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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「楽しきかな、人生」

2009年01月19日 | 思い出話
丑年にあやかって、“牛に引かれて善光寺参り…”ではないが、“孫に引かれておのぼりさん”の東京タワー見学まで後2週間。 今となっては、言い出しっぺの孫よりも、じいちゃんが一番その気になって、あれもこれも…とスケジュールを欲張っている。

そんな折り、思いも掛けぬ嬉しいプレゼントを頂いた。
「……ささやかですが、気持ちです……」メッセージに添えて東京タワー展望券「OBSERVATION TICKET」3名分が送られてきた。もちろん丁重なお手紙に、タワーパンフ・周辺地図なども。

感動に胸が熱くなった。 内容や理由は、6歳には理解しがたいだろうから今は言わない。が、もう少し大きくなったらちゃんと話して、人と人とのつながりの大切さ・有り難さ・嬉しさ…全てを含めて、人生のいい教材として話して聞かせたい。

思い起こせば、14年前に初めての出会いがあった。
会社の命令で本社勤務を命じられ、単身赴任。住まいは、有楽町から45分くらいのベッドタウン。会社が準備した借り上げマンション。その管理をされていたご夫妻である。 そこで7ヶ月間お世話になった。
その後世田谷区の単身赴任寮に引っ越したから、実質のお付き合いは、14年前のわずか7ヶ月である。

それはそれは気の置けない素晴らしいご夫婦で、おっかなびっくりのお上りさんをものの見事に都会生活に馴染ませて頂いた。それだけで終生忘れ得ぬ出会いとなった。その後ももちろん音信は途絶えず、定年退職2ヶ月後には退職の挨拶に訪問した。

一昨年、錦帯橋・宮島を旅行されるチャンスに恵まれ、ホンの少し案内して差し上げた。
長い生涯の中でのたったの7ヶ月間のお付き合いが、今このような形で感動させて頂けるとは、人生って素晴らしいなー……と、つくづく思う。

こんな感動で始まる14年ぶりの東京見物、やっぱり、孫に引かれて…などではない。 
じいちゃんに引かれて、孫が後からついてくる旅になりそうだ。 楽しんでくるぞー……。

        ( 写真: 送られてきた展望券・パンフなどなど )
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「あれから14年」

2009年01月17日 | 思い出話
1月17日。 阪神淡路大震災から14年の歳月が流れた。
当時3歳だった子が、17歳高校3年生である。被災した彼や彼女は元気に高校生活を送っているのだろうか。 進学を目指す諸君は、今日から始まった大学入試センター試験を、迎え撃っているのだろうか。

14年前のこの日、単身赴任で東京・世田谷区・太子堂にある会社の寮で最初のニュースを目にした。
その瞬間、一瞬ではあるが目眩をおぼえたことを今でもはっきり記憶している。

テレビ画面一杯に、濛々と立ち上る煙・炎。それもあちこち複数箇所で。
その時、ふと脳裏をかすめたのは、終戦間近のB29爆撃機による焼夷弾炸裂の悲惨な状況である。
3歳7ヶ月そこそこで終戦を迎えたこの身に、実際の焼夷弾の怖さが記憶にあるわけではないと思う。が、誰かに千切れそうなほど手を引っ張られて必死に逃げる時に出来た、足のみみず腫れの感触は、遠い記憶の中に今でも残っている。

その再現かと思わせる光景であったが、それは、人為的なことではなくて、天災であることに、不謹慎ながらある意味安堵の胸をなで下ろした記憶は新しい。
多くの犠牲者と、計り知れない損失に見舞われた大震災。 これらの貴重な体験を決して無駄にしてはならない。

先ずもって、人の命の尊さを改めて思い起こしたい。学校や体育館など大勢人の集まる場所の耐震強化などは、待ったなしのはずなのに、あの忌まわしい体験から14年たった今も、地方小都市などは財政逼迫で、具体的な対応が追いついていないのが現状である。

日本人の英知と限りない底力で、震災の爪痕から確かな復興を見せていることは実に心強い。そして毎年訪れる1月17日を、単なる記念式典や追悼式だけに終わらせず、天災は忘れた頃にやってくることを肝に銘じて、“命”を守る具体的な施策を実施して欲しいなと願っている。

