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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「80歳の退職」

2021年04月27日 | 幼馴染の動向

            
             連絡船で宮島に渡って、厳島神社の回廊から眺める海中の大鳥居

                                          
                    青い空を突き刺すような、厳島神社五重塔

東北の松島、関西の天橋立、そして中国の安芸の宮島。世にいう日本三景の一つで、年がら年中観光客の絶えない、広島県廿日市市宮島町の厳島神社。
その表参道商店街に土産物を扱う老舗中の老舗がある。敢えて商店名は出さないが、そのどっしりとした店構え、ネームバリュー、扱う商品の豊富さ、観光客の扱い量、いずれをとっても三本の指に入る「株式会社〇〇屋」。

そんなお店の広い間口の中央部分に、四角形の商品台がをしつらえてある。商品がうず高く積まれたその中央部に陣取るのが彼女の職場であり、彼女の元気のいい売り声が通りまで聞こえる。社長・専務・常務ほか従業員約40人いる中で、いつしかベテランの売り子さんになり、みんなから親しまれてきた。その彼女とは、中学時代の同級生で、同窓会を開くときは間違いなく出席者の一人として計算できる、頼りにはなるがあまり派手さはない女傑である。

50歳からそのお店で働き始めた彼女。80歳の誕生日を1週間前に祝ったという。それに伴って連れ添うご主人の体調が芳しくない様子。そんな理由から、「そろそろ潮時。少しの元気を残して身を引こうと思っている」という電話をもらっていた。そして昨日「お世話になった皆さんへのお礼は、どんな言葉がいいと思う??」という相談であった。
さてどうしよう。兎に角今一度彼女の気持ちをしっかり聞いた上で、できれば通り一遍でない独自の退職挨拶をなどと、また肩の凝る思いをしている。

そうは言いつつも、彼女には恩義がある。
9年前の4月1日、親しい友に勧められて柄にもなく自作エッセイ集を自費出版したことがあった。それを読んだ彼女は「旅のお供にエッセイを」というキャッチフレーズで私が売って上げる。といって思いがけなく、天下の観光地のおみやげ店の店頭に並べて50冊以上売ってもらったことがある。買わされた方はさぞかし迷惑だったろうと思うが、そんな男気も持ち合わせている彼女からの頼みだ。

「80歳の退職」といったエッセイもどきのタイトルは付けないとしても、50歳から80歳までの30年間を心地よく、楽しくがんばらせてもらった会社、そして同僚の皆さんに、暖かい気持ちになってもらえるような300字程度を考えてみるとしよう。

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「ついに二人に」

2021年04月23日 | 幼馴染の動向

                            
                  根っこの周りを丁寧に掘って、最後にひと鍬タケノコに打ち込む。  堀上げてすぐに、大釜で茹でる。

この季節の最大のお楽しみであった「藪の中のクラス会」。
竹藪を守ってくれている友の山に、高校時代の同級生が集まってタケノコを掘る。すぐに皮を剥いて茹で始める。この茹でる時間が、大切な大切な宴会時間となる。まさしく少人数でワイワイガヤガヤのクラス会が始まる。

振り返ると、最初のタケノコ掘りはかれこれ20年前の話になる。
同級生3人が60歳の定年退職を迎えて、高校時代の恩師にその報告をするために新潟まで行って帰った翌日が確か1回目であったと記憶する。
3人が5人、7人と増えていき男女合わせて10人集まったのが最高であった。数年続けて楽しんだが間もなく、連れ合いの体調不良や、本人の不調などが重なって減る一方に。それでも4・5人で結構長く続いた。

昨年はコロナで完全に中止。そして迎えた今年。彼から誘われるままに一人だけクルマ運転で訪れた。
思えば20年という歳月が人それぞれの体調や境遇を如実に物語っている。大きく変らず最後まで残ったのは、山持ちの彼と小生だけ。藪の中のクラス会もいつしか二人の会になってしまった。それも、コーヒー飲んで、買って行ったお弁当食べて、堀りたて・茹でたての新鮮タケノコをたらふくもらって帰る。それさえも今年が最後となりそうな予感が。

