( この写真は、東京都練馬区西武池袋線の富士見台駅近くの住宅街である。1980年代にガン
さんが暮らした町並みである。《 2007年2月、撮影 》 )
【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】
その36
漫画の連載が終わった時に、意外なほどあっさりとガンさん( 仮名:羽賀
司郎、東京出身、34歳 )は漫画から離れていきました。 まるで、古くな
った靴を脱ぎ捨てる様に漫画から足を洗ったのです。
5年前のガンさんとは違い「 なにがなんでも漫画家に成らねば! 」という
崖っぷちの人生観から「 なんで漫画家にこだわるの? 」という広い人生
観に変わっていたのです。
「 Yちゃん(私)、人間何やったって生きていかれるんだよ・・・・! 」
ガンさんと別れた日、明るい笑顔で去って行ったガンさんの顔はとてもさ
わやかでした・・・・。
「 Yちゃん、漫画、ガンバって! 」
そう言って力強く私の肩を叩いてくれました。 しかし・・・・・ その、
「さわやかさ」「いさぎよさ」が、当時の私には、理解できませんでした。
「 まんが道 」の終わりは、「 別の新しい人生の道 」だという事が・・・・
「 道 」だの「 夢 」だの気取った言い方をしても、それはまるでドロの中
をかすかな光を目指して這いずり、もがき進んで行く様な惨めものでした。
自分の事しか頭に無い私は、希望を持って、ガンさんの後姿を見送る事が
出来ませんでした。
ガンさんの新しい門出を見送ると言うより「戦線を途中で離脱」していく
兵士を見送る様な複雑な気持ちだったのです・・・・・。
私は、まだ「30歳の子供」だったのかもしれません・・・・・・。
ガンさんは、その後結婚し家庭を持ち、最近では介護福祉の仕事をされて
いると聞きいています・・・・・・・
1985年、ガンさんの漫画を手伝っていた頃に、私は自分の漫画制作の意欲
を燃やしていました。 これは、つまり・・・・・
J先生の「 ○ンクのカーテン 」がガンさんを刺激し、ガンさんの漫画制作
が私を刺激したというわけです・・・・・。
日当たりの良かった江古田の下宿も、いつしか資料の山で窓が塞がり、穴
蔵の様になってきた頃、豊島区要町の下宿に引っ越しました。 8畳、4畳
半、3畳、台所、トイレ、縁側、庭付き( ! )で月の家賃が4万5千円とい
う超破格の下宿でした。( 1985年当時、要町6畳一間の家賃相場は3万か
ら4万円でした )
もっとも、このボロ下宿、4年後には取り壊されるという運命にあったので
すが・・・・・・・・。
朝日が差し込む理想的な環境で、いよいよ、私は自分の漫画制作を本格化
させていきました・・・・・・・。
血の教訓
『 人でなしでも漫画は描けるし、やさしくなくても漫画は売れる。
だけど、人でなしじゃあ漫画を描く資格がない。やさしくなけ
りゃあ漫画が泣くよ! 』
「 漫画家アシスタント 第4章 その37 」 へつづく・・・
★前の記事へ→ 「漫画家アシスタント第4章 その35」へ戻る 】
【 各章案内 】 「第1章 改訂版」 「第2章 改訂版」 「第3章 改訂版」
「第4章 その1」 「第5章 その1」 「第6章 その1」
「第7章 その1」 「第8章 その1」 「第9章 その1」
「諦めま章 その1」 「古い話で章 その1」
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」
さんが暮らした町並みである。《 2007年2月、撮影 》 )
【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】
その36
漫画の連載が終わった時に、意外なほどあっさりとガンさん( 仮名:羽賀
司郎、東京出身、34歳 )は漫画から離れていきました。 まるで、古くな
った靴を脱ぎ捨てる様に漫画から足を洗ったのです。
5年前のガンさんとは違い「 なにがなんでも漫画家に成らねば! 」という
崖っぷちの人生観から「 なんで漫画家にこだわるの? 」という広い人生
観に変わっていたのです。
「 Yちゃん(私)、人間何やったって生きていかれるんだよ・・・・! 」
ガンさんと別れた日、明るい笑顔で去って行ったガンさんの顔はとてもさ
