( この写真は、タイ中西部にあるカンチャナブリの戦争記念館です。人物は私、汽車は実際に使われて
いたものです。記念館には主にタイとビルマを結ぶ鉄道建設と戦闘やイギリス兵捕虜とその虐待に関
する資料が展示されています。欧米からの観光客以外にも中国、韓国などからも観光客がやって来ます。
全体に老朽化が進み資料も汚れています。こうした記念館に日本政府も積極的に資金援助する懐の深さ
を見せる事が対日感情を良くすると私は考えているのですが・・・・・《 2020年、11月、撮影 》 )
( ↑写真、チェンマイの自宅です。ほとんど私がデザイン、設計しました。写真右側の明るい部分がリ
ビングルームです。60インチのテレビがあるのですが、あまり見る事はありません。もはやテレビの
時代ではなく、皆が個々にモバイルでインターネットを楽しむ時代なんですね・・・・《 2020年、2月、
撮影 》 )
( ↑写真、上の写真と同じく自宅を撮影した写真です。中央のボンヤリと灯の見える部屋がメインベッ
ドルームです。その左側の明るい部分がバスルーム、さらにその奥20mほど裏庭になります・・・・
《 2020年、2月、撮影 》 )
【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】
先生との思い出 4 ( 前半 )
ちょっと恥ずかしい話だけど、誰でもSEXはしますよね。
男性は、出会う女性の8割に欲望を感じる・・・・・って話を聞いた事もあります。
私の師匠だったジョージ秋山などは「 男なんて結局、ヤル事しか考えてねィ~んだよ! 」
などとよく言っていました・・・・・・・・・・( 実際は数え切れな程聞きました )
それほどではないにしても、この「 当たり前の行為 」が「 ちょっと恥ずかしい 」わけ
です。
どんな漫画家だって風俗で遊んだりするのは当たり前の事だし、いわんや若い漫画家アシ
スタントが給料をもらったらその夜には、ソープランドへ行く事しか頭になくなるのはご
く自然なわけです。
仕方がありません・・・・・・・・ちょっと恥ずかしいけど。
ところが・・・・・・・・
どうも、お偉い漫画家先生方の文章には「 初体験 」や「 風俗 」の話が出てこない。
ときわ荘時代の昭和30年代初期にはまだ「赤線」が東京中の至る所に存在していたはずな
ので、その手の話はいくらでもあったはずなのです。
「 ちょっと恥ずかしい話 」がゴロゴロと・・・・・・・・!
ちなみに、ときわ荘からなら池袋の赤線街までバスや自転車ですぐだし、歩いてだって行
かれます。
「 児童漫画 」という看板のせいもあったのか、下半身の話題を意図的に避けられているの
か、大御所といわれる先生方、性欲の欠片もないお堅い紳士ばかりだったのか・・・・・・・・
でも・・・・・・・・漫画でメシを食っていこうなんて人間に聖人なんているわけもなく・・・・・・・・
・・・・・・ってなわけで、今回は師匠とアシスタントたちが初めて吉原( 東京のソープランド
街 )へ遊びに行った時の話を記したいと思います。
当時私は20代の半ば、多くの先輩たちは30歳前後、師匠は30代後半、皆さん下半身に欲望
があふれている・・・・・・・・股間の袋から臭ってきそうな野郎どもです。
1980年頃の事ですので、今から40年も前の話・・・・・・・・
細かな出来事や会話の内容など、かなりいい加減な記憶で書いてますので、不正確、曖昧な
点が多々あるかも知れません( いや、絶対ある )・・・・・・・・・その辺の所はご容赦下さい。
80年代の初め、日本は74年のオイルショックから立ち直り、バブル景気が始まる頃・・・・・・・・
秋山プロでも週刊誌が「 ギャラ 」( 少年キング )、「 ピンクのカーテン 」( 週漫画ゴラ
ク )、「 シャカの息子 」( 少年ジャンプ )、それ以外に「 浮浪雲 」( 隔週ビッグコミ
ックオリジナル )の連載がありましたから、かなり忙しい時期だったと思います。
師匠の原稿料、印税収入などの合計が年1億円を超えた頃・・・・・・・
忘年会は目白の日本料理店で、師匠の奥さんや子供たち、年長のアシスタントの奥さん、先
輩アシスタントAさんの婚約者なども参加する賑やかな宴会でした・・・・・・・・・・・・・
さて、二次会は、奥さんたちとは別の場所へ男性陣だけ( 先生含めて7人 )で行くという事
になったわけです・・・・・・・・・・・
「 二次会で飲み直すからよ 」
・・・・・・とか何とか言って、( 計画通り )吉原へ出発するわけです。
先輩アシスタントの中には一週間後に結婚式を控えている( さっきまで婚約者も一緒だった )
Aさんもいたのですが・・・・・・・・