また一つ人世の楽しみが消えていきそうである。こういったものに代わる新たな何かを望むのは難しい年令にさしかかっているということか。
やはり、他人を頼らず、自らの健康と体力を維持して、孫の追っかけに精出すのがお似合いということかも。

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「蝋梅」

2021年01月20日 | 幼馴染の動向

  

季節はいよいよ大寒に入った。あと2週間もすれば春立つ日、節分、と春近しを思わせるころとなった。
などとのほほんとしたことを言っていては、ホワイトアウトだの、雪の重さに家がつぶれそうだのと大変な難儀をされている地方の方からお叱りを受けるかも。でもそういった人たちのためにも、一日も早い春の訪れを待ちたい気持ちは強くなる。

師走半ばから咲き始める蝋梅は、今なお冬の花の代表格として至るところで楽しませてくれる。
でも私にとっては、あの蝋梅だけはあまり好ましい花ではなくなってしまった。特にこの冬の蝋梅は避けて通りたいような、重苦しい気持ちにさせられる花となった。

年は三つ違いで私が兄貴分、彼が従順な弟分で、少しやんちゃな兄貴と如何にもおとなしく、お金持ちのボンボンといった感じの弟。一見奇妙なコンビでもあったようだ。一時期は同じ釜の飯を食い、彼の結婚式には司会進行や、プロデュース役も買って出た。マージャンは言うに及ばず、カラオケもグループを作って、週一彼の家の離れで競い合ったものだ。そうそう、これだけは彼が先に手を出していたのを教わった。それが宮島ボートレースであった。

そんなこんな50年以上に及ぶ長い長い付き合いであった彼。私のこれまでの人生の中で、一番気持ちの休まる友であり、ちょっと手を貸したくなる少し頼りなさも持ち合わせていた。そんな彼を脳梗塞が襲い、そのまま認知症も併発して、意思の疎通がままならなくなり、段々と昔の誼が遠のいてしまった。退院して家での生活になってからも遊びには行くが、昔の丁々発止の元気な友が、病に伏せっている友を見舞うのは、双方ともに辛いものがある。
それでも、少し間をおいて訪ねるようになっても、顔を見ればすぐに思い出してくれた。

そんな彼の家には色んな花が広い庭に咲いていた。そのうちの1本が蝋梅で、奥さんが惜しげもなく切り取ってお土産に持たせてくれた。その彼が静かに旅立ったのが昨年3月。それを知らされたのは昨年10月。それほど長くご無沙汰した私も悪い。コロナによる家族葬で一切の報せもなかったのは少し淋しい。その淋しさが蝋梅の花に八つ当たりになったのかも。逆に考えれば、蝋梅が咲く頃には必ず彼のことを思い出し、追悼の気持ちを忘れないのかも知れない。功罪相半ばする蝋梅の花である。

ちなみに、蝋梅の花言葉は「ゆかしさ」「慈しみ」「先導・先見」とある。

花言葉の「ゆかしさ」「慈しみ」は、まだ花の少ない冬期に、そっと黄色い花を咲かせるロウバイの奥ゆかしい姿から。 落葉性の低木。名前に「梅」と付けられているが、全く別の植物。樹高は2~4mほど生長し、黄色い花を咲かせる。花からは、さわやかな甘い香りを漂わせる。そのため、香水や化粧品などに利用されている。

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「オーイ、生きとるか~」

2020年11月29日 | 幼馴染の動向

                                                               
                 トマトでもミカンでも柿でもありません。「ナス」です。

久しぶりに同級生から電話をもらった。開口一番「生きとるか?いっそも電話も掛からんし、具合でも悪いか心配したぞ」と少しオカンムリ。
「オーッ、元気にしとるよ、アンタも生きとったか?」と応じる。
この会話の通り、今まではほとんどこちらからの呼びかけで、互いの消息を確かめ合って来た。この習慣は、近くにいる同級生の場合ほぼ同じで、皆さん「掛かってくるのが当たり前」みたいな感覚でモノを言う。