       ( 写真:テレビに映し出された、追悼式・“命”のお灯明 )
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「そんな昔も…」

2008年12月27日 | 思い出話
JRA日本中央競馬会、この一年を締めくくるG-1レース「有馬記念」が明日開催される。当たりはしないが、話のタネに参加してみたくなる。銀行に組んだ購入資金口座も、ジリ貧でいよいよ底を突いた。
取り返そうなどという大それたことを考えると深みにはまる。ほどほどに楽しむことに徹している。

昔昔のその昔、片田舎の少年が、サラブレッドを疾走させる競馬騎手、今で言うジョッキーにあこがれていたそうな。 住んでいるところが田舎ゆえ、近所の農家には農耕用の馬を飼っている家がたくさんあった。
馬に新鮮な草を食べさせることは、農家の一つの仕事でもあった。小さいときから馬と親しんだ少年は、中学校の頃には、農家の馬小屋から勝手に馬を引き出して、乗りまわりながら、新鮮な草を食べさせるのが日課になった。

あるとき、農家の一軒が、血統証付きの競走馬を購入して、少年を騎手にして草競馬に出場することを決めた。その頃少年は帽子に白線が入った高校生になっていた。どこかの厩舎に所属して本格的に騎手になる夢をふくらませておったそうな。

来る日も来る日も、馬と一体となって調教して腕を磨いていた。草競馬の出場枠も決まった直前になって、調教中の馬が突然路面に躓いた。前足の両膝を、皮がむけるほど擦り傷を負ってしまった。乗っていた少年は、稲穂の実りかけた田んぼの5㍍も先に放り出されたそうな。 少年はかすり傷一つなく無事だったが、馬は、一端膝を突いたら競走馬失格である。農耕にしか使えなくなった。

ついに少年の草競馬デビューが夢と散った。高校を卒業したら、一家の働き手を切望され、厩舎入寮の夢もついえたそうな。 人間、何が幸で何が不幸か分からないが、節々に運命のいたずらというのは付いて回るようである。

「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」と言われるように馬は自分の勘で人を見る。馬になめられたらなかなか乗せてもくれない。そこは午年生まれで、馬とのウマが合ったのかも知れない。
高らかなファンファーレに乗ってゲートインするジョッキーは夢に終わった。責めて今、G-1レースくらいは興味をもって眺めたい。  そんな昔もあったのだ……。

        ( 写真:思い出のアルバムから拾った、遠い昔話の一コマ )
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「ミスマッチ」

2008年12月05日 | 思い出話
この時期のシトシト雨は、その後に間違いなく手の切れるような冷たさを連れてくる。
昨夜から今朝にかけての雨も、忘年会シーズンの週末を楽しむ酔客に、急激な冷え込みをプレゼントしているようである。

この冬は、自重して忘年会を二つはキャンセルしてきた。しかし明日の夜は、どうしても避けられない会なのだ。仏壇にお線香を普段の2倍手向けて、母の許しを請い、出席を決め込んだ。
が、明日の夜はこの冬一番の冷え込み模様である。どう対策を練るか……。

この頃女性の間で、一種の暖房ファッションとして見直されているという「毛糸のハラマキ」をすることも考えた。
イヤ待てよ、それでなくても、ややメタボ気味のお腹に毛糸の腹巻では、スラックスがはけなくなりそう。
ヨーッシ、お腹を温める変わりに、アスコットタイで首を温め、コートを持参。ということで寒さ対策の結論に達した。
「毛糸の腹巻」で思い出した。そういえば若い頃、毛糸の腹巻が流行に流行った一時期があった。いっぱしげなアンちゃん気取りで、かっこつけたかったお年頃の話だ。色とりどり、4枚を交互に身に着けた。
一度つけると病みつきになる。それはそれは温かい。その上胴回りが絞られて、キリッと締まった感じになる。
体型も毛糸の腹巻に耐えてあまりあるスリムを誇っていた、まさに青春時代である。長い間続けていた。

そうなると、冬の寒さに耐えるためだけでなく、真夏の暑さの中でも外せなくなってしまっていた。
海水浴場で、毛糸の腹巻・ステテコで砂浜を闊歩した破廉恥な写真が、アルバムの1ページを飾っている。
いくら青春のど真ん中とはいえ、流行に乗っかったとはいえ、バッカなことをしたもんだ……と大いに反省!!

