怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

最近ブックオフオンライン

2008-01-22 00:34:04 | 教育書
あんまり好きな本屋じゃないからリンクはしない。

でも、古本屋というのも縁遠くなった。
昔は神田や馬場はもちろん、その町の古書店を巡るということをよくやった。
今はそんな余暇がない。

それとは別に、自分の書籍代が馬鹿にならない状況。
古本ならば少なくともトータルで半額にはなる。

でもって、また別問題で、読む本が増えすぎて「積ん読(ツンドク)」がたくさん・・・。

これには副作用が・・・。
家がせまいので置いておけない。
で、教室の棚におく。
学校のロッカーにおく。

でも、そのうち・・・。(ああ、こわい)

ちなみに私には「捨てるモード」が発動するには、相当の負荷が必要。

で、今日も帰宅すると、紙包みが。
すいません。また、やってもーた。ポチッと。

にほんブログ村 教育ブログへ

数を増やせばいいってもんでもないんだよ

2008-01-21 17:59:14 | ニュースから
教員定数増 子どもの学力向上につなげたい(読売新聞) - goo ニュース

読売もピンボケなのは正規教員の実増が1000人、非常勤が7000人と踏んでいるところ。

実際にふたをあければ、管理職が増員で、一番必要な子どもへの対応なんて増えていない。
非常勤もフルタイムでできる人なんていないからお客様になっている人も多い。
(別に定年後に無理をしろとは言えないでしょう?)

例えば、都内の話で、40人の2クラスで構成される新1年生を考えてみよう。
もう、そんな集団で座席について生活したことなんてないから、先生も子どももたいへんな一年を送る。
で、補助教諭を1人つけます!・・・て。

あのね、補助教諭なんていらないの。
2人いればまだしも、1人なんて扱いに困るだけ。
そうするならば3クラスになんでしてくれないの?
1クラス26から27人。
これはイイヨ。

東京都は低学年対策は人的にはしない。
いや、予算も他のことも全然しない。
他の自治体が聞いたらあきれるような実態だ。
それよりも習熟度別がイイっていってはばからない。

だから、同じ人を増やすといっても、現場の声を聞かない、対費用効果を考えない。
これが東京方式。

で、今回の人員増も東京方式なんでしょう?

読売はそこがわかっていない。
よって、彼らは学力低下をしている。(はは!)

にほんブログ村 教育ブログへ

教育実践から逃げない

2008-01-21 14:34:53 | 教育
(情念だけで書いてみる。)

闇雲なのだけれどやめない、逃げない、自分なりに妥協しないように批判しながらやる。
そうやりたい。

他の仕事と違い、実は次がない。
学校が変わらずとも子どもは違う。
しかも自分が1年経つということは年をとって変化をしている。
だから次はない。
子どもも私も生きているから、そういった意味で妥協は許されない。

闇雲だが。
現場に生きるということは実践家であるということ。

傍らから研究者に観察してもらって、どうか、という所作を受ける立場。
でも、自律的に実践をする者。
口を持ち、耳を持ち、鼻をもって手を前へつきだす。

闇雲だが。
一番の感触を味わえる仕事。

寄り添えることはラッキー。
次はないから、その瞬間が一番と思えるようになりたい。

そういうカンジ。

にほんブログ村 教育ブログへ

フリーダムライターズを観た

2008-01-20 22:15:51 | 映画
映画情報サイトへのリンクはこちら
(バナー画像からはリンクしていません。)

7月26日にも書いた作品のことなのだけれど、ようやく観れた。

相変わらず子育て中のレンタル人生はつらいなぁ。
年に何本かは好きな映画を見たいもんだよ。(ぼやいてすんません)

で、観てやっぱりよかった。
下馬評もかなりいい作品なのだけれど、私は教師なので、なんとなく当事者的な感触をもって観た。


予想通りというか、その名の通り、「綴り方教育」。
広義(現在、分掌に規定されてしまうようなことではないという意味での)の生活指導といってもいい。
生活教育といってもいい。
(アカデミックには定義が違うのかも知れないけれどね)

ミズGがそこへたどり着く過程がはっきりしなかったけれど、そこへ向かう理由ははっきりしていた。
生徒達の生活現実を掘り起こす事なくしては「学び」は成立し得ないという感触。
それが方法に結びついていった。

生徒達は高校生にして小5の国語力(英語力)しかないと烙印を押された連中。
でも、その生活現実は等身大の高校生のもの。
もちろん、人種差別や貧困などを抱えた日本に住んでいては想像し難い部分も含む厳しい現実がそれなので、日本の意味する等身大とは異なる部分は大。
でも、「等身大」というしかない、その時期にしかない発達段階における捉え方は、日本の同世代にも共通していると感じる。