そう思いながらでも、いちばん短い付き合いで60年。長い奴は70年も付き合ってきたまさに竹馬の友。何を言っても言われても肯定的に受け止め合う。互いに声を聞くだけで、なんかしら気持ちが安らぐという、不思議なマグマが隠されている。

彼の電話の要件は「たまには顔を見せに来ないか」である。これは何を隠そう「冬野菜が採れたから取りにおいで」というそれとないお誘いなのだ。毎年この季節の優しい彼の心遣いである。
行ってみると、スーパーの野菜売り場ではないが、白菜・大根・蕪・ミズナ・ほうれん草・里芋・ジャガイモ・サツマイモ。生椎茸にキュウイに小豆5合、おまけに根っこ付きの高菜まで。すぐに持って帰れるように準備万端整えてある。おまけに「花瓶に飾ったらいいよ」と写真「花ナス」ももらった。

これほどの本格的な上出来野菜を見せられると「オレも少し畑を作っているんよ」などとは言えないまま、「いつもいつも気の毒だね~」と言いつつ、クルマのトランクいっぱいに積み込む。家庭菜園に毛が生えたような我が家の畑では、これほどの出来映えには遠く及ばない。第一畑作りに彼ほど熱心でない。腕も良くない根気も薄い。

そんな彼は、周りに数多くいる同級生の中で、元気さという点ではイチバンである。
玄関に鍵を掛ける必要もないほど隣近所気心の知れた山間の小さな集落。のんびりこの上ない穏やかな生活。空気もおいしい雰囲気もいい。住環境は理想的な場所である。

最近とみに耳が遠くなったせいか、頑固になって段々意見が合わなくなったんですよ、と奥さんの愚痴も聞かされた。しかし彼は彼で「嫁がおればこそ俺は好きなようにさせてもらっている。夫婦が揃って元気でいることが何よりの幸せっちゅうもんよ」。私にそうっと耳打ちする。
そうか、やはり野菜作りも上手だけあって家庭づくりも上手なのだ。野菜を積み込んだトランクの片隅に、彼の爪の垢も忍ばせて帰ろう。頂き物がもう一品増えた。

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「人恋うる秋」

2020年10月19日 | 幼馴染の動向

                 
                   人気のコインランドリー

秋の深まりとともに、コロナによる「自粛の虫」にもガマンの限界が近いづいたようだ。呼応するように「遊びたい虫」がウズウズと羽を広げてきているみたい。「ちょっとした居酒屋あたりで、少人数のイッパイやりたいね~」などと。あんたが音頭を取りなさいよと言わんばかりの電話がかかってくる。アルコールはそこそこでいいから遠慮のない大声のカラオケを楽しみたいねー。という話になる。「そうじゃねー長いことやってないねー、そろそろかもね」などと返事をし、世間話になる。

〇〇さんは元気なのかねー。△△さんはどうしとるん?。まるで同級生の消息事務局みたいな問いかけをしてくる。「そういえばワタシこの前ね、〇〇君に会ったけどとても元気そうじゃったよ」とご報告が。どこで会ったのか訊くと「朝早くにコインランドリーで」というではないか。
「エッ!早朝のコインランドリーで幼なじみの男女クラス会なの?」と冷やかしてみる。

そういえば、かたや奥さんを亡くして3年。こなた主人に先立たれて数年。そっか~、雨が続いたりすると洗濯から乾燥まで一気に仕上げてくれるコインランドリーは重宝するんだろうねー、と他人事のように今は思える。

男も女もそれぞれの役割を抱えて生きて行くには、与えられた役割に掛かる前の早朝に自分の洗濯は自分でして出かけることもあるということだ。そんな味を知らずにノホホンと生きている呑気なヤツもいる。

男の早朝コインランドリーは少しの侘しさを感じないでもないが、こうやって楽しく交流の場として使えるなら、まさに一石二鳥、侘しさも笑いに変えてくれる魔力を秘めているようだ。
そこで拙い川柳一句  早朝のコインランドリークラス会  お粗末!!

