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読書感想311  鎌倉北条一族

2022-07-01 11:27:42 | 時事・歴史書

鎌倉北条一族の画像

著者    :  奥富敬之

生年    :  1936年(昭和11年)

出版年   :  2000年

出版社   :  (株)新人物往来社

☆☆感想☆☆☆

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている北条氏の120年にわたる興亡を描いた歴史書。北条氏がどのような一族だったかがわかるものになっている。個人的な野望とかではなく、時代の変容につれて権力の推移が下克上となって北条氏を押し上げ、また奈落の底に落としている。

 北条氏は源頼朝と北条政子の結婚によって歴史の表舞台に出てきたが、もともとは伊豆の小さな土豪で兵力も少なく、隣接する伊東氏が300騎の兵力を維持していたのに対して30騎から50騎の規模だったと言う。三浦半島を根城にした三浦氏は3000騎を用意できる規模だったと言う。それ以後、兵力が足らず、借り武者や新付けの武者で補った。それが、競争相手の豪族を倒し、承久の乱で後鳥羽上皇を倒し、一挙に北条氏の領地が拡大し、そうした土地の管理する人材を借り武者や新付け武者から始めて家臣として拡充していった。

 名執権と言われた泰時が北条一族を統率するために作った家令と家法の制度の中の家令が得宗家に奉公する家臣、御内方である。外様とは将軍家奉公の地頭御家人のことである。家法とは北条一門に対する惣領家としての権力を強化し権威付けたものである。得宗とは義時の法名である。泰時の時代には北条氏は男子だけでも30名を超える大豪族になっていて分流の傾向が顕著だったため、他の豪族たちとの競争に勝ち抜くために北条氏としての結束が必要とされた。それで泰時は義時の遺領配分を弟妹に厚くし、義時を毒殺したと言われる5番目の妻伊賀の方の息子政村も御とがめなしとしたのだと言われている。泰時は叔父の時房を連署にし、両執権体制をつくり、有力御家人11名を新設の評定衆に任じ、御家人の意向を幕政に反映させようとした。そして関東御成敗式目(貞永式目)を制定し、「東国武士による、東国武士のための、東国武士の政権」を、合議制と法治主義の2本の柱の下で成立させたのである。

 泰時の孫の時頼が執権だったときに、最大の豪族だった三浦一族を滅ぼし、北条氏の惣領家独裁体制、つまり得宗専制が始まった。時頼は執権を引退した後も最高権力者であり続けた。誰が執権になろうが、権力は得宗が握っている。評定衆も名誉職化してくる。「北条氏による、北条氏のための、北条氏の政権」に変質。社会的には貨幣経済の発展で御家人たちの階層分化が深まり、没落する御家人が増加した。そうした御家人の救済にあたったのが、元寇で若くして亡くなった時宗の外戚だった安達氏だった。安達氏は外様御家人の代表として、幕政改革にあたったが、得宗家の家臣である御内方との利害が衝突し、内管領の平頼綱によって滅亡させられる。こうして内管領が得宗家すら傀儡化する時代が到来する。8代目の貞時は平頼綱を滅ばしたが、徳政令を出したりして御家人の窮乏を止めようとしたができず、内管領の力も抑えきることはできなかった。不運は重なり、貞時の息子は3人までも障害児で4番目の息子が無能と言われた高時だった。このときの内管領は長崎円喜。鎌倉が陥落するときに高時は最後まで戦ってくれた一族の金沢貞將に空席となっている執権に任命すると言う御教書を与えた。「一家の滅亡、日の中を過さじと思はれけれども、多年の所望、氏族の規模とする職なれば、今は冥途の思い出にもなれかし」すると、貞將は「我が百年の命を棄てて、公が一日の恩に報ず」と突撃したと言う。高時の遺児、時行は信濃に逃れてそこから鎌倉の北条氏の復権を図った。幾度も成功や失敗を重ねながら、1353年鎌倉幕府滅亡から20年目に足利氏によって捉えられ斬られた。

 「平家物語」も哀れだが、北条一族の興亡も理想と現実の狭間で苦しむ様に哀れみを感じる。時行も静かに信濃で暮らしていれば北条氏の命脈をつなげることができたかもしれない。それをしないでどんなに不利でも理想を追い求め奮闘する姿がこれぞ鎌倉武士の鑑に違いない。高時の最後の言葉も無能であっても人柄の良さを感じさせる。あと内管領になっている平頼綱や長崎円喜が平重盛の血筋なのは驚いた。新しく有能な武士を集める時に敗者の中から選らばざるをえないのかもしれないし、もともと血筋がいいから、主君を主君と思わない傾向も潜んでいるかもしれない。


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