『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想253  斗南藩

2019-01-23 21:30:29 | 時事・歴史書

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読書感想253  斗南藩

著者      星亮一

生年      1935年

出身地     宮城県仙台市

出版年     2018年

出版社     中央公論社

☆☆感想☆☆☆

副題は「『朝敵』会津藩士たちの苦難と再起」。戊辰戦争で敗北した会津藩に対する処分は過酷な流罪だった。京都でかつての同志を殺された恨みを忘れない木戸孝允が過酷な処分を主張して譲らなかったのだ。流罪先は南部藩の北郡、二戸郡、三戸郡だった。石高3万石と言われるも実質7千石ぐらいの、定期的に飢饉が襲う不毛の大地だった。ここを会津藩士は斗南藩と名付けた。会津藩四千戸のうち斗南への移住者は二千八百戸、残り千二百戸のうち三分の二は帰農して会津に留まった。三分の一は東京などへ移った。平民になることに抵抗もあり、多くの人が斗南藩領へ移住した。北郡は下北半島で、二戸郡、三戸郡は今の三沢市、十和田市、岩手県金田一以北にあたる広大な原野だ。明治新政府の命令で斗南に行くことになったが、必要な経費を申請しても、認められたのはその三分の一。移住は明治3年に始まり、地獄のような斗南での開拓生活が始まる。農業をしたことのない人々が雑穀しかとれない土地で農業をし、わずかな収穫を補うために、救貧所で紙漉きや機織りを習い工賃を稼ぐ。空腹を満たすために食べられる山菜を求めて山に入る。そうした会津の人を見て、地元の人々は「会津のゲダカ」とさげすんだ。「ゲダカ」は毛虫のことだ。そして一年半後に斗南藩は突然解散した。廃藩置県で藩が消滅したのである。

廃藩置県直後に青森県知事が大蔵省に提出した書類は、衝撃的だ。「旧斗南藩士一万三千二十七人のうち三千三百人は各所出稼ぎ、あるいは離散、老年ならびに廃疾の者六千二十七人、幼年の者千六百二十二人、男子壮健の者二千三百七十八人」。明治三年春から十月までの移住者総数は一万七千三百二十七人だったのが、一万人に減っているのである。四千人は死亡したのであろうか。廃藩置県で大部分の人が斗南を去った。しかし、残った人もいる。斗南藩の少参事を務めた広沢安任。大久保利通に掛け合って斗南藩として畜産業のための資金と開牧舎の設立を認めさせたのだ。そして太平洋から小川原湖に至る二千三百九十余町の広大な土地で牧場を作りあげた。新渡戸稲造の祖父に当たる七戸藩大参事の新渡戸伝の助力を得て、三本木での開拓の道筋もつけ、帰農を希望する藩士を受け入れてもらった。その他にも残った人々はそれぞれの地域の行政や文教に携わって、地域の発展に貢献している。そして子供たちが実に優秀だ。会津藩の教育水準の高さと頭の良さがずば抜けている。斗南でも東京でも北海道でも。例え逆境に遭っても、生来の真面目さと勤勉さで逆境を跳ね返す姿は、この悲劇のなかでの希望であり、感動的でもある。 


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