で、そんな彼らが積極的に自己を開き、歴史に学び、社会に目を向け、書籍と対比される現実に向かう。
「書く」という自己表出・発現の機会をきっかけにして。

吹き出すように生徒間、教師生徒間の相互交流、理解が深まっていったのは、高校の学区改革からそれほど経っていなかったからかも知れない。
でも、必然というか当然の帰結として、ミズGのその手法が生きたのだと思う。

ミズGの実践を、「割り切れていない」「プロでない」という批判がもしかしたら出るのが日本の教育の現実かも知れない。
でも、それは認識の甘い批判だ。
逆にいうと、そういった仕事を教師から奪っていくということは、「育み」だとか「学び」への否定的行為であり、無機的な学習の設定しか教育に認めないという切り捨ての教育を推奨する行為だ。
それを求めない、あるいは認めない、他でやってくれという人は、建設的な批判をしている人ではない。

このドラマの優れていると感じるのは、ミズGの生活も掘り起こしている点だ。

第一に、夫婦が崩壊していく。
これはモーレツな仕事人になっていく、そういったのめり込みになってしまう教員の光と影を表現している。
とてもリアルな話だ。
夫の心の状況もよく理解できる仕立てになっている。
教員の家庭が荒れるとしたら、こういう形も大いにあるだろう。

第二に、イメルダ・スタウントン(ハリポタの魔法省から送り込まれた校長役)演じるキャンベル教科主任との対立もよい。
管理教育、上意下達のシステム強制という現在の日本の教育改革を絵に描いたようなリアルさを強調している。
諸外国の、特に、英米の教育を参考にしている日本において、この相似性は当然なのかもしれない。

彼女のセリフで印象的なのが、
「あなた(ミズG)の教育を他の人に押し付けるようなことはできません。」
というようなところ。

そうだよなぁ。
結局、ミズGの教育実践って、当たり前のことをやっているのだけれど、それを全ての教員にやれというのは無理なんだよな。
でも、そうすると、「教育愛」とかで定義される、教師の内発的動機ってなんなのだろう。
金か?(だから優秀教諭への報償制度なんてものができるのか?)
そう考える人には理解できない話になるなぁ。

ミズGもぼやいている。
「私は民生委員じゃないのよ。」
つまり、子どもの実態に自分を合わせるなんてできない。そう初めのころはいっている。
でもそのうち、夫に対して、
「若い内にしかできないのよ。」
つまり、教師としての成長が、自己改革的であり、自己の生活がそれを障害とするときを嘆き悲しんでいる。

日本でも、結婚したくてもできないと感じている教員がいる事実を、単に十把一絡げにバッシングするヤツ等は知っているのだろうか?
映画における離婚のエピソードとかぶる。

教材についても一つ。
アンネフランクの日記を出していた。
これは教師側のミズGが、生徒に投影した現実のイメージだけれども、この判断は教師としては大事な力だといえる。

それに対して、教科主任ともめた「ダイジェスト版のロミオとジュリエット」の話は、如何にも形骸化したカリキュラムの象徴のように見えた。
ここも日本的に相似。
一方で、教育予算が不足しがちな東京都内の各自治体の現状を思い出した。
そう。教材の管理も子どもの実態に合わせて自己責任化に転嫁される場合もある。

また、よくある教師の持ち出しについて。
私も教室に古本屋でかき集めた書籍を置き、古いPCを置き、様々な教具を触れられるように置いている。
時に、自分の子どもに与えなければならないものまで教室に持ち込んでいる。
これはこれで虚しい現実だ。
訴え出れる場もあるけれど、そう頻繁にはできない。
愚痴というより、自分のいたらない、もう少し工夫のしどころがありそうな部分を思い浮かべた。
ミズGは教委や世間に訴えた。
でも、それは日本的ではない。
日本の場合、カリキュラムの制限は多いし、教委に頼むというのは自殺行為になる。
世間に訴えるにしても、政治的な様相を示せば処罰される。

とにかく、教材選択までも含めてカリキュラムを設定できる自由というのが教師側にあることは重要だ。
日本の場合、結局は教室から始め、教室で終わる。
そこから自然にはみ出ていくものが効果を及ぼすかどうか、恣意的なもんだし、弱い。

生活現実とかけ離れ、民主的、社会的な個として自立してさせていく子ども達を育む立場としては、自立的でないものを強制されたり、制限を受けたりするのはダメージにしかならない。