何年か続けた後、思い切って脱腹巻に挑戦した。三日三晩、お腹が超特急で下った。寝冷えと同じにお腹が冷えたのだろう。えらい目にあった記憶も昨日のことのように思い出される。

残念ながら今では、毛糸の腹巻を上回るほどの脂肪がしっかり巻き付いている。あの頃のスリムが懐かしい。

      ( 写真: まさに青春のミスマッチ。真夏と腹巻 )
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「時効……」

2008年11月27日 | 思い出話
11月も下旬に入り、勤労感謝の日を前後する頃になると決まったように遠い昔が思い出される。
農家の取り入れも完全に終わり、冬支度に忙しくなるこの頃に毎年、青年団が小学校の講堂を借りて素人演芸会を開いていた。

寄せ集め楽団の演奏をバックに歌謡大会。但しこれは前座。本命はやはり、縞の合羽に三度笠、手っ甲・脚絆に身を包み、長脇差一本ぶち込んで踊るは「名月赤城山」。
何人かの舞踊ショーが済んだらキリ狂言、「吉良の仁吉」ときたもんだ。

♪♪ 好いた女房に 三行半(みくだりはん:離縁状)を 投げて長脇差 長の旅 恨むまいぞえ おいらのことは ……♪
などという歌で始まる歌謡芝居。外題も筋書きもセリフも、流行に流行ったメジャー級。
ところが演じる役者はド素人。 声は小さい通りは悪い……時折パラパラと親戚の者が拍手をくれる程度。
それでも下手は下手なりに必死だったなー。セリフの言い回しはどれほど練習しても納得行かなかった。その分、踊りでカバーした…と本人は思っている。

この演芸会に向けて9月終わり頃から練習が始まる。段々寒くなってくる。本番近くなると、講堂の板敷きの冷たさが身にしみる。練習が終わるといち早く、近くのお好み焼き屋の鉄板を囲み反省会。ほとんど毎夜。

ついつい弱いのも忘れて熱燗のコップ酒に手を出す。これが失敗。ある晩ちょっと飲み過ぎた。まさに七転八倒の急性アルコール中毒。あれ以来、今もって熱燗のプーンと来るあの匂いだけで酔った気分になってしまう。

そんなことこんなことを身をもって体験しながら、今があるんだなーと思う。晩秋というより初冬の煌々と冴える月を見ると、気分はあの頃にスーっとタイムスリップする。 なんでもかんでも食らいついて必死だったような気がする。 今は、食らいつく気持ちに変わりはないが、少し歯が弱って、なんでもかんでも…とは行かなくなった。

愚にも付かない回顧録のお粗末…… チョーン!!

       ( 写真: 恥も外聞もない若さの特権。素人演芸会 )


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「SL 現役!」

2008年11月25日 | 思い出話
女優さんや男優さんが輝くには、多くのスポットライトを浴びる舞台がある。
人が輝くには、その人なりの豊かな人生経験や、衰えぬ好奇心・向学心がスポットライトや舞台の代わりをする。
今なお現役で、濛々たる黒煙を吐きながら列車を引っ張るSL機関車にふさわしい背景は、黄金色に輝く田園風景・白波を立てて荒れる海・緑に囲まれた山あいのトンネルを抜ける風景……などが引き立て役となって主役を輝かせる。
どうみても、高層ビル立ち並ぶ大都会の真ん中は、SL機関車にとって少し場違いな感じに見えてくる。

現役の「SL山口号」。通勤・通学に使われるほどの定期便ではない。が、期間限定・不定期便ながら「新山口駅」~「津和野駅」間を堂々と乗客を運ぶバリバリの現役機関車なのだ。
幸いにも、このSLさんが走る山口線は、昔ながらの緑豊かな山あいを、さほどに急ぐわけでもなく、適度な坂道を登ったり下ったり……それは優雅な、忘れかけていたゆっくり旅の一コマであり、味わい深いものがある