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「千日紅」

2020年10月06日 | 幼馴染の動向

                                
                   百日江よりもっと長持ちする千日紅       

兄弟のようにつるんできて、互いを知り尽くした50年来の友。そんな彼の訃報を知らされたのは昨日。
7ヶ月前の逝去であろうとなんであろうと「お線香の一本も上げさせてもらわなければこちらの気持ちが収まらない」「三つも俺より若いのに、黙って先に逝くとはけしからん」とばかりに勢い込んで彼の家を訪ねた。

話し相手に事欠いているらしい奥様から、堰を切ったようにいろんな話が次から次に出てくる。そんな中でも「あの写真を見てください。あの笑顔のまま逝ったのですから、向こうでもしっかり楽しんでいることと思います」と誇らしげにおっしゃる。
逝去から7ヶ月という歳月は、別れの悲しみから立ち直り、自らの気持ちを整理してこれからを生きなければならない独り身の強ささえ感じさせる。
まっこと、彼の人柄・性格そのままに、ふくよかで柔和な笑顔は「さすがは俺の友達」と胸を張れる思いの する遺影である。

「俺に黙って先に逝きおって」と文句のひとつも言いたかったが、それより「俺もしばらくしたら逝くから 遊び場を見つけておいてくれ」と頼むことにして手を合わせた。再び顔を合わせたらまた遠い昔に戻って丁々発止の麻雀や 、あんたもなかなかやるね~などとカラオケに興じるのであろう。
300坪もある広い庭の片隅に、吾亦紅ならぬ千日紅が見事に咲いていた。「この花の咲く間はずっと仏壇に供えているんです」という奥様。

同じような時期に咲く百日紅、サルスベリよりもっと花期が長いのだとか。おすそ分けに少し頂いて帰った。
よく見ると、飾りっ気なくすーっと伸びた一本の茎の先に、一つだけ鮮やかな紫に咲く丸い花。かれの人柄を偲ばせるような花である。   
ちなみに千日紅の花言葉は「色あせぬ愛」「不朽 」などとある。彼と彼を取り巻く人たちの感情の交錯のようである。

ひたすら冥福を祈りつつ仏壇に手を合わせた。 

 

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「7か月後の訃報」

2020年10月05日 | 幼馴染の動向

                                                

半分は趣味ともいえるボケ防止の文筆活動が終わった。長らくの愛読者だった友人夫妻に、感謝と活動の終わりを知らせる葉書を出した。
「葉書を頂きました。長い間ご苦労様でした」のあいさつに続いて「実は……」と奥様が言いにくそうに電話の向こうで口ごもる。何かあったな!長年のお付き合いの勘でピンとくるものがあった。

「実は主人は3月半ばに2回目の脳梗塞で倒れ、2週間後の3月終わりに亡くなりました」とのこと。
まさに晴天の霹靂。一瞬言葉が出ないほどの衝撃を受けた。知らせるべきか悩んだけど、コロナ危機の最中で、葬儀も家族だけで済ませた。主人と私二人きりでのお別れをしっかりしましたから、結局お知らせしなくてごめんなさい。とのことであった。何故知らせてくれなかったの?とは云わなかった。云うべきではない言葉だと思ったから。でも、彼の最期は知らせて欲しかった。最期というより、倒れた時点で連絡だけは欲しかった。

彼が3歳下の弟分で、温厚篤実、柔らかい物言いのボンボン。こちらは、ちょっと粋がって少しやんちゃな兄貴分。そんなアンバランスが、それこそ人もうらやむような本当の兄弟のような仲で50年近く付き合ってきた。マージャンは生涯の好敵手。カラオケはアタシが先生?農業仕事は彼が先生。
彼の結婚式には司会も仰せつかった。余興では頼まれもしないのに、相撲甚句になぞらえてお祝いの一節をぶち上げたのを覚えている。考えに考えたオリジナル歌詞は今でも頭に浮かんでくる。