最後に、こういった実践は、クラス生活の成立を政治的(あるいは宗教的)なコミュニティの発生と捉える人がいること。
でも、それは複次的であって、「学び」の成立が第一の目標である点をぶらしていなければ、全然かまわないと私は感じる。
更に、社会的であるということは、そういったコンミューンの発生が当然であり、別にホームクラスということではなく、小集団にもそういった機能や思想をみることはできるし、それが対外的に運動をしたからといって直接的な批判の対象になるというのはあまりにも管理的で行き場のない見通しのない不自由な言い方だと思う。

実話がもとになっているという点はアメリカ映画の十八番パタンの一つであるし、当時の空気感や日本と違った背景などがある。
けれども、教育活動の手法、内容としての「生活教育」は、日本こそがお家芸であるハズだ。
日本においても、その個人の背負う生活背景は異なっているだろうが、昨今の豊かさによらず、子ども達に多くに、こういった教育が必要だと私は思っている。

映画で上のクラスからミズGのクラスに転入してくる子がいる。
そういった子でさえ教室という空間で、相互に認め合い、育みを実感できる場所で学びたいと願うからこそ、対外的なイメージを差し置いて入ってくる。

結局、ドラマ・ストーリーの評になってしまったけれど、映画のつくりとしても一流であったことを記して終わりたい。
特に、おとなしい展開が続くのだけれど、照明の変化、パンの仕方、クローズアップの仕方(金八先生なんかと比べてみるといい)に個性が見られた。
殺伐とした描写には、少しリアリティが弱い気がしたのだが、キズにはなっていないだろう。
挿入された音楽も、その当時の空気を説明するものになっており、秀逸だった。

にほんブログ村 教育ブログへ

7月26日のエントリの訂正。
藤原氏のコメントを読み直し、この人は教師へ「信頼」を預けよといっている。
これは一方的な話としていっているのだと、捉え直したい。
彼は間違っている方向を向いている可能性が高い。

どうしてこう食育とひっかけるのかな

2008-01-20 16:09:21 | ニュースから
中華まんづくりに児童が挑戦(中国新聞) - goo ニュース

中華まんは作り易い。
けっこう身近であるし、嫌いな子も少ない。
そういった意味で、家庭科の調理教材としても見る所はある。

でもさ、食生活云々で語られると、それは「飲茶だし・・・」とか思ってしまう。
子どもが料理を作れるということと、食生活が自己責任で正せるは違うことだし、そこへのステップと捉えても、わざわざひっかける必要性があるのだろうか?
近くの児童館では、そんなことは昔からやっていたよといいたい。

なんどもいうけれど、「食育」は作られたブーム。
儲けたいヤツがいる証拠。
自分こそが食われないようにしなければいけない。

にほんブログ村 教育ブログへ


料理を楽しむことが食育?

2008-01-20 16:01:31 | ニュースから
どっかのニュースで、どっかの校長が企画の中心に立ち、父子でスパゲッティを作ったら「食育」なんだそうだ。

へんじゃない?

じゃあ、同じ設定で木工作をやったら?運動をしたら?川遊びをしたら?
教科・領域を侵そうっている「食育」は、名を冠した時点で異常なんだよ。
そうではなくて、学校教育の中に本来合った機能を活かすだけで「食」に関する教育なんてできるんだよ。
以前からやってきたものもあるんだよ。

「食育」と銘打つことで融通が利かなくなったこと、責任化して困難になったこと、たくさんある。

そういった意味で、個人的には「食育」=「キモイ」としか思わない。
ばっちいから触って欲しくない。
どうせ政治的に汚れているのさ。だれかが儲けていてね。

にほんブログ村 教育ブログへ


生まれてこの方、口呼吸だよ

2008-01-20 02:59:40 | 戯言
【コラム】 鼻呼吸と口呼吸はいったい何が違うの?(R25) - goo ニュース

前から口呼吸がダメなのは知っている。
でも、アレルギー性鼻炎と鼻腔の形成状況から、鼻呼吸だけでは呼吸ができないのだよね。
ときに、とても通りが良い日があり、ああ、世間ってこんな匂いがするんだと気づく。
そういった意味で、私の鼻は半分以上機能していないことになり、体験が少ないことになる。
口が半開きはもう何十年のクセ。
ただ、自分の子どももそうなのは何だろう。

にほんブログ村 教育ブログへ

おそろしい脅し文句(教育再生会議という悪魔)