「 おめィ~ど~すんだ? 」
「 はい、お供します 」
・・・・・と、A先輩がニコニコと答えていたのが印象に残っています。
目白通りで2台のタクシーに分かれて吉原へと向かいます・・・・・・・・
先生と先輩アシスタント一人、そして私は、後続のタクシーで先発組に続きます・・・・・・・・目
白の住宅街で西武池袋線を越えるのですが・・・・・・・・先発したタクシーが踏切を越えた時に
「カンカンカンカン」と遮断機が下りてしまい、後続の私たちは先発したタクシーに取り残
されます。
後ほど、吉原で合流すれば良いのでそれはさして問題ではないのですが・・・・・・・・
「 吉原に連れて行ってやりたかったんだよなァ・・・・・・・・吉原なんて初めてだろ~? 」
タクシーが池袋のネオン街を過ぎる頃にウキウキした気分で師匠が話し出します。
きっと、漫画の「 浮浪雲 」の様に・・・・・・・・主人公の雲さん( 問屋場の頭 )が駕籠かき衆の
若者たちを連れて遊びに出かける粋なイメージがあったのかも知れません。
「 吉原なんて初めてだろ~? 」と嬉しそうに話しかける師匠に、シラケ気分の私は・・・・・・
「 いえ、行った事があります 」
「 はあ? 」
「 3,4回かなぁ 」
「 なんだァ・・・・おめィ~、初めてじゃねィ~のかよ! 」
「 はい 」
「 俺ィより詳しいんじゃねィ~か!? 」
「 フ・・・・・・・・ 」( 風俗雑誌等でリサーチ済みな私は薄ら笑い )
「 つまらねィ~~な~~、俺ィはおめィ~に吉原を教えてやろ~って楽しみにしてた
のによ~~ッ! 」
「 スイマセン 」( 笑いながら )
「 俺ィがおめィ~に教えてもらう事になるのかよ! 」
本当にガッカリしている師匠は、「 つまらねィ~な~ 」を連発・・・・・・・タクシーはあっとい
う間に浅草の国際通りから吉原方面へ少し寂しい通りを進みます。
吉原といっても結構広い・・・・・・・・吉原交番の前を通って仲ノ町通りを進むと数え切れないほ
どのソープランドの看板が目に入ってきます・・・・・・・・・・。
現在でも、「 金瓶梅 」「 夕月 」「 角海老 」等々・・・・、40年も前にあったお店が今も営業
しているのです!
このコロナ禍の中でも100店以上のお店があるという吉原の普遍的な強さには驚きます・・・・・
さて・・・・・・・・・
貧乏臭いアシスタントが4人、角町通りとの交差点で案山子のように立っています・・・・・・・・・
・・・・・・それが、先発組だとすぐに分かって合流します。
「 今日はY( 私 )に付いて行こうぜ、こいつが一番良い店知ってそ~だからよ! 」
・・・・・などとイヤミな事を言って笑う師匠・・・・・・・・
「 まず、一杯ひっかけねィ~とよ 」
師匠の一言で全員師匠の後に続いて歩き出します・・・・・・・・そして、フラフラ、ゾロゾロと路
地を入ってすぐの所にある「P」というスナック( バーかも? )へ・・・・・・・・
店内は、白い内装で黒の長いカウンター席、中年で蝶ネクタイ姿のバーテンさんが二人、他
には女の子もお客さんも見当たりません。
30分ほどお酒を飲んで、ではそろそろ・・・・・・・・・という感じで師匠から軍資金( 各人に2万
円ほど )をもらって、アシスタントたちはソープへお遊びに出かけます。
ただ、師匠はこのスナックが落ち着くらしく、ソープへは行かずにウイスキーを飲み続けて
いました。
アシスタント全員、2時間ほどしたら同じこの店「 P 」に集合する段取りです。
ちなみに、2万円というのは当時の吉原では普通の料金でした。
格安クラスだと1万円ほどで、中級が2~3万円、高級店で4~6万円です。
私の様な安月給取( 手取り月給11~13万円 )では、格安クラスでしか遊べませんから2万
円なら軍資金としては十分でした。
私は、アシスタントの一人と一緒に吉原ではまだ新しい方のお店へ出かけたのですが・・・・・・
・・・・・そのお店の名前は忘れてしまいました。
「 オレンジ 」何とか・・・・・・・・ってな名前だったかと思いますが、付いたソープ嬢の事はよ
く覚えています。
ショートカットで目が大きく、年齢は私より3.4歳上で・・・・・・・・
40年も経っているのに、たった一回会っただけなのに・・・・・・・・何故、彼女の事を覚えている
かというと・・・・・・・・・・
会ったその瞬間から、彼女の発する異様な雰囲気が強烈だったからです。
「 お上がりなさいませ~~ッ! 」
「 服、全部脱いじゃってね~~ッ! 」
「 この店、初めてですか~~ッ? 」
「 今日は、とっても忙しかったんですよ~~アハハハ~~ッ! 」
やたらとテンションが高い・・・・・高過ぎる!
