【なにわ大阪・興亡記】
大阪人発奮せよ! 堀井良殷氏講演録より
昔の日本は「日本海側」が交通の大動脈で、
太平洋側はあまり発達していなかった。
それは風が、西から東へ吹いているからです。
[大阪]は大陸から"人や文明"が”西風”に乗りやっきた
「西風社会」の中で発達してきた、つまり”地球の自転”に
よって生じる風の向きが、日本の運命を決定したのである。
物資を積み込んだ船が、太平洋を回らず”瀬戸内海”を通り
突き当たったところが”大阪湾”でした。
「西風社会」の中における「物流拠点」として「大阪」に
モノが集まり、人がついて来て、市場が出来、宿が出来、
食料が必要になり”食べ物”が発達し、内外の交流地点となり
「食文化」も発展してきました。
当時の”なにわ”は、多くの土地が砂地であり、中に入ると
河内湖なる湖があり、「上町大地から生駒の麓」までが
その河内湖の中であったようです。
そんな”なにわ”を整備し素晴らしい街にしたのは
1500年以上前の「仁徳天皇」の偉業であり
”400年ほど前に大阪”を開発した「豊臣秀吉」とは歴史や
規模が違いすぎるのである。
では「仁徳天皇」は、なにをされたのでしょう!
砂地を船が入れるように堀り、掘割を作りました。
それが、中の島を流れる「大川」なのです。
その「大川」は河内湖のたまっている水を「大阪湾」に
流す役目をし、沼地や池などを干上がりさせ、”水田”と
なり”稲作”などが発達したのです。
今の「河内平野」にある【大阪市の東部から東大阪市、大東市、八尾市】
のどの広範囲に及ぶ辺りでしょう。
農地が出来”米”が出来、国家財政も潤いました。
【高き屋に、登りて見れば煙たち、民のかまどは、賑わいにけり】と
「仁徳天皇」が”上町台地”の突端にあった”高津宮”から
水田を眺めて詠んだ句として伝わっております。
「仁徳天皇」は、そのころ入ってきた”鉄の土木工具”で
この大事業を計画し”治山治水””新田開発”を行いました。
その技術集団が行った「堺市の仁徳天皇陵」に運び込んだ
”砂の量”はエジプトのピラミッドに匹敵するかそれ以上と
言われております。
当時より大阪は”商人の町”といわれますが、それは間違いです。
物流拠点の”大阪”は、物資を運ぶのは”命がけ”であり、
”山賊や海賊”から、”身の安全”や”物資”を守る為には
当然「武装」したのです。
商売と武力は裏腹の関係であり、武装勢力は安全を守るでけではなく
流通税や通行税をとり、侍もどんどん、大きくなっていき
大阪は「武家集団」の町でもありました。
その”大阪”を「商人の町」としたのは「徳川幕府」なのです。
「徳川の天下」を作るために知恵を絞った「家康」は
「大阪冬の陣・夏の陣」で「大阪城」を丸裸にし「炎上」させ
「豊臣勢力」が再起しないように「大阪を非武力化」しました。
そして「大阪」には領主を置かず「「大阪城代」が「進駐軍」として
僅かな(100人~150人)なお供だけで管理させ、
急速に発展する「江戸」への物資を賄うだけの「商売の町大阪」と
変えて行ったのです。
家康が幕府を開いた頃の江戸は小さな漁村でした。
そこに突如「大侍軍団」が集まりました。
侍は「飯は食うけど、米は作らない」消費人口であり
その超大な消費人口を抱えた江戸を支えたのが
「物流システム」があり、船もありマーケツトもある
大阪を「天下の台所」として商売の町にしてしまったのである。
その上「士農工商」なる身分制度を確立させ、「侍の町江戸」から
「商人の町大阪」を見下ろした存在としたのである。
【士農工商ともに天の一物なり、、天に二つの、道あらんや】と説き
皆、社会のために役立つっていると【士農工商】の愚かさを講義する
京都の呉服屋の番頭をしていた「思想家」の「石田梅吉」が出て
商人について次の様に言っている。
【真の商人は 先もたち 我々も立つ事を 思うなり】
儲けることも大事だが、本当の商人は、まずお客のことを考える!
そうすれば”利他と利己の両方が立つ。
己を利することと、他人を利することは、車の両輪であるべき!
こう断言している。
大阪の低迷はこんな簡単なことを忘れているのが原因でしょう。
大阪人は、この「石田梅吉」の言葉を思い、大いに発奮し、
商売の原点に戻ることが、大切ではないでしょうか!
堀井良殷氏講演録より
【紘一郎 感想】
多くが、利益追求を強く思い、いつに間にか「東京」に進出し
「本社」も東京に移転し、バブルに飲み込まれている「会社」や
そして「人(芸能人に良く見るケース)」も山ほどある。
関西の「良いもの・古いもの」を見捨てて
目先の欲で関西を去るものを見てきた。
「剣によって立ったものは剣に滅び”利”のみを追求するは”利”に滅ぶ」
●人間は”利益を追求する為”に生まれてきたのではない!