2008-01-19 22:28:32 | ニュースから
徳育充実など「後押しを」 教育再生会議の最終報告原案(朝日新聞) - goo ニュース

> 原案は昨年末の第3次報告までの提言として、ゆとり教育の見直しや徳育の教科化、学校間の競争を促す制度の試行などを列挙。
>中曽根内閣の臨時教育審議会や小渕、森内閣の教育改革国民会議に言及し、「残念ながら、提言は十分教育現場に反映されているとは言い難い」と指摘したうえで、「提言はすべて具体的に実行されてこそ初めて意味を持つ」として、文科省をはじめとする各府省が実施計画を作り、着実に実行することが必要だと強調した。

これは脅し文句か?
どうしてこういう悪徳な連中のいうことを聞かなければならないのか。
教育再生会議は非民主的な機関だ。
誰の信任も得ていないし、平等性にも、信憑性、公平性にも欠けるトンデモ会議だ。

こういった輩の影響を受けて来たからこそ、教育は政治性を如実に反映し、ダメになってきたではないか。

にほんブログ村 教育ブログへ


こういうツッコミはやめようよ

2008-01-19 10:08:59 | 戯言
大阪府知事選の橋下徹氏、3年間国民年金未納(朝日新聞) - goo ニュース

さすがにどうでもいいと思う。

学生に国民年金を支払えという時点で間違いだと気づいてほしいものだ。

同世代だからいうが、学生にも払えといわれて本格化した時期だろうに、学業そっちのけで国民年金のためにバイトをした阿保も知っている。
免除申請もけっしてスイッチポンで出来る世界じゃなかった。

私にはいちいち社会保険庁の人と話さなければいけなかったときもある。
これをもってどうこうって、選挙のときに言い出したヤツはだれなの?

そのうち、学生時代に立ち小便しただろう!って突っ込みで落選したりするのかな?

にほんブログ村 教育ブログへ

また始まった産経新聞の教員バッシング

2008-01-19 10:03:44 | ニュースから
【公教育を問う】第1部 私立人気の陰で(4)叱らぬ教師、乱れる教室(産経新聞) - goo ニュース

逐一全部引用してもいいくらいのひどい記事。
いくつかを。

>文部科学省などでは、規則を決めたら厳しく守らせるなど生徒指導見直しや出席停止制度活用、体罰範囲の見直しなどを打ち出してはいるが、ある母親(39)は「特効薬になると思ったのに現場ではまったく生かされなかった」。

脈絡のない引用も甚だしい。
この文の上に引用された現状報告は出席停止制度の適用とは程遠いにも関わらず、こういった引用をする。
産経新聞は誤解を増幅させる拡声器の役を進んでなそうというのか。

> 教員経験約10年で、『壊れかけた教師たち』の著書がある教育ルポライターの上田浩氏は
>「『学校裏サイト』は社会問題化したため下火になりつつある。
>その代わり表現は若干穏当になりつつあるものの、プロフで悪口を書く例が増えてきた」
>とし、

この著者、今月に本を出したばかり。評価が定まっていない。
どこの馬の骨ともわからない人をずいぶん産経新聞は高評価したものだ。

>「学級崩壊は昔からあるが様子が変わってきている。
>『ゆとり世代』の生徒は、はなから聞く耳を持たない。
>何の対価を与えてくれるかで教員を選別する」
>と指摘する。


「学級崩壊」の記述と「ゆとり世代の生徒の傾向」に関する記述とを並列に書き、脈絡がない。
前段を切り捨てて読むと、『ゆとり世代』の生徒というモノについての定義がないため、単なる印象論になっている。
仮に、形態の普及率の高い、中高校生だとすると、彼らが対価のあるなしによる選別の具体例がない。

単なるデマとしか思えない記事だ。

>携帯メールなどで教員の悪口が一晩で広まる最近の学校。
>どう対応していくか。学校や教員の指導力が問われている。

こんなことで指導力を問わないでほしい。
馬鹿も休み休み言ってほしい。
それならまず、産経新聞は携帯電話の新聞広告等を一切業界から排除、あるいは小学生でもわかる文章で、タバコの害表示のような文を広告してから言ってほしい。

社会問題化していることを指導力で問われてたまるか!
責任転嫁も甚だしい。
産経新聞は東スポ並みだ。

にほんブログ村 教育ブログへ

タッチボール

2008-01-19 09:35:47 | 教育
実践メモ

低・中学年のボール投げ・受けを入れたゲームはタッチボールで決定。
山なり基本のキャッチボールが練習になるし、特に、低学年の発達段階にあっている。

「直球」、「遠投」などの他の投げについては、「まと当て」などを別日にオビなどで入れるとよい。
特に、「直球」の受けは、山なりから距離をとっていき、キャッチに相当慣れができてから最終段階で行う。
(それでないと低技能の子への配慮ができない。つくられてしまった恐怖感を取り除くのは難しい。)