高音で、早口にまくしたてる・・・・・・・・普通ではない・・・・・・・・これは、覚せい剤をやっている
に違いない・・・・・・・・と。
でも、まぁ・・・・・・・・イ~んですけどね・・・・・・・・・ヤル事さえ、しっかりやってくれれば・・・・・
・・・・・・
「 あたしが上になってもイイですか~~? ヨイセッ! 」
ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドスッ!
ピュピュ~ッ
暑くもないのに汗をかく・・・・・・・気味の悪いひと時を過ごして、同じ店で遊んだアシスタント
と外へ出る。
通りを戻り、待ち合わせのスナック「 P 」へ向かう途中、そのアシスタントが真剣な顔で話し
始める・・・・・・・・
「 あの店、ボッタクリらしいですよ! 」
「 え? さっきのソープが? 」
「 違いますよ、スナックPですよ、先生が待っているスナックですよ! 」
「 ええええッ!? 」
「 さっき、付いたソープ嬢が言ってたんですよ・・・・・あの店は悪質なボッタクリ店だって! 」
「 P 」へ戻る前に、しばらく店の外で待機、戻ってくる先輩たちと合流・・・・・・・・・・
「 それは、ヤバいなぁ・・・・・・・・ 」
店の中には先生と先に戻った先輩アシスタントが何も知らずに飲んでいる・・・・・・・・・・
30分前までの浮かれ気分が、一気に沈鬱なモードへ落ち込んでいく・・・・・・・・・・
「 ホントに、ヤバいぜ・・・・・・・・・・ 」
「 とにかく、早く先生を店から出さないと! 」
せっかく、楽しそうな先生の気分を台無しにしてしまう事を想うと・・・・・・・無性に腹が立つ!
「 いったい、いくら取られるんだか・・・・・・・・・・ 」
「 7人分だぜ・・・・・・・・ 」
「 いざとなれば、人数的にはこっちの方が多いんだし・・・・・・・・・ 」
「 あああ・・・・最悪! 」
私たちは「 P 」のドアを恐る恐る開ける・・・・・・・・・・
ギィィィィィ
「 漫画家アシスタント移住物語 こりゃタイ編 先生との思い出 その4(後半) 」 へつづく・・・・
( 月一連載を目指していますが、無理だと思います )
★前の記事へ→ 「漫画家アシスタント移住物語 こりゃタイ編 先生との思い出3」へ戻る 】
【 各章案内 】 「第1章 改訂版」 「第2章 改訂版」 「第3章 改訂版」
「第4章 その1」 「第5章 その1」 「第6章 その1」
「第7章 その1」 「第8章 その1」 「第9章 その1」
「諦めま章 その1」 「古い話で章 その1」
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」
いい時代ですね。
一般に先生の代表作として「銭ゲバ「アシュラ」ばかりが挙げられがちですが、
私の中では「ギャラ」と「シャカの息子」のほうがはるかに好きです。
私は、今は故郷に住んでいますが、
若い頃は東京のサラリーマンをやってました。
その当時、会社の忘年会の二次会はみんなで風俗にくり出すのがお決まりの流れでした。
たいてい歌舞伎町か池袋、
吉原は行ったことありません。
吉原というと、なんか本格的なイメージですね(笑)
行ったことないのでわかりませんが。
しかし、それ以上にボッタクリ店のほうが気になります!!
展開、おもしろすぎます!
