怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

フリーダムライターズを観た

2008-01-20 22:15:51 | 映画
映画情報サイトへのリンクはこちら
(バナー画像からはリンクしていません。)

7月26日にも書いた作品のことなのだけれど、ようやく観れた。

相変わらず子育て中のレンタル人生はつらいなぁ。
年に何本かは好きな映画を見たいもんだよ。(ぼやいてすんません)

で、観てやっぱりよかった。
下馬評もかなりいい作品なのだけれど、私は教師なので、なんとなく当事者的な感触をもって観た。


予想通りというか、その名の通り、「綴り方教育」。
広義(現在、分掌に規定されてしまうようなことではないという意味での)の生活指導といってもいい。
生活教育といってもいい。
(アカデミックには定義が違うのかも知れないけれどね)

ミズGがそこへたどり着く過程がはっきりしなかったけれど、そこへ向かう理由ははっきりしていた。
生徒達の生活現実を掘り起こす事なくしては「学び」は成立し得ないという感触。
それが方法に結びついていった。

生徒達は高校生にして小5の国語力(英語力)しかないと烙印を押された連中。
でも、その生活現実は等身大の高校生のもの。
もちろん、人種差別や貧困などを抱えた日本に住んでいては想像し難い部分も含む厳しい現実がそれなので、日本の意味する等身大とは異なる部分は大。
でも、「等身大」というしかない、その時期にしかない発達段階における捉え方は、日本の同世代にも共通していると感じる。

で、そんな彼らが積極的に自己を開き、歴史に学び、社会に目を向け、書籍と対比される現実に向かう。
「書く」という自己表出・発現の機会をきっかけにして。

吹き出すように生徒間、教師生徒間の相互交流、理解が深まっていったのは、高校の学区改革からそれほど経っていなかったからかも知れない。
でも、必然というか当然の帰結として、ミズGのその手法が生きたのだと思う。

ミズGの実践を、「割り切れていない」「プロでない」という批判がもしかしたら出るのが日本の教育の現実かも知れない。
でも、それは認識の甘い批判だ。
逆にいうと、そういった仕事を教師から奪っていくということは、「育み」だとか「学び」への否定的行為であり、無機的な学習の設定しか教育に認めないという切り捨ての教育を推奨する行為だ。
それを求めない、あるいは認めない、他でやってくれという人は、建設的な批判をしている人ではない。

このドラマの優れていると感じるのは、ミズGの生活も掘り起こしている点だ。

第一に、夫婦が崩壊していく。
これはモーレツな仕事人になっていく、そういったのめり込みになってしまう教員の光と影を表現している。
とてもリアルな話だ。
夫の心の状況もよく理解できる仕立てになっている。
教員の家庭が荒れるとしたら、こういう形も大いにあるだろう。

第二に、イメルダ・スタウントン(ハリポタの魔法省から送り込まれた校長役)演じるキャンベル教科主任との対立もよい。
管理教育、上意下達のシステム強制という現在の日本の教育改革を絵に描いたようなリアルさを強調している。
諸外国の、特に、英米の教育を参考にしている日本において、この相似性は当然なのかもしれない。

彼女のセリフで印象的なのが、
「あなた(ミズG)の教育を他の人に押し付けるようなことはできません。」
というようなところ。

そうだよなぁ。
結局、ミズGの教育実践って、当たり前のことをやっているのだけれど、それを全ての教員にやれというのは無理なんだよな。
でも、そうすると、「教育愛」とかで定義される、教師の内発的動機ってなんなのだろう。
金か?(だから優秀教諭への報償制度なんてものができるのか?)
そう考える人には理解できない話になるなぁ。

ミズGもぼやいている。
「私は民生委員じゃないのよ。」
つまり、子どもの実態に自分を合わせるなんてできない。そう初めのころはいっている。
でもそのうち、夫に対して、
「若い内にしかできないのよ。」
つまり、教師としての成長が、自己改革的であり、自己の生活がそれを障害とするときを嘆き悲しんでいる。

日本でも、結婚したくてもできないと感じている教員がいる事実を、単に十把一絡げにバッシングするヤツ等は知っているのだろうか?
映画における離婚のエピソードとかぶる。