タッチボールは原始的な部分をもっており、ルールは簡単。コートも簡単。
学びどころは、基本技能(とても実感をもって練習が活きる)に加え、空間認識、役割分担(作戦意識)、関わり合いがある。
気づきが多く、学びも進みやすい。(学び方を教えるにも適している。)

1~4の任意の2学年程度で行うといいだろう。
おススメは1年と3年、2年と3年だろうか。(コレは私見)
他ではボール運動に入る前のウォームアップ的に使えるかもしれない。

私は実践途中だけれども、学習過程や実践報告、学習カード類の資料は求めればある。
(一般には入手できないが。)

にほんブログ村 教育ブログへ

あめふりくまのこ

2008-01-19 09:24:04 | 教育
実践メモ

「あめふりくまのこ」という表題はどういう意味があるのだろう。
挿絵をなしに読むと、子どもは雨の中の話ととらない子がある。
五連にきて、「ああ、雨はずっと降り続いていたのだ。」と気づく。

小川が「おがわ」と書かれているので、習っていない「小」を「お」と読むことが確認できる。

「ちょろちょろ」という語感、語のイメージを広げて作文しても面白い。

雨で出来た川なので、初めから魚はいない。

「もいちど」という言葉は、音のリズム(四文字)に合わせているところがいい。

「まちまち」という言葉の意味やリズムを議論させる。

六連目を作る。
このとき、文字のリズムをはずさないように、歌を覚えてからやる。
歌える続きを書くようにいうと、文字数ははずさない。

にほんブログ村 教育ブログへ

夢想

2008-01-19 09:17:04 | 教育
教員のライフヒストリを思い返している。

成果主義的なものが出てきて管理職が少し若くなっているとは聞く。
教員の移動スパンが短くなっているのに対し、管理職は伸び気味だと聞く。
(学校教育が子どもの実態から立ち上がりにくくなっている。)

自己研鑽を義務付けられている教員は、自立的な研鑽の機会を失いつつある。

職場内は管理統制の雰囲気で冷めてきている。
本音を言い難い、レベルの低いことを言い難い(これって実は大事)状況が基調になってきている。

若手を育てるといいつつ、まず先に自分が動くのではなく、既成のプログラムを用い、汚れ役を避ける管理職も多い。
と、いうよりも、そういった自己研鑽を避け、教育に携わる立場ながら、その内容を学ぶことをしないのだろう。
実は管理職も忙しそうだ。
だから、子どもと実践を作り上げることに喜びを見出す教員にとって、管理職というのはとても魅力がない。

「管理職になっても(同じように)子どもと接することはできるし、それよりもっと大きなくくりで育みを実践できる。また、教員を管理し、育てるというのもやりがいがあって、大事な仕事なのだ。」
という説明を複数の管理職から聞いたことがある。

詭弁だと思う。
自分を納得させるための理屈にしか聞こえない。

一人、
「自分には元気な子どもを見ていく体力がなくなったので、学校を下支えする管理職になろうと思った。」
そういった校長がいた。
彼はそれなりに難しい面もあったが、基本的には子どもを向いた、いい教育者であった。

また一人、
「校長になれば学校の経営ができ、少しは自分がやりたいことができるからなった。」
彼もクセがあったが、一直線な想いを語る、分かりやすい校長だった。
付き合う距離をとれば、決して管理管理とお役所的に融通が利かないようなことはなかった。
逆に、「これは俺が責任をとるからやれ」ぐらいはいって、急場をしっかりリードする人だった。

こういう人になるのであれば魅力は感じる気がする。

教員という人格の人を育む立場のトップは管理職や教委のハズ。
でも、彼らは教員の文化を壊し、自己研鑽の場を無視し、ときに邪魔をし、ただ守るものもなく上意下達の競争に没入する。
そんな傾向が見られる。

もっといっしょに教育の内容を研究してほしいのは、本来自分よりも上の世代の人のはず。

私は愚痴ってもしょうがないので後輩を研鑽の場に誘う。
でも、管理体制がキツくて、それもままならないのだよなぁ。

阿保な官製研修など無効化して、有意かつ優位な現実的な研究の場を管理職、教委も含めて広く教育に携わる人を集めてすればいいのに。
研修の評価は参加者である人が決めることになるから、馬鹿な研修報告書で縛る必要も激減するし、教育のレベルも向上するのになぁ。
指導要領という狂った縛りも、そういった中で無効化したり、発展解消されたりするだろうに。

にほんブログ村 教育ブログへ