このエピソード、そのままマンガに描いておけばよかったのでは?(笑)
忘年会で吉原なんてのは、めったにないケースだと思っていまし
たが・・・・・
意外と二次会、三次会で風俗へ・・・・・なんてケースがあったりす
るものなんですね。
吉原と言っても、単純にソープだけしかないというだけで、何か特
別な情緒や江戸の雰囲気があるわけではありません。
歌舞伎町をご存知なら、一番街のネオン(数を半分にして)の全て
がソープランドのネオンになった感じが吉原です。
昔はやたらと客引きがいて、その事に嫌気して人気が落ちていた
時期もあったそうですが・・・・・・
今は、そうした荒っぽい事はなくなった・・・・・・そうですが・・・・・・・
・・・・どうなんでしょうか。
私は、師匠と出かけた頃を潮にすっかりご無沙汰していますので・・
・・・・・・よく分かりません。
あの当時からサラ金地獄にはまり始め、風俗遊びどころではなく
なってしまったので・・・・・・・(汗)
>そのままマンガに描いておけばよかったのでは?
確かに・・・・・・かも知れません!
でも、師匠はもちろんですが、先輩やらなんやら・・・・・・差し障りが
あってとても描けなかったと思います。
40年も経っているから書ける・・・・ってのはあるかと思います。
うまく説明できないのですが自分の中で何か抜けてしまったような感覚がありますね。
5月28日に「漫画家本ジョージ秋山本」という追悼の本が出るようです。これでジョージ先生の本買うの最後かなと思います。後は息子さんが保管している原稿からどれだけ世に出せるかですね。
インタビューした漫画家の上3人の関係は分かるのですが下4人は何を話したのでしょうか?
私は柳沢きみお作品もたまに買うので気になってはいるのですが。
https://www.shogakukan.co.jp/books/09850349
それとフェイスブックの方に久賀さんの少し上げてあるので暇なときに見てみてください。
んが・・・・・
きっと、うちの師匠と同世代の方だったんでしょうね・・・・・・
師匠の場合、お酒さえもう少し控えていたら・・・・・・・後、軽く10年は長
生きできていたと思います。
私が辞めた2016年には、まったく元気で仕事も順調にこなしていました
が・・・・・・お酒が・・・・・・・・医者に止められていたのに・・・・・・・・
私はタイで師匠の訃報を知った時に、残念とか空虚感とかいうよりも、
「しまった!」(後悔)という感じが強いです。
元気だとばかり思いこんで再会の機会を先送りしてので、後悔の念が
強かったのです・・・・・・・
>下4人は何を話したのでしょうか?
「漫画家本ジョージ秋山本」なんて知りませんでしたから、このお知らせ
には助けられました!
ありがとうございました!
私も是非、購入したいと思います。
私が師匠から聞き知っている親しかった文化人の名前(倉本聰氏、中
村敦夫氏など)はないのですが・・・・・・・
森田拳次先生などのインタビューなど興味津々です。
でもアシスタントしてると建物描くのはお手の物
だったりして、実際の建築と変わりないもの
なんですかね?でも、前のブログでも、なんか現場監督みたいなことをしないといけない感じ
だったのでその流れでやったという感じでしょうか?
そういえば、再放送ですが、NHKのサラ飯という
番組で、ジョージ秋山先生の静岡にある別荘の近くの定食屋さんが出てて、逸話がチラッとでてましたが、今回の話に?ぴったりな内容なのと、人を見抜く力すごいとかいっててイエスさんのブログでの先生のイメージそのままだなーと思ってみてました。
自宅のデザインといっても、専門的な「設計図」ではなく・・・・大まか
な作図ですので簡単なものです。
各部屋割り、大きさなどと室内設備とドアやガラス戸の設置など・・
・・・細かい部分は色々あるのですが・・・・・・
アシスタント時代の仕事が100%活かされています。
今でも、武家屋敷、大門、長屋はもちろんですが、和風建築物や簡
単なビルなどなら資料がなくても描けます。
リアルな絵柄だった事で人一倍手間暇と時間がかかる事を、当時
は嫌悪した事もありましたが・・・・・・・
まさか、自宅の設計時に図面や完成図などの作図に役立つとは思
いもしませんでした。
>その流れでやったという感じでしょうか?