大阪人発奮せよ! 堀井良殷氏講演録より
昔の日本は「日本海側」が交通の大動脈で、
太平洋側はあまり発達していなかった。
それは風が、西から東へ吹いているからです。
[大阪]は大陸から"人や文明"が”西風”に乗りやっきた
「西風社会」の中で発達してきた、つまり”地球の自転”に
よって生じる風の向きが、日本の運命を決定したのである。
物資を積み込んだ船が、太平洋を回らず”瀬戸内海”を通り
突き当たったところが”大阪湾”でした。
「西風社会」の中における「物流拠点」として「大阪」に
モノが集まり、人がついて来て、市場が出来、宿が出来、
食料が必要になり”食べ物”が発達し、内外の交流地点となり
「食文化」も発展してきました。
当時の”なにわ”は、多くの土地が砂地であり、中に入ると
河内湖なる湖があり、「上町大地から生駒の麓」までが
その河内湖の中であったようです。
そんな”なにわ”を整備し素晴らしい街にしたのは
1500年以上前の「仁徳天皇」の偉業であり
”400年ほど前に大阪”を開発した「豊臣秀吉」とは歴史や
規模が違いすぎるのである。
では「仁徳天皇」は、なにをされたのでしょう!
砂地を船が入れるように堀り、掘割を作りました。
それが、中の島を流れる「大川」なのです。
その「大川」は河内湖のたまっている水を「大阪湾」に
流す役目をし、沼地や池などを干上がりさせ、”水田”と
なり”稲作”などが発達したのです。
今の「河内平野」にある【大阪市の東部から東大阪市、大東市、八尾市】
のどの広範囲に及ぶ辺りでしょう。
農地が出来”米”が出来、国家財政も潤いました。
【高き屋に、登りて見れば煙たち、民のかまどは、賑わいにけり】と
「仁徳天皇」が”上町台地”の突端にあった”高津宮”から
水田を眺めて詠んだ句として伝わっております。
「仁徳天皇」は、そのころ入ってきた”鉄の土木工具”で
この大事業を計画し”治山治水””新田開発”を行いました。
その技術集団が行った「堺市の仁徳天皇陵」に運び込んだ
”砂の量”はエジプトのピラミッドに匹敵するかそれ以上と
言われております。
当時より大阪は”商人の町”といわれますが、それは間違いです。
物流拠点の”大阪”は、物資を運ぶのは”命がけ”であり、
”山賊や海賊”から、”身の安全”や”物資”を守る為には
当然「武装」したのです。
商売と武力は裏腹の関係であり、武装勢力は安全を守るでけではなく
流通税や通行税をとり、侍もどんどん、大きくなっていき
大阪は「武家集団」の町でもありました。
その”大阪”を「商人の町」としたのは「徳川幕府」なのです。
「徳川の天下」を作るために知恵を絞った「家康」は
「大阪冬の陣・夏の陣」で「大阪城」を丸裸にし「炎上」させ
「豊臣勢力」が再起しないように「大阪を非武力化」しました。
そして「大阪」には領主を置かず「「大阪城代」が「進駐軍」として
僅かな(100人~150人)なお供だけで管理させ、
急速に発展する「江戸」への物資を賄うだけの「商売の町大阪」と
変えて行ったのです。
家康が幕府を開いた頃の江戸は小さな漁村でした。
そこに突如「大侍軍団」が集まりました。
侍は「飯は食うけど、米は作らない」消費人口であり
その超大な消費人口を抱えた江戸を支えたのが
「物流システム」があり、船もありマーケツトもある
大阪を「天下の台所」として商売の町にしてしまったのである。
その上「士農工商」なる身分制度を確立させ、「侍の町江戸」から
「商人の町大阪」を見下ろした存在としたのである。
【士農工商ともに天の一物なり、、天に二つの、道あらんや】と説き
皆、社会のために役立つっていると【士農工商】の愚かさを講義する
京都の呉服屋の番頭をしていた「思想家」の「石田梅吉」が出て
商人について次の様に言っている。
【真の商人は 先もたち 我々も立つ事を 思うなり】
儲けることも大事だが、本当の商人は、まずお客のことを考える!
そうすれば”利他と利己の両方が立つ。
己を利することと、他人を利することは、車の両輪であるべき!
こう断言している。
大阪の低迷はこんな簡単なことを忘れているのが原因でしょう。
大阪人は、この「石田梅吉」の言葉を思い、大いに発奮し、
商売の原点に戻ることが、大切ではないでしょうか!
堀井良殷氏講演録より
【紘一郎 感想】
多くが、利益追求を強く思い、いつに間にか「東京」に進出し
「本社」も東京に移転し、バブルに飲み込まれている「会社」や
そして「人(芸能人に良く見るケース)」も山ほどある。
関西の「良いもの・古いもの」を見捨てて
目先の欲で関西を去るものを見てきた。
「剣によって立ったものは剣に滅び”利”のみを追求するは”利”に滅ぶ」
●人間は”利益を追求する為”に生まれてきたのではない!