1回目の脳梗塞の後見舞った時に「誰か解る?」という奥様の問いかけにすかさず「けんちゃんじゃ」と、にっこり笑って答えてくれた。「他の人はほとんどわからんのにYさんだけはすぐに解るんじゃねー」と奥さんに、二人の中をうらやましがられたこともある。

長い人生の中で、そう多くはいない友情を深く胸に刻んだ友。そんな彼の訃報を7ヶ月もたってから知らされるとは。これもひとえに「コロナ禍」の犠牲である。ここにも憎むべきコロナがいる。
コロナ騒動の前に会った彼の笑顔を思い出しながら、明日はお線香を手向けたい。今回は相撲甚句に乗せられない分を心の中で「有り難う・ありがとう」と感謝を述べよう。良き友よ安らかに。 合掌

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「訃報」

2019年12月05日 | 幼馴染の動向

              

夕方、同級生の奥方から電話が入った。
中学1年から机を並べ、長じては同窓会の幹事を長いこと一緒にやり、発言力もある中で、常に力強い味方の一人であった彼がこよなく愛した奥方から。
「主人がついに亡くなりました」という訃報の連絡であった。

ここ数年、入退院の繰り返しが続き、見舞うたびに少しずつ失われていく迫力を感じてはいた。
初めの頃は「こんなのは病気のうちに入らんよ。早くよくなってまた遊ぼうよ」という激励に確かな反応を示し、本人もその気であった。
それが、入院生活が長引いたり、足越が弱って行くのを自覚するようになって、中学時代のやんちゃ坊主の顔も薄らいでいった。
羽振りが良かった頃の工務店の代表としての顔も、短い時間の中で老いを感じさせるようになっていた。

詳細な病状をここに記すことはしないが、あれこれ合併症が進行したのはこの目にも分かっていた。
奥方にはわりと早い段階で医師からの重要宣告はされていたことも、聞いていた。
「12月3日未明に臨終を迎え、安らかな笑顔の永眠にホッとしています」「葬儀も子ども達だけで済ませました」とのご報告を頂いた。
こればかりは如何ともし難く、ついにそのときが来たか、という思いの弔意を延べ、改めて幹事仲間数人で焼香に伺うことにした。

我々にとって、ギラギラ輝く真夏の太陽ではなかったが、ほっこりの暖かさで人々をホッとさせる晩秋から初冬にかけての、柔らか太陽であったような彼。
そんな太陽も夕暮れとともに静かに海に沈んでいく、柔らかい夕陽のごとく。これほど確かな自然の摂理に抗う方法などありはしない。
50歳から本格的に始めた同窓会幹事団の中で、黄泉路への先導者となった彼に、仲間の多くの悲しみと感謝の気持ちがある。
お悔やみ状ではなく、惜別の意を込めた感謝状を贈りたい気分である。

そしていつも思うのは、先に逝く者はいい。残された者は大変だ、ということ。
それも自由な選択肢などありはしない。ただ歳の順番だけは間違えないで欲しい。老少不定という言葉もあることを知ってはいるが。
出来れば「ごめんなさい」と先に逝くのがいい、などと勝手なことを思ってはいるが、これも平生の生き方を天が公平に判断するのだろう。

長い付き合いの友の逝去に 合掌。

 

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「待たせたね!」

2019年04月22日 | 幼馴染の動向

                                
                 お待たせ!同窓会アルバム出来上がり!!