教材についても一つ。
アンネフランクの日記を出していた。
これは教師側のミズGが、生徒に投影した現実のイメージだけれども、この判断は教師としては大事な力だといえる。

それに対して、教科主任ともめた「ダイジェスト版のロミオとジュリエット」の話は、如何にも形骸化したカリキュラムの象徴のように見えた。
ここも日本的に相似。
一方で、教育予算が不足しがちな東京都内の各自治体の現状を思い出した。
そう。教材の管理も子どもの実態に合わせて自己責任化に転嫁される場合もある。

また、よくある教師の持ち出しについて。
私も教室に古本屋でかき集めた書籍を置き、古いPCを置き、様々な教具を触れられるように置いている。
時に、自分の子どもに与えなければならないものまで教室に持ち込んでいる。
これはこれで虚しい現実だ。
訴え出れる場もあるけれど、そう頻繁にはできない。
愚痴というより、自分のいたらない、もう少し工夫のしどころがありそうな部分を思い浮かべた。
ミズGは教委や世間に訴えた。
でも、それは日本的ではない。
日本の場合、カリキュラムの制限は多いし、教委に頼むというのは自殺行為になる。
世間に訴えるにしても、政治的な様相を示せば処罰される。

とにかく、教材選択までも含めてカリキュラムを設定できる自由というのが教師側にあることは重要だ。
日本の場合、結局は教室から始め、教室で終わる。
そこから自然にはみ出ていくものが効果を及ぼすかどうか、恣意的なもんだし、弱い。

生活現実とかけ離れ、民主的、社会的な個として自立してさせていく子ども達を育む立場としては、自立的でないものを強制されたり、制限を受けたりするのはダメージにしかならない。

最後に、こういった実践は、クラス生活の成立を政治的(あるいは宗教的)なコミュニティの発生と捉える人がいること。
でも、それは複次的であって、「学び」の成立が第一の目標である点をぶらしていなければ、全然かまわないと私は感じる。
更に、社会的であるということは、そういったコンミューンの発生が当然であり、別にホームクラスということではなく、小集団にもそういった機能や思想をみることはできるし、それが対外的に運動をしたからといって直接的な批判の対象になるというのはあまりにも管理的で行き場のない見通しのない不自由な言い方だと思う。

実話がもとになっているという点はアメリカ映画の十八番パタンの一つであるし、当時の空気感や日本と違った背景などがある。
けれども、教育活動の手法、内容としての「生活教育」は、日本こそがお家芸であるハズだ。
日本においても、その個人の背負う生活背景は異なっているだろうが、昨今の豊かさによらず、子ども達に多くに、こういった教育が必要だと私は思っている。

映画で上のクラスからミズGのクラスに転入してくる子がいる。
そういった子でさえ教室という空間で、相互に認め合い、育みを実感できる場所で学びたいと願うからこそ、対外的なイメージを差し置いて入ってくる。

結局、ドラマ・ストーリーの評になってしまったけれど、映画のつくりとしても一流であったことを記して終わりたい。
特に、おとなしい展開が続くのだけれど、照明の変化、パンの仕方、クローズアップの仕方(金八先生なんかと比べてみるといい)に個性が見られた。
殺伐とした描写には、少しリアリティが弱い気がしたのだが、キズにはなっていないだろう。
挿入された音楽も、その当時の空気を説明するものになっており、秀逸だった。

にほんブログ村 教育ブログへ

7月26日のエントリの訂正。
藤原氏のコメントを読み直し、この人は教師へ「信頼」を預けよといっている。
これは一方的な話としていっているのだと、捉え直したい。
彼は間違っている方向を向いている可能性が高い。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
このブログ面白いです。 (ザンタ)
2008-01-20 23:40:11
 教育学部(小学校志望)の学生ですが、このブログの内容は面白く、とても勉強になります。ただ、教員という仕事は、現在よくバッシングを受けます。yoさんの言っているように、今の教育制度、これからの教育改革は、おかしいと思います。
 僕は、入学当初は教員を目指していましたが、今のところ、教員になろうか迷っています。それだけ教員という職業に魅力がなくなっているのです。
 yoさんのように、勉強なさって自分の考えをしっかり持って、スキルを持っていると、教員としてうまくやっていけると思います。しかし、安易な気持ちで教員になろうと思うと、精神疾患になるかもしれません。
 ここで質問したいのですが、もしyoさんの子供さんが、教育学部に入ってしまったら、教員を勧めますか?
返信する
こんなところにすいませんねぇ (yo)
2008-01-21 00:13:17
このエントリの文章のとっちらかり具合がとても気に入っていません。
しかも、映画評なのに、そして映画が趣味で銀塩映像についても語りたいのに、結局ドラマ部分についての評しか書けていない。