数多く製造された機関車の中でも、最も美しいデザインと評され、その名も「蒸気機関車の貴婦人」と呼ばれているCー57。
一般的に見られる、あの力強さが売りのDー51(デゴイチ)とはちょっと違ったおもむきを感じる。

幼い頃、山陽本線の間近に家があって、あの汽笛・蒸気を噴かす列車の音を子守歌に聞きながら育った。煤煙で鼻の穴が黒くなったとか、煤煙で麦わら家が火事になった…などなど色んな逸話と共に過ごしてきたSL機関車。現役で走る姿を見られることは、なんだか得をした気分にさせられる。

今シーズンは、昨日11月24日で運行が終了となった。主に観光客の輸送で、129日間の利用者数は約7万人だったそうである。
日本列島の大動脈として、縦横無尽に走り続け、人間生活の全ての基盤を支えてきた蒸気機関車。
新幹線一辺倒の今なお、現役として走り続ける背景としては、静かな山の緑・色づく秋の山肌・ひなびた人里が最高のシチュエーションである。
先日、津和野のお稲成さんにお詣りしたとき、運良く通りかかったSLにカメラを向けた。少し遠い上にあいにくの曇り空、絵になる風景には物足りなさがある。 どうぞご勘弁を……。
       
      ( 写真: 黙々と走り続ける、現役のSL 山口号 )
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「闘将逝く」

2008年10月28日 | 思い出話
我が愛する広島東洋カープ。その歴史に大きく名を刻んだ闘将「ルーツ監督」が83歳の生涯を閉じられた。
まさにカープ黄金時代のルーツでもある。

我が家に長男誕生という最高に嬉しい出来事から5日後、球団創立26年目にして初めて勝ち取ったリーグ優勝。その大きな大きな悲願とも言える歓喜を与えてくれた基礎の基礎を築いた人である。

アメリカ大リーグの選手やコーチを経て、初優勝前年にカープのコーチとして入団した。わずか1年のコーチ経験で翌年監督に就任。その間、我々の目に見えない部分で、選手を激励・闘志を植え付ける・勝つ味を覚えさせるなどなど、文字通り闘う集団としての意識改革がなされていたようである。

残念ながら、監督就任は公式戦15試合の指揮を執っただけに終わった。その時点では6勝8敗1分け。しかし、判定に対する抗議は半端なものではなかった。それが全て良しとは云わないが、抗議の裏にある選手を守るという監督の信念は選手全員に間違いなく浸透していったのだろう。

後を引き継いだ古葉コーチによって見事に花開き、古葉監督誕生となり、その後10年余、カープの黄金時代が続くのである。

もちろん監督1人の功績ではない、その時代の球界を代表する選手がカープに沢山いたという時代背景は当然ある。しかし、持てる力を最大限発揮させるのは監督・コーチの役割である。

会社の中では若手から中堅になりかかった頃だった。ルーツ野球を仕事に置き換えて、兎に角結果を出すためのチームワークの必要性や意識改革ということを、おぼろげながら目標に掲げて、額に汗したあの頃をふと思い出した。

やっぱり強いカープであって欲しい。外人監督4年目、さて来年は……。

          ( 写真: 審判の判定に激しく抗議する、当時のルーツ監督 )
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「渋柿や…」

2008年10月25日 | 思い出話
今年は珍しく、台風が一度も襲って来なかった。田や畑の作物に影響を与える大風も吹かなかった。お陰で、お米もレンコンも柿・栗・ミカンなど一様に豊作の当たり年となっている。
ちょっと田舎道を走ると、至る所に、たわわに実った柿の木が見られる。

桃栗3年、柿8年 という言葉がある。
ご承知の通り、小さな苗を植えてから実がなり始めるまでの期間のことで、桃や栗は割と早くから実を付けるが、柿はなかなか手間がかかる、という意味である。