建設会社が途中で逃げてしまったので、仕方なく半分は自分が現
場監督の様になって建設現場にはりついていなくてはなりませんで
した。
でも、設計の段階では会社の社長がしっかりフォローしてくれていた
ので、たいした問題もありませんでした。
ただ、「どんな家が良いですか?」と問われたので、自分の希望を
言ったのですが・・・・・・
どうも、私の希望である広いリビングや母用の和室、山荘風のダイ
ニングなど口で言ってもさっぱり分かってもらえなかったので・・・・・・・
仕方なく自分で間取りから作図、資料集め、模型製作までやりまし
た・・・・・・面倒だけど、仕方ありませんでした。(だいだいド素人な
のに!)
この模型製作というのが面白いのですが・・・・・・・しっかりとイメージ
を伝えるために、スチレンボード(模型用の厚紙)を使って作りました。
タテヨコ40㎝ほどの大きさで、縮尺はだいたい1mが2㎝ですから、8畳
間だと7㎝×7㎝になります。そこへ小さなベッド(4cm×2㎝)を二つ設
置したりして・・・・・
これが意外と楽しい作業でしたが・・・・・・・・慣れない模型作りで3~4
回ほど作り直しました。
ただ、難しいのはタイの建設常識と日本のそれとは全然違う点です。
これは、話始めるとキリがないので簡単に・・・・・・・例えば、日本の軒
下は屋根の出っ張りが40~50㎝ほどですが・・・・・
タイでは1mほどあるし、その分とても屋根がバカでかくなります・・・・
・・・・これは、強い日差しから家を守るための生活の知恵なのです。
こうした事以外にも、タイでは北側が一番大切な部屋で、南向きは最
悪の部屋、つまり、南側にはガラス戸やガラス窓をほとんど設置しま
せん。
それだけ強い日差しを避けるのが、タイの常識なわけです・・・・・・日本
の真逆ですが、こうした習慣の違いを理解するのは大変でした。
最初、母の部屋を南側に設置したら・・・・・・・
「ダメだよこれ!」
・・・・・と指摘されて、首をかしげながら北側へ変更したりしました。(笑)
>別荘の近くの定食屋さんが出てて・・・・
それは見たかったですね・・・・・・・!(涙)
タイにいては簡単にアーカイブを試聴できないのが残念です。
師匠は、スナックへ行っても、寿司屋さんへ行っても、どこでも店の中
で最も目立つ存在になっていました。
いわゆる「オーラ」ってのかも知れませんが、一瞬でその場の空気を
換えちゃうんですよね。
まぁ・・・・・動く換気扇ですね。(笑)
NHK総合テレビ
「サラメシ」第11シーズン:第5回
『ジョージ秋山のカレイの煮つけ』
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2021113639SA000/?spg=P201100073800000
NHKにお金を振り込んで会員になると、アーカイブで視聴できるみたいですが…
お金がないよ、という方に、かんたんなあらすじだけ紹介します
お店の名前は「貝殻亭(かいがらてい)」らしい
(田中圭一(たなかけいいち)氏のマンガで、ジョージ秋山家を紹介した時も)
(このお店の『カレイの”から揚げ”』が紹介されていました)
ジョージ秋山先生は、実は、海なし県の栃木県の出身で
魚料理は苦手(なま臭いからという理由らしい)だったのだが…、
このお店で魚料理を食べてからは、魚料理に苦手意識がなくなった、そうな
お店のご主人は、魚臭いのが苦手なジョージ先生のために、
濃い目のたれ(甘みの強い味付け)で、しょうがも多めで生臭さを消して
でお出ししたところ、ジョージ先生は、たいそう喜んで、
以来、このお店に通うようになった、とのこと
お店の人が語る、ジョージ先生との思い出話。
「いつも自分のクルーザーで、お店の前に乗り付ける」
(お店は海の目の前なのです)
「いつも両脇におねーちゃんを抱えてくる」
「先生自身は、あまり話さないで、人の話をじっくり聞いていることが多かった(日本酒を飲みながら…)」
とのことでした。
お金のある人は、NHKアーカイブに入会して視聴してください(笑)
特に、その内容を詳しく解説いただきまして、ホント嬉しいです。
さて、この番組、先日こちらでもその再放送を見る事が出来ました。
店にクルーザーで乗って来るって話や、若い娘っ子と一緒に来る
なんて話は面白いのですが・・・・・・
栃木出身だから魚が嫌いだったけど、ここの煮魚が美味しいので
