民間の研究サークルへいってきた。
新年第一回だった。
今回も有意義だった。
開発中の教材とカリキュラムの目鼻が整って来て、もういっかいオフィシャルにたたかれる段階にきている。
私は途中参加だけれど、我が子のように思えるような教材だと思う。
いいカンジだ。
そこの長のI先生や他のメンツの人達には、共にこんないい機会にサークルに参加させてもらっていることに対して感謝をしている。
ちなみにI先生は同じ自治体に所属していて、自治体内の教科研究会でも今年度一緒だった。
その会の新年第一回は、サークルの前日に行われた。
その日の教科研究会では、今年度の「まとめと研究の成果報告会の打ち合わせ」がその日の内容だった。
それで、そこの話がサークルの議論の合間にちょっと話のネタになった。
何が言いたいかというと、その教科研究会とサークルの教科が同じなのだけれど、片や前者は指導要領の枠を硬直的に捉えていて、仮説に基づいてカリキュラムを立てると、子どもに身に付けさせたい力が身に付かないという事態に陥っている。
でも、片や後者は自由であり、民主的であり、子どもによりよく力を身に付けさせることが中心であるから、そんな状況に陥りようがない。
で、今回のサークルの議論の進行がとてもいい具合だったので、その前日の(教科研究会の)話がいかに馬鹿馬鹿しい話だったかをつい思い出してしまったのだ。
具体的には、前者の官製研究会は決して指導要領的な枠組みを執拗に外さない配慮をし、自縛していく。
結局、子どもに力を身に付けさせることができない見通しが立てられていても、それは指導要領に書かれているのだからと、その見通しを抑圧的に否定してイメージを作ろう(繕う)とする。
カリキュラムを実行し、結果、子ども達の感想から、まさにそういった不足点が素直に提出され、研究の「まとめ」の段階で、やはり自分たちの見通しがあっていたことをしみじみ確認するのだ。
それでも自分たちの成果がどこかにあると信じて疑わない。
なぜなら指導要領準拠だからだ。
教師、教育者としての自主性、自立性、自立性が全て欠落している。
これが管理統制をされている教員の姿だろう。
I先生と私は二人で別々な観点からそういう事態になることを予想していた。
だから、それをすり抜ける方法も提示していたし、嫌がられながらも主張しつづけた。
けれど、(糞)真面目な彼らは、わざわざ無駄に自重して(自縛して)そういう展開を(ときに忌み嫌い)さけたのだ。
それでもなんとかなるというスポンテニアスな気持ちだったのかも知れない。
ヒラメ的な責任感を発揮してしまったために、結局無責任な教育実践をしてしまった。
とにかくこれほど無駄な研究というのはない。
失敗の見通しがあるのに、それには目をつむって進むのだ。
本末転倒な教育活動が展開されている。
そんなことを思い出し、そういったことにできるだけ関わらない一年にしようかなと、今、考えている。
そして、今参加しているサークルのようなものを重要視し、自分でできる実践の積み重ねをやって、批正していく一年にしようかなと、そう今年初のサークル例会で思った。
新年第一回だった。
今回も有意義だった。
開発中の教材とカリキュラムの目鼻が整って来て、もういっかいオフィシャルにたたかれる段階にきている。
私は途中参加だけれど、我が子のように思えるような教材だと思う。
いいカンジだ。
そこの長のI先生や他のメンツの人達には、共にこんないい機会にサークルに参加させてもらっていることに対して感謝をしている。
ちなみにI先生は同じ自治体に所属していて、自治体内の教科研究会でも今年度一緒だった。
その会の新年第一回は、サークルの前日に行われた。
その日の教科研究会では、今年度の「まとめと研究の成果報告会の打ち合わせ」がその日の内容だった。
それで、そこの話がサークルの議論の合間にちょっと話のネタになった。
何が言いたいかというと、その教科研究会とサークルの教科が同じなのだけれど、片や前者は指導要領の枠を硬直的に捉えていて、仮説に基づいてカリキュラムを立てると、子どもに身に付けさせたい力が身に付かないという事態に陥っている。
でも、片や後者は自由であり、民主的であり、子どもによりよく力を身に付けさせることが中心であるから、そんな状況に陥りようがない。
で、今回のサークルの議論の進行がとてもいい具合だったので、その前日の(教科研究会の)話がいかに馬鹿馬鹿しい話だったかをつい思い出してしまったのだ。
具体的には、前者の官製研究会は決して指導要領的な枠組みを執拗に外さない配慮をし、自縛していく。
結局、子どもに力を身に付けさせることができない見通しが立てられていても、それは指導要領に書かれているのだからと、その見通しを抑圧的に否定してイメージを作ろう(繕う)とする。
カリキュラムを実行し、結果、子ども達の感想から、まさにそういった不足点が素直に提出され、研究の「まとめ」の段階で、やはり自分たちの見通しがあっていたことをしみじみ確認するのだ。
それでも自分たちの成果がどこかにあると信じて疑わない。
なぜなら指導要領準拠だからだ。
教師、教育者としての自主性、自立性、自立性が全て欠落している。
これが管理統制をされている教員の姿だろう。
I先生と私は二人で別々な観点からそういう事態になることを予想していた。
だから、それをすり抜ける方法も提示していたし、嫌がられながらも主張しつづけた。
けれど、(糞)真面目な彼らは、わざわざ無駄に自重して(自縛して)そういう展開を(ときに忌み嫌い)さけたのだ。
それでもなんとかなるというスポンテニアスな気持ちだったのかも知れない。
ヒラメ的な責任感を発揮してしまったために、結局無責任な教育実践をしてしまった。
とにかくこれほど無駄な研究というのはない。
失敗の見通しがあるのに、それには目をつむって進むのだ。
本末転倒な教育活動が展開されている。
そんなことを思い出し、そういったことにできるだけ関わらない一年にしようかなと、今、考えている。
そして、今参加しているサークルのようなものを重要視し、自分でできる実践の積み重ねをやって、批正していく一年にしようかなと、そう今年初のサークル例会で思った。