ま、でも、コメントは映画に関わらないのですが・・・。
しかし、わざわざこのエントリにつけていらっしゃるとは・・・。

いやいや。映画の話はおいておいて・・・。

>ザンタさん
コメントどうも。

同意していた点があるようで、そこは嬉しいです。

>yoさんのように、勉強なさって自分の考えをしっかり持って、スキルを持っていると、教員としてうまくやっていけると思います。>しかし、安易な気持ちで教員になろうと思うと、精神疾患になるかもしれません。

えーと、誤解なさらないように。
私は不良教員なのでブログをやっているわけで、優れた教員はブログを書く余暇ももたずに教育活動に邁進しているはずです。
で、自分の考えを持とうとは思っているので前段はさておき、教員としては「うまく」やっていけてはいません。
なんせ、精神疾患寸前です。
ブログは4年目になりますが、すでにそういった危機は2度あります。
(因にブログ以前にもありますから・・・。)
ま、まともな教員じゃぁありませんので、そういった意味では参考になさらないように。

前後しますが、
>僕は、入学当初は教員を目指していましたが、今のところ、教員になろうか迷っています。
>それだけ教員という職業に魅力がなくなっているのです。

それはザンタさん次第としか答えられません。
(私はいいアドバイスができるほどの人ではないので・・・。)
ただ、サラリーをもらうという意味での「職業」的には割に合わないとは思いますが、「やりがい」という意味では半生をかけるくらいの値打ちも魅力もありますよ。
そうでないと私もやってないです。

ただ、質問の子どもに・・・となると、うーん。
大学生になっているのでしたら自律的に判断してもらいたいと思いますとしかいいようがないですねぇ。
それぞれの職業が背負っているものって、どれでもあると思うのです。
ただ、このマンマの教育業界の悪しき侵攻が留まらないのであれば、どうせ若いのであったら、教育に関して他の関わり方も勧めますね。
学校をつくっちゃうとか、教材やカリキュラム提案、研修などを引き受ける事ができるNPOを立ち上げるとか。

最近思うのです。
教育のことを知るには教員になる必要はないと。
ただ、教育に携わっているという実感は現場教員以外ありえないと。
教員は職人というイメージもあります。

子どもに自分から伝えることをせずに、職人になれ!というのは気が引けます。
なんとなく。
そういうことです。
返信する
ありがとうございました。 (ザンタ)
2008-01-21 21:07:01
yoさんのおっしゃるように
>教育のことを知るには教員になる必要はないと。
 という意見は参考になりました。もっと視野広くして教育を考えていこうと思います。実はまだ1年生なので、教育実習をしていませんが、これからyoさんのブログやいろんな本を読みながら、将来のことを考えていきます。ありがとうございました。また、何かあれば質問したいと思います。
返信する
そうですか (yo)
2008-01-22 00:25:01
ま、学生さんでしたら、なおさら自由に考えるべきだと思います。

私のブログからリンクしている方(先生中心)や、そこから孫引きでリンクしている方達を訪ねるでしょうから、そこいらへんでバランスをとってくださいな。

気軽に、そして適当におつきあいください。

あ、そうそう。
私が学生時分には気がつかず、できなかったことがあります。
よろしければお勧めします。
それは、民間教育研究団体をのぞくこと。
かなり達者な先生を発見する事ができると思います。
おすすめはお住まいの地域によりますが、東京近郊ならば全生研や同志会などは手前味噌ですが真面目な若手が多いですよ。
長期の休みなどの学習会が気楽でいいかな・・・。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。