東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

石澤良昭 他編,『岩波講座 東南アジア史 2 』,2001

2009-06-06 23:22:17 | 通史はむずかしい
全9巻の第2巻。
東南アジア史の問題点、東南アジア史を把握する障害とおもしろさを集約したような一冊。

まず、この巻10世紀から15世紀までを扱う。
通常の東南アジア史の中に登場する王朝や有名な遺跡はほとんどこの巻に収録される。
つまり、これ以後、欧米勢力の植民地になり20世紀後半に独立する、というのが、中抜き東南アジア史。古代と現代だけの東南アジア史である。そうした従来の見方に挑戦するのが、全9巻の当講座であるわけだが、この第2巻は、むかしから有名な王朝や遺跡の時代である。

全体をざっと見て、以下のような感想を抱いた。

史料がなければ歴史はないか?

収録された論文の著者たちが一様に嘆いているのは、史料の少なさである。
14世紀あたりまでの現地史料は遺跡・遺物と碑文史料しかない。
それで遺跡・遺物から統治体制・宗教・住民の生活を推測するわけである。近年はこれに農業や環境のデータもくわえ、再現の密度が増している。

それでもやっぱり、碑文に書かれていないことは、わからない。

どこの地域の古代史でも同様だが、碑文に書かれていることは、実におもしろくない。誰某が誰某を簒奪したとか、誰某の子は誰某で、孫は誰某で、娘は誰某で娘婿は誰某でという記述が続く。
どこどこ国のなにない王がどこどこ国を滅ぼしたとか滅ぼされたとか、同じような話がいっぱいある。
おまけに、王の名前が似たりよったりで、舌をかむような長ったらしい名前。とても覚えられない。飽きてくる。

さらに重要なことは、碑文がない、遺跡がないところには歴史はないのか、人間は住んでいないのか、という疑問だ。

この巻には、フィリピン諸島に関する論考はない。
史料がないのだ。
同様に、島嶼部でもヌサ・トゥンガラやボルネオは空白だし、大陸部でも北部山岳地帯やデルタ部は空白のまま。
もっと詳しくみると、本巻の論考の中心となる四か所、クメールの平原・紅河デルタ・エーヤーワディ河流域・ジャワ島東部でも、遺跡や遺物のあるところだけが推測できるだけ。

歴史家にかってな空想は許されない。
ところが、近代国家が形成される時期、近代の領域すべてを含めた、そして近代国家の主流民族の歴史として、古代史が書かれた。

その近代国家(およびヨーロッパの宗主国)が創った歴史を、もう一度史料に即して再考しようというのが、現在の東南アジア史の課題である。
結果として、連続する物語を否定する歴史叙述になり、国家の歴史を管理する政府にとっては都合が悪いし、日本の読者にとってもすこぶる読みにくいことになる。
とくに東南アジア史の場合、アンソニー・リードとベネディクト・アンダーソンという、領域国家を否定し国民の由来を幻想と捉える論客が現れたことで、現在の歴史叙述がすこぶる難しくなっている。

いや、因果関係が逆だ。
国民や領域国家では捉えられない東南アジア史を研究した結果、リードやアンダーソンらの主張する枠組みが生まれたと言うべきだろう。


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