引っ越しも明後日に近づいてきた。「シカゴを満喫する」をテーマにしていた(?)今週だが、昨日は友人宅にて飲み会(食事もお酒も美味しかった!)、今日はField Museumに行ってきた。恐竜展とダーウィン展をやっていたので、シカゴを出る前に見ておこうと思ったのだ。
恐竜は「すごいなあ」という感じだったが、案外面白かったのがダーウィン展のほう。ダーウィンの生涯をたどりながら、彼の進化論についても(素人や子どもにもわかるように)説明している展示だったのだが、けっこうャ潟eィカルな議論にも言及していた。creationistからの反発の歴史とか、形をかえてintelligent design論として出ていることとか、また「進化論はただの『理論』にすぎず、同意されているわけでも事実だともいえない」的に言われることに対して、科学における「理論」というのはそういう意味ではなく、テストが積み重ねられ、それに基づいた結果が「理論」なのだ、というような、「理論」の意味に関する解説もあったりした。そして、進化論がダーウィンの空想の産物ではなく、実際の綿密な長年にわたる調査研究に基づいて編み出された理論だということがよくわかる展示設定になっていたと思う。夏休みの子どもが来やすい時期にこういう展示をするのは意義あることだなと思った。
あとは、ネイティブアメリカンや、パシフィックアイランダー系の展示を軽くみて帰ってきた。このあたりの展示も、飾られてあるものじたいは素晴らしいのだけれど(これらの展示物がいったいどういう経緯で飾られることになっているのか、奪われてきたんじゃないのか、とか思いを馳せざるをえない面はあるが)、展示自体から「歴史」を感じるのが難しい、という問題点はやはりあるなと思った。ネイティブやパシフィックアイランダーの展示されているものや生活のようすが、永遠に変わらない、固定された「時」であるかのような印象を受けてしまうのだ。文化人類学において、とくに非欧米/「第三世界」の「文化」が変化せず、歴史がないものとして、いわゆる"ethnographic present"として描かれてきてしまったという重大な問題が、こういった展示にもやはり反映されてしまっているのだろうか、と思った。展示する側もそうならないように意識はしているのかもしれないが、それでも見る側にとって、「歴史」性を感じづらいのだ。そして「今にも伝わる伝統」という面を強調することで、「伝統」というもの自体が歴史的につくられてきて、変化するものという視点がみえてきづらくなっているようにも思えた。あの展示をみた人たち(とくに子ども)は、ネイティブアメリカンやパシフィックアイランダーは大昔からずっと、まったく変化のない生活を送ってきたのかと思ってしまうのではないだろうか。そして、ネイティブアメリカンがいかに白人たちに迫害、搾取されてきたかの歴史も、太平洋の島々が、いかに欧米や日本からの植民地主義に苦しんだか、という歴史も、展示からはほとんど見えてこなかった。
たまたま先日、美術館のArt Instituteを見に行ったばかりで、そこで展示されるヨーロッパやアメリカなどの絵画や彫刻、調度品などの類いが、細かく年代別に区分されて展示されているのと、大きく違う印象をうけざるをえなかった。
いつも思うのだが、Art InstituteとField Museumの展示物の住み分けもある意味フシギな面がある。なぜ、ネイティブアメリカン関係の、素晴らしく件p的な織物やアートの類いは、Art InstituteではなくField Museumにあるのか、、?「美術史」ではなく「人類学」という、守備範囲とされる分野の違いも影響しているのかもしれないが。
写真はField Museumと、そこからのダウンタウンとミシガン湖の眺め。今日はいい天気だったので、湖もとてもきれいだった。
恐竜は「すごいなあ」という感じだったが、案外面白かったのがダーウィン展のほう。ダーウィンの生涯をたどりながら、彼の進化論についても(素人や子どもにもわかるように)説明している展示だったのだが、けっこうャ潟eィカルな議論にも言及していた。creationistからの反発の歴史とか、形をかえてintelligent design論として出ていることとか、また「進化論はただの『理論』にすぎず、同意されているわけでも事実だともいえない」的に言われることに対して、科学における「理論」というのはそういう意味ではなく、テストが積み重ねられ、それに基づいた結果が「理論」なのだ、というような、「理論」の意味に関する解説もあったりした。そして、進化論がダーウィンの空想の産物ではなく、実際の綿密な長年にわたる調査研究に基づいて編み出された理論だということがよくわかる展示設定になっていたと思う。夏休みの子どもが来やすい時期にこういう展示をするのは意義あることだなと思った。
あとは、ネイティブアメリカンや、パシフィックアイランダー系の展示を軽くみて帰ってきた。このあたりの展示も、飾られてあるものじたいは素晴らしいのだけれど(これらの展示物がいったいどういう経緯で飾られることになっているのか、奪われてきたんじゃないのか、とか思いを馳せざるをえない面はあるが)、展示自体から「歴史」を感じるのが難しい、という問題点はやはりあるなと思った。ネイティブやパシフィックアイランダーの展示されているものや生活のようすが、永遠に変わらない、固定された「時」であるかのような印象を受けてしまうのだ。文化人類学において、とくに非欧米/「第三世界」の「文化」が変化せず、歴史がないものとして、いわゆる"ethnographic present"として描かれてきてしまったという重大な問題が、こういった展示にもやはり反映されてしまっているのだろうか、と思った。展示する側もそうならないように意識はしているのかもしれないが、それでも見る側にとって、「歴史」性を感じづらいのだ。そして「今にも伝わる伝統」という面を強調することで、「伝統」というもの自体が歴史的につくられてきて、変化するものという視点がみえてきづらくなっているようにも思えた。あの展示をみた人たち(とくに子ども)は、ネイティブアメリカンやパシフィックアイランダーは大昔からずっと、まったく変化のない生活を送ってきたのかと思ってしまうのではないだろうか。そして、ネイティブアメリカンがいかに白人たちに迫害、搾取されてきたかの歴史も、太平洋の島々が、いかに欧米や日本からの植民地主義に苦しんだか、という歴史も、展示からはほとんど見えてこなかった。
たまたま先日、美術館のArt Instituteを見に行ったばかりで、そこで展示されるヨーロッパやアメリカなどの絵画や彫刻、調度品などの類いが、細かく年代別に区分されて展示されているのと、大きく違う印象をうけざるをえなかった。
いつも思うのだが、Art InstituteとField Museumの展示物の住み分けもある意味フシギな面がある。なぜ、ネイティブアメリカン関係の、素晴らしく件p的な織物やアートの類いは、Art InstituteではなくField Museumにあるのか、、?「美術史」ではなく「人類学」という、守備範囲とされる分野の違いも影響しているのかもしれないが。
写真はField Museumと、そこからのダウンタウンとミシガン湖の眺め。今日はいい天気だったので、湖もとてもきれいだった。