしである。皆、一瞬なのだ。
皆、永遠に続くと夢見るのは永遠に続かないという証拠を提示していることに等しい。
真実は常に真実を裏切るのだ。悲しいことにそのことが伝わる前に伝える側が消滅している。
自分が生きてきた範囲で考えれば、この世は、只、感じ方次第だと思う。人生も悲惨と言えば悲惨。幸多いと言えば幸多い。しかし、これはニュースで伝えられる内外の現実に比してみれば余りに無責任な言であろう。が、浅学非才の身として生きているこの狭き世界も現実の世界の一つと主張しても誤りではなかろう。圧倒的なものに圧倒されることもなかろう。
浜は北風でかなり涼しかった。が、犬は幾たびとなく浜に腹這いとなった。疲れているから仕方がないと休ませるばかりであるが、時を見計らって、良し、ラブちゃん行くよというとさっと立ち上がる。これはチャンスなのだ。良し、さあ行こう、ラブちゃん、偉いね、本当に偉いね、一二、一二と声を掛けると、犬は駆け出した。さっきの腹這いは何だったのと思った。が、こんな瞬間毎の変化こそ命の本質を表現している。だからといってどうということはないのだけれど。兎に角、深刻に考えることないと言うことだ。
グラウンドに戻るとコウモリが数匹、アゲハチョウのように音もなく変幻自在に空を舞っていた。コウモリの腹の細さとアゲハの腹の太さを思う。
7時半に帰着。