紘一郎雑記帳

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茶の湯と水・千 宗守師講演会より・安田紘一郎雑記張

2009-09-01 13:25:07 | Weblog
「茶の湯と水」講演会より
講師
【千 宗守師(武者小路千家14代家元)・(財、官休庵 理事長)】

「茶」はどこの国でも「チャ」とか「テイ」と発音する事を
考えてみてもわかるように、もともとは一箇所(中国・ミャンマー)
できたものであろう。

私達はよく「日常茶飯事」と言う言葉を使うが、
この「ご飯・米」と「茶」の「茶飯」の歴史は全く違い
日本では「米は2000年」の歴史があるのに対して「茶は800年」
の歴史しかない。

飯(米)は永く平穏であるが、「茶」は短い歴史の中で競う
インパクトのある存在なのです。

「茶の湯」は600年で「茶道」は江戸時代半ばからの
 200年の歴史です。

「茶事」は懐石料理全てを意味し、酒・料理を楽しみ、終わり
休憩後の「濃茶」を飲んで、その後の「薄茶」まで「4時間」を
かけていただき、使う「道具」も5人で「1000点」以上もあり
「茶の文化」は「総合芸術」で「5感」を全て使い、
西洋の「聞く・見る」文化とは基本的に異なります。

中国の雲南省から2000年前に伝わったと思われる「お茶」は
805年「遣唐使」として大陸に渡った「最澄・空海」が帰国し
真言宗・天台宗を布教していく訳ですが、
同時に持ち帰った「茶の種子」も広めて行きます。

「最澄」は比叡山の麓で出入り口である「坂本」に植えました。
それが坂本にある、日本最古の茶園「日吉茶園」です。
以後、それが「宇治」へと移り「宇治茶」となっていく訳です。




「お茶」は「薬」として重宝され、仏教の修行中の「眠気覚まし」に
活用されたことを思えば、寺院中心に広まっていったのが解ります。

815年には「嵯峨天皇」が「近江唐崎」に行幸のさいに「僧永忠」が
「天皇」にお茶を差し上げた事が「日本後記」にあります。

894年「菅原道真」の建議により「遣唐使廃止」となり
以後、「宋朝」の時代まで交渉が途絶えます。

日本では多くの文化が「室町時代」に繁栄しますが「茶」も
同じように繁栄を続けて「抹茶文化」としていきます。

中国では「宋の時代」に「抹茶」の文化は終り、「烏龍茶」や
「ジャスミン茶」などの「茶文化」と変わっていきました。


その後日本での「茶の文化」は「文永の役」や「弘安の役」など
紆余屈折経験しつつ、「安土桃山時代」の英雄「織田信長」と
「豊臣秀吉」によって花開きます。

1537年に「豊臣秀吉」が誕生した年に「千利休」が
初めて「茶の湯」の歴史に登場致します。




「利休」のお茶はなぜ旨いのか!
それは「利休」は一番良い「茶」を使い、
どこで「茶会」をしても必ず「水」は「京都」から
取り寄せる、気遣いをしたからです。

1585年、秀吉は関白任官のお礼として「茶会」を開き
「正親町天皇」お招きし「利休」を補佐役としました。
その際「朝廷」より「利休」の号を賜りました。

それは「利休」が「秀吉」から「切腹」を命じられた
の1591年の「6年前」のことでした。

歴史をみると「京都」から「鎌倉」へ移った時代、そして
1600年以降は「江戸」に中心が移り、明治には「天皇家」
まで「東京」に移られましたが、「お茶」の本家だけは
「京都」から出ないのです。

それは「お茶」の基本は「水」にあり、全国いや世界中の
どこを探しても「京都」の「水」に勝る「水」は無いからです。

それを一番知っていたのは「利休」でした。

次回講演会ではその「京都の水」についてお話したいと思います。
有り難う御座いました。


【紘一郎雑記帖】

 この千宋守師の講演を聞き次の話を思い出しました

織田信長が「堺」に行った際「利休」に茶室に招かれました。

【信長】が茶室に入ろうとするが【入り口】が小さくて入れません。

信長ー【おい、利休!入り口が小さくて入れないぞ!】
利休ー【天下人様、腰をかがめてお入り下さい】
 信長は腰をかがめて入ろうとしましたが「太刀」が邪魔です。

信長ー【おい、利休!太刀があたって入れないぞ!】
利休ー【そのお腰の物を、隣の「森蘭丸様」にお預け下さい】
 信長は太刀を「蘭丸」に渡して入室しました

信長ー【利休よ!茶はたいそう面倒くさいものだな!】
利休ー【外に居た方は「天下人様」、
    茶室にお入りになったのが本当の「信長様」です。】

●古い物や文化を破壊してきた信長はこのとき
 「お茶」の文化に気づき、以後大切にしてとの話を思い出しました。