わやかでした・・・・。
「 Yちゃん、漫画、ガンバって! 」
そう言って力強く私の肩を叩いてくれました。 しかし・・・・・ その、
「さわやかさ」「いさぎよさ」が、当時の私には、理解できませんでした。
「 まんが道 」の終わりは、「 別の新しい人生の道 」だという事が・・・・
「 道 」だの「 夢 」だの気取った言い方をしても、それはまるでドロの中
をかすかな光を目指して這いずり、もがき進んで行く様な惨めものでした。
自分の事しか頭に無い私は、希望を持って、ガンさんの後姿を見送る事が
出来ませんでした。
ガンさんの新しい門出を見送ると言うより「戦線を途中で離脱」していく
兵士を見送る様な複雑な気持ちだったのです・・・・・。
私は、まだ「30歳の子供」だったのかもしれません・・・・・・。
ガンさんは、その後結婚し家庭を持ち、最近では介護福祉の仕事をされて
いると聞きいています・・・・・・・
1985年、ガンさんの漫画を手伝っていた頃に、私は自分の漫画制作の意欲
を燃やしていました。 これは、つまり・・・・・
J先生の「 ○ンクのカーテン 」がガンさんを刺激し、ガンさんの漫画制作
が私を刺激したというわけです・・・・・。
日当たりの良かった江古田の下宿も、いつしか資料の山で窓が塞がり、穴
蔵の様になってきた頃、豊島区要町の下宿に引っ越しました。 8畳、4畳
半、3畳、台所、トイレ、縁側、庭付き( ! )で月の家賃が4万5千円とい
う超破格の下宿でした。( 1985年当時、要町6畳一間の家賃相場は3万か
ら4万円でした )
もっとも、このボロ下宿、4年後には取り壊されるという運命にあったので
すが・・・・・・・・。
朝日が差し込む理想的な環境で、いよいよ、私は自分の漫画制作を本格化
させていきました・・・・・・・。
血の教訓
『 人でなしでも漫画は描けるし、やさしくなくても漫画は売れる。
だけど、人でなしじゃあ漫画を描く資格がない。やさしくなけ
りゃあ漫画が泣くよ! 』
「 漫画家アシスタント 第4章 その37 」 へつづく・・・
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「第4章 その1」 「第5章 その1」 「第6章 その1」
「第7章 その1」 「第8章 その1」 「第9章 その1」
「諦めま章 その1」 「古い話で章 その1」
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」
その後、成功したのかと思いましたけど
福祉の道へ、行ってしまったのですね。
東京23区で4万5千円って
今でも安いですね。
普通に転職する感じで他の仕事に行くなんて…。
あと、映画秘宝の事なんですが3月号ではああいう形でしたが普段の連載ではちょっと普通と違う方向に優れた漫画を紹介するページなんです。なので、yesさんが新作を書けば嫌でも取材に来てくれると思います。
苦情のメールでも入れればページの隅っこにお詫びが載るでしょうが、それではなんの意味もないと思います。ここはひとつ、新作を描いて取材が来るのを待つのでよろしいのではないかと思います。
「リンクが貼ってある・・・」(!)のは、テラさんだと思います
が・・・・!
私は、ガンさんは「成功」したと思います。ただそれで人生バラ
色のハッピーエンドに終わった・・・という訳ではなかったのです!
一時的な成功とはいえ、連載を持ち単行本を2冊も出せたんですか
ら! りっぱなもんです! なかなかマネできません!(少なく
とも私には!)
>通りすがりさん へ・・・・
デビューすら出来ずにペンを折る人と、漫画家を体験してからペ
ンを折る人では、ずいぶんと印象が違います。
後者のタイプはジメジメした所がありません。なんだか、足が洗
えてスッキリしたという感じです。
さて、「映画秘宝」の「漫ブログ賞」についてですが、色々とお
教えいただきまして、ありがとうございます!
私もこちらから映画秘宝に働きかけるのではなく、黙って日々の
活動を見ていただく事にだけ専念するつもりでおります!
漫画の新作については自信がありませんが、もし、このブログの
単行本化なんて事になったら、どう出て来るか楽しみです!(何
んの反応も無かったりして!)