それに続いて「渋柿や 丸8年の 恩知らず」という狂歌が頭に浮かぶ。
自分の中では、「桃栗3年 柿8年」と「渋柿や……」がセットになっているようだ。

子供の頃、本気ではなかったのかも知れないが、親父さんから「お前は渋柿じゃったのー」と言われた言葉を思い出す。
兄弟同じように手塩にかけたのに、兄貴は甘い富有柿。それに比べて、走るのは遅い・相撲は弱い・字も絵もうまくない……全ての面でハズレの私は、親父さんの期待を大きく裏切ったのに違いない。

でもね、渋柿だってね……と、いつも思っていた。
早くに木からもぎ取るから渋いんよ、もうちょっとそのままおいてくれたら、美味しい熟柿になれるかも知れん。
たとえ早くもいだ渋柿でも、皮をむいて太陽に当てるとか、お風呂の残り湯に一晩漬けてみるとか…、ひと手加えてやれば、渋柿ではなくなり、どんな甘い富有柿より美味しく食べられるのに……などと反発することも忘れなかったのだろう。
特別な商品価値はないとしても、今こうして普通に生きている。

子供の頃から、短距離走は得意でなかったが、長距離走はなんとか人並みに粘ってゴールを目指した。今も止まらず、なんとか走り続けている。
木に残った熟柿をカラスが突っつきにきたり、軒先に干し柿が吊される季節になると、決まったように「渋柿や 丸8年の 恩知らず」を思い出す。 秋ってやっぱり切ないなー…。

         ( 写真: たわわに実った 渋柿 )
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「椰子の実」

2008年10月02日 | 思い出話
 ♪ 名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実 ひとつ …… ♪
我が家にデンと居座る「椰子の実ひとつ」遠き島から流れ寄ったのでもなければ、名も知らぬ島から来たのでもない。
れっきとしたHawaii・Waikiki・Beachでサンセットバーベキューを楽しんでいるとき、近くに落ちてきたのをこっそり荷物に紛らわせて持ち帰った、ハワイ旅行記念品である。

1985年6月というから、23年前の話になる。
移民として渡った伯父が、人並みの成功を治めて優雅な生活を送っているので、是非元気なうちに遊びにおいで、という言葉に甘えて、それこそ往復の旅費だけの緊縮経費で行ってきた。もちろん夫婦揃って海外旅行初体験。
現地では甥っ子が、どこの観光地に行っても全て顔パスで、長蛇の列を横目に、スーッと目的地に案内してくれるのが気の毒なような、6泊6日の素晴らしい体験と、豪華な大名旅行であった。今でも、土産話には事欠かない。

一口に23年前というが、家庭環境は随分変わった。当時、長女が中学2年生、長男は小学5年生。その子たちが珍しがった椰子の実を、今は長女の子供達が遊び道具の一つに使っている。もちろんその頃は母も若く元気バリバリの現役商売人。子供の世話を頼んでどこにでも出かけられた。時間的余裕はあったが、残念、家計に余裕はなかった。
その母は100歳を迎え病床に、子供は片づき、夫婦二人の生活に。本来なら悠々自適のところを孫にかき回される……やはり、世の中全て持ち回りなのかなー。

ハワイ旅行の忘れもしない土産話をひとつだけ。
かの有名な全米オープンなども行われるハワイカントリーのクラブハウスで、農場経営者の引退パーティ(リタイアパーティ)に伯父達と参加した。約束の時間、集まったら何はともあれ、しっかり食べてしっかり飲む。その後で、厳粛なセレモニー・アトラクションへと流れていく。司会者が伯父の娘婿、つまり従兄弟。ステージではハワイバンドの有名グループが演奏している。いきなり「日本から来られたゲストを紹介…」といってステージに上げられた。歌を歌いなさいという。ハワイアンバンドをバックに歌を…と言われてもねー。
開き直ったねー。ちょうど千昌夫のハワイ公演ポスターが貼ってあったのを思い出した。「旅の恥は……」ヨーシ、“白樺~青空 南風~……” やったねー。バンドマンが思わずウクレレと手拍子を添えてくれた。大爆笑・大喝采。
あのクラブハウスで、ハワイアンバンドをバックに演歌を披露したのは、最初で最後らしい。若かったねー。

       ( 写真:渇きに渇いた、23年前の椰子の実と躍るフラ人形 )
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