またまた中学校同窓会の幹事団結成というおせっかいの虫が、頭の中で、気持ちの中で、うごめき始めた。
前回が2015年4月開催だったので、あれから3年半が経過しようとしている。同級生の7割近くは年内に77歳を迎える。一方で小生のように1月以降の生まれにとって喜寿はまだ先の話である。でもここらでそろそろ準備を初め、全員が喜寿を迎える来年4月に「喜びの歳」喜寿同窓会が開催出来れば、節目としては最高のイベントになるのかな、などと思い立った次第である。
そして今一つ。喜寿同窓会を最後に、中学校同窓会を終わりにしたいとも思っている。
長年、一致団結して精一杯盛り上げようと努力してきた幹事団のお役御免、全面解散にしたいということ。少し寂しい気もするが、来年4月に向けた全力投球が残されているので、そんな感傷に浸っているひまはない、というのが正直な気持ちでもある。
なんだかんだ言いながらも、お節介役から解放されるのはあり難いのかな?まだ少しエネルギーが残っている感もあるが、意外に気持ちだけで身体が付いて行きにくくなったりしている部分無きにしも非ず。
拙ブログのカテゴリーに「おせっかい」の一項を設けている。内容は、小・中・高の同窓会やクラス会の開催をテーマとしている。
半分は謙遜のつもりで、幹事団を組んで世話をすることを「おせっかい」と自称して来た。
残り半分は「うまくいって当たり前。ヘマをすると避難ごうごう」こんな割の合わん仕事をよく引き受けたもんじゃねーという自虐の念もあった。
改めてお節介という言葉をひも解いてみると、「却ってこちらにとっては迷惑になる、相手方の親切心に基づく行動のこと」を総称するようで、その中味は、「ありがた迷惑」「独りよがり」「無用の親切」「余計な世話焼き」・・・・・・等々、決していいことではないように書かれている。
果たして、同窓会幹事という役回りがこの「お節介」に該当するのかどうか。中には「ありがた迷惑」という気持ちで案内状を受け取る人もいるだろうが、「待っとったよ~」と喜んでくれる人たちだって多いのではないか、などと勝手に解釈している。
つまり、お節介なのかなーと思うのは、小生自身の謙遜であって、幹事皆さんの出しゃばりでもなんでもない、それどころか「奉仕の心」の表れと受け止めたい。
つい先日受講した某福祉大学教授の「福祉とはなんぞや」の講義では、「『お節介とは』節度のある仲立であり、これからの世の中で必要欠くべからざる生活習慣ですよ」と聞かされた。
ややこしい話は置いといて、元気に喜寿を迎えた同級生が集まって「来し方・行く末」を談笑するお膳立てをする幹事役。
次にやろうとしても出来ない最後の務め。15人もいた幹事団が何人減ったのか、そんなことも気にせず、目いっぱい気張ってみよう。
火事場のバカ力ならぬ、最後の花道を飾る力が湧いてくるかもしれない。 さて何人集まるんじゃろう。