友人と岩国基地に飛行機ショーを見物に行きました。
ジェット戦闘機の空中ホバリングを間近で見ることができ、
感動もんでした。
英語が堪能な友人は、米国人の知り合いがいたので、
その時米兵のひとりに僕の絵を見せてくれました。
ペン画で描いた鳥の絵でした。
彼はそれを気に入ったらしく、いきなりHow much is it?
なんて値段交渉になりました。
僕はその絵をOne thousand yen!
で売却したのを覚えています。
制作するのに要した時間を考えると、もう少し高くても
よかったかもしれないと、後になってちょっと悔やみました。
でもまあ、その時は、自分の絵が金になったという感動で、
ある意味舞い上がっていたのだと思います。
金になるんだ!買ってくれる人がいるんだ!
もしかして絵で生活できるかも!
この米国人がいなかったら、そんな夢を持たなかったかも
知れません。
人生はわからないもんです。
その後、絵に関係する仕事だったら、何でも引き受ける
というスタンスで、ずっとやってきました。
大阪で、印刷屋からイラストの仕事をもらったのが、
プロとして最初です。
25歳くらいですかね。
今になって考えると、よくあんなへたくそなイラストに
お金を出してくれたもんだと思います。
20代の自分の絵はまったくもって下手でしたね。
恥ずかしいので、そのころの絵はほとんど処分しました。
30代になり、ようやく他人様に見せられるような絵に
なりました。
僕はこだわりが無いので、頼まれたら何でも描いてきました。
というより、フリーの身としては、食うために何でも描かない
とやっていけないのです。
仕事を自分で選べるほど才能がないのです。
一つの分野の仕事だけやって、食えるというのは、
よっぽどの才能だと思いますよ。
時はとても嬉しかったのです。 こうした経験はその後の漫画家
志望の人生に大きな影響を与えたのだと思います。
>一つの分野の仕事だけやって、食えるというのは、
>よっぽどの才能だと思いますよ。
「一つの分野の仕事」をやっていると言ってもよほどの天才でも
ない限りは、独立「ラーメン専門店」みたいな物ではないでしょ
うか・・・。例えば、mogurinさんの様に何でも描かねばならないイ
ラストレーターは、和洋中なんでもありの「大衆食堂」または、
「ファミリーレストラン」・・・・ってな感じではないでしょうか。
ゆうじさんは、漫画を購入する読者の側の視点で、そのニーズを
意識していると書いているんだと思うのですが、それはまさに、
行列のできるラーメン屋のオヤジがお客さんのニーズをつかんで
いるのとよく似ています。(全然お客のニーズをつかめないラー
メン屋のマズイことマズイこと!)
ラーメン屋も漫画家も見た目には全然違って見えますが、その本
質は同じなのではないでしょうか・・・・・? 貧乏漫画家も屋台のお
でん屋も兄弟(?)みたいなもんじゃないでしょうか・・・・?
一杯のラーメン、一杯のそば、一パックのたこ焼き・・・それらと
一冊の漫画雑誌の値段が似ているのは偶然にすぎないかもしれま
せんが、私には・・・・漫画、ラーメン、そば、イラスト、ギョーザ
牛丼、さし絵、たこ焼き、おでん・・・それぞれがファミリー(みな
兄弟!)の様な気がするのです・・・・・!
>漫画以外の人生もそれはそれで楽しいかもしれないな・・
という、ゆうじさんの言葉は・・・・・
ラーメン屋も漫画家も、イラストレーターも大衆食堂も、同じ穴
のムジナであり、その転職相性もすぐれているのではないだろう
か・・・・という結論を想起させるのです。(ちょっと無理がある?)
描き込んでみて、初めて判る金言であると思います。 ちなみに
私は全然判りませんが・・・・・・!(赤面)
そこまで「掴む」前にあきらめてしまう事が多いのではないでし
ょうか・・・・。 ゆうじさんがそこまでたどり着いた事に感心いた
します!
ゆうじさんが、おヒマな時にでもその「漫画を掴む」事をもう少
し詳しく教えていただければ嬉しいのですが・・・・・ いつでも結構
ですので・・・・コメントお待ちしています!