魚嫌いじゃなくなった・・・・・・ってな話は、師匠のネタ(嘘)かも知れ
ません。
昔から普通に寿司を食べるし、子供が好き嫌いを言えば厳しく叱
りつける人だったので、「栃木だから魚嫌い」という話は・・・・・・師
匠がお店の人にちょっと盛った様な気がします・・・・・・
魚嫌いのネタ好き・・・・・・って、変な話ですけど!(笑)
リアルな背景をかいていたからこそ、軒が何センチぐらいとかわかるのもあると思います。
最近、背景を教えてて、窓や扉のサイズを覚えて
おくといいよといつも言うのですけど。結局、
最終的に建築知識がないとちゃんとした背景
かけないなーとか思ってます^^
もし、よければ、ブログのネタで描いてもらえると
うれしいです^^
そして、熱い地域ならではの、日差しを避けるも
なるほどなーって思います。
サラメシ無事みれてよかったですw魚嫌い・・
ではなかったのですねー。 まあ、日本のメディアってどうしても、なんかこう?特徴挙げてくださいとか、いわれがちなので、思わず盛ったのかもしれませんね・・
過去、私は、日本の新聞等の取材何度か受けたことあるのですが・・あからさまにこれを言えっていう誘導尋問というか、それじゃーデスクがOKくれないんですよね。ってなんか一緒になって記事のネタ考えるみたいなノリになったことあります。
逆に海外のメディアの取材も、受けたことあるのですが、なんで、それ?私に聞くの??みたいな内容もあるのですが、誘導尋問等は特になく、一貫性のない質問をひたすら答える感じでしたねー。
取り上げてみたいと思います。
さて、タイでの照明についてちょっと・・・・・・
私はダイニングは明るく、食事の時には明るくして食べるというの
が常識だと思っていました。
そのため、誰に相談することもなく、ダイニングは明るく・・・・・・特
に食卓の上に照明があって、料理が美しく見える様に工夫したの
ですが・・・・・・・
数人のタイ人から聞こえてきた言葉に愕然としました・・・・・・・
それは、私が想像もしなかった言葉でした・・・・・・・
明るい食卓の料理を前にして彼等は・・・・・・
「暑すぎる」
「はぁ?」
「光が暑すぎるよ」
「で、でも明るい方がイイでしょ?」
「暑すぎるから消して下さい」
決してライトを多量に使ったわけではく、日本の食卓では当たり前
のライトなのですが・・・・・・
半分に減光しなくてはなりませんでした。
露天で食事するのが好きなタイ人は、手元が薄暗くて食品の色彩
が白黒写真のように味気なくても平気なのです。
それよりも、明るい→まぶしい→暑い→さらに虫が飛んでくる!と・・
・・・・・・
日本人の感性とは随分と違います。
>これを言えっていう誘導尋問・・・・・
私もテレビの取材の話が何度もありましたが、やはり放送の意図は
「アシスタントの貧乏暮らし、おバカぶり」なわけで・・・・・・
どうしても、放送の意図にそった演出が濃くなります・・・・・・それって、
事実の歪曲じゃないかと・・・・・・でも、これが放送サイドの「常識(テレ
ビに出してやるんだからありがたく思えよ)」みたいですね。
私の場合、仕事の都合や師匠からの忠告などでテレビ出演は実現
しませんでしたが・・・・・・・
友人の場合は、ADHDに苦しむ若者として取材されたのですが、そ
の取材テークが面白くないので・・・・・・・(ADHDは見世物じゃないの
に!)
一週間、部屋の中にカメラを数台設置され、24時間撮影される事に
なったそうです。
これで、彼はこのドキュメンタリー番組の意図を理解し、常設カメラの
前でわざと飼っていたウサギを偏愛する姿を演出(?)したそうです。
すると、すぐに取材終了!(ディレクターが大満足?)
まったくバカバカしい限りです・・・・・・・
もう一人の友人は失業中に職探しをしながらも、自分の趣味(創作活
動)を生きがいしていましたが、それを取材されたのです。
その時、元の会社を自主退職して現在求職中であることを伝えたに
も関わらず、放送されたタイトルやナレーションには・・・・・・・
「リストラされても」といった言葉に代わっていたのです。(バブル崩壊
後の不況下で、効果的なタイトル?)
でも、元の会社では「リストラなんてしてない、君が自分で勝手に辞め
たんだろ!」・・・・・と、怒られたそうです。
日本のマスコミの怖い所ですね・・・・・・・
誰だかが言ってた様な気もしますが・・・・・・・・・
日本は、司法、立法、行政、それからマスコミの四権分立なんだと。