1日でも早く皆さんの手許に届けたくて、肩の凝る思いも忘れて取り組んだ同窓会記念アルバム作り。ここに完成を観た。
参加者48人。アルバムだけを頼んで来た人も含めて50数部。今日、その全ての作業を終えた。
明日郵便局から発送したところで、やっとこさアタシの同窓会が終わる。

二人のコンデジカメラにアタシの一眼デジカメを合わせると、なんと500枚以上のスナップがパソコンにインプットされている。できるだけ偏らないよう、掲載枚数ができるだけ均一になるよう、先ずはそのセレクトから始まる。気が遠くなるような作業を繰り返す。そうして取り出したスナップを1枚1枚丁寧に、縦長にしたり横長にしたり、トリミングしたりして、アルバムに載せる枚数を可能な限り増やしていく。

時間にゆとりがあればこれはこれで楽しい作業ではある。ところが、タイミングを逸しては魅力も半減する。だから「兎に角早く」が主眼になる。表裏の表紙も含めて使ったスナップは127枚。差し込む文字や注釈など大小50ケ所近く。それらをA-4版で12枚の原版を作り上げる。プリントや製本仕上げなど、幹事が集まれる日にちの調整で原版は4日間眠らされる。気持ちは焦る。焦っても仕方がない、と分かっちゃいても、早く発送したくてウズウズする。

そんなこんなを経て、兎に角今日アルバムが出来上がった。
手にした彼や彼女はどんな反応を示すんじゃろうか。まさか丸めてゴミ箱に・・・なんてことはないじゃろうと願いたい。そうしないように、表紙には、坪量でいう157gの厚紙を挟み込んで、重みをもたせた。そして仰々しく「力作です。永久保存版として書架の一隅を提供して頂けると有り難い」と注釈をつけておいた(笑)我ながら、ちょっと厚かましいかな、と思わないでもないが、幹事唯一のわがままとして受け入れてもらうことにしよう。

好きでまた始めて、好きで苦労を買って出るおせっかい同窓会。今回で最後と思って頑張った。ところが、参加する側にとっては「まあそう言わずに、またやろうや、よろしく頼むよ」となる。
関東方面からホテルを取って参加する彼らが言うと説得力はある。故郷を遠く離れて暮らす人間にとって、同窓会は里帰りの格好のアイテムになるらしい。となればむげに断るのもね~。てなわけで、今は全くその気がないとしても、またいつか担ぎ出されそうではある。

ただただ今は、無事やり終えたことに安どの胸をなでおろしたい。

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「喪中はがき」

2018年11月20日 | 幼馴染の動向

            

11月に入ったとたんに、「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」という葉書が届き始める。
喪中の理由は様々である。親や兄弟の不幸であったり、我が子との突然の別れという深い悲しみもある。中には義理の姉の喪中に付き、などというのもあれば、誰がいつ亡くなったのか要領を得ないものもある。

今年届いた中でも特筆すべきは同級生からの1枚である。喪中欠礼の追伸として「高齢となり年々手元がおぼつかなくなり(中略)今年をもって年賀状を失礼させて頂きたく」(後略)と認められている。
2・3年前までは、同級生の中でも一番長生きしそうな元気な男だったのに、最近は病に付きまとわれるようになっていたことを思うと、「そんな急に老け込むなよ」とも言いにくくなった。

これも、今流行の「終活」の一つと言えるのであろうが、いざ同級生から正面切って突きつけられると、「ウーンそうか、ついに吾輩たちもその仲間に入ったか」などと神妙になる部分はある。
確かに、儀礼の最たるものであると解っていても、長年の慣習で年賀状を辞められずに今に至っている相手も多い。もちろん、儀礼ではなく心から年始の挨拶を交換したい人はいる。しかしそれは全体の半分くらいなのかなーなどと思う。

そして今ひとつ思うのは「喪中って、随分長い期間だなー」ということ。
亡くなった人との関係によって、多少の長短はあるにしても、喪に服する期間はおよそ1年ということである。とするならば、今年1月1日以降の不幸に対しては年賀状を差し控える「喪中」ということになる。
喪中の間は慶事や祭りごとを控えるという考え方から行けば、当然喪中につき年賀状は控えるべき、という結論にいたる。

但し、どこまでのつながりを喪中対象と考えるのか。明確な答えはないようであるが、およそ2親等あたりまで、と言うのが世間一般の考え方のようである。慌ただしい年末をまえに、考えることも多いねー御同輩。

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