東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』,めこん,2008

2009-06-12 22:27:07 | 通史はむずかしい
毎年毎年傑作を刊行する出版社めこんであるが、これはめったにない重厚な一冊。
未刊行資料を読みこなした完全な学術書であるが、読みやすくおもしろく、基本的な事実や時系列の情報もそろっている。
さらに、著者のスタンスも明確。

 私は本書に登場するオレンタリストの政治的行為に対して、善悪の判断をするつもりはない(そもそも近代の政治に善悪など存在しただろうか)。フーシェの言葉に明示されるように、植民地主義時代のオリエンタリストは学問が政治であると強く自覚していた。政治性なしには学問が成立し得ない、政治的であるがゆえに学問足りうる、そのような認識すらあった。こうした自覚的なオリエンタリストの行状や事績に対して、現在の我々が、たとえばエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を盾にして、それを学問の名を借りた政治にほかならなかったといったところで、堂々巡りのトートロジーで意味がない。

 サイードがタイトルとして「オリエンタリズム」とは、従来は単に「東洋学」を意味する言葉であったが、彼の著作が注目されて以降、この言葉はまずもって西洋人が東方に向けた支配的で軽蔑的な態度を指すものに変わり果てた(少なくとも日本では)。私はサイードの分析の骨子に異議を唱えるつもりはない。しかし、サイードに依拠して、オリエンタリズムを短絡的に政治的悪として非難して事足れリとする言説が横行するようになった現状には異議を唱えたい。そもそもサイードの件の書が流行したのは、当時の我々がオリエンタリズム(東洋学)とは何であったかをまったく知らなかったからであろう。かりにフーシェがこの書を読んだとすれば、何を当たり前のことを書いているのだと思うだけである。

 私の目的は東洋学がいかに政治的であったかを明らかにすることではない。これは目的ではなくて前提である。この前提のもとに、私は、ある意味で政治史としてのアンコール考古学史を書き、政治的達成としての今日の考古学・美術史学の姿を浮かび上がらせたいと思っている。二〇世紀のアジア考古学が政治抜きでは成立も成功もなかったことを確認したいのである。その政治が悪だというのであれば学問もまた悪である。政治的悪のもとに豊かな学問的成果がもたらされたという現実もある。今日、オリエンタリストの言説や行動の政治性が非難されるのだとすれば、(前章で紹介した一九〇二年の東洋学者会議の方針に顕著なように)学問と政治を切り離し、学問に内在していた政治的な部分を忘却しようとしたからにほかならない。さらにいえば、現在に至る学問の伝統を擁護するために、我々はそうした現状においては、植民地主義時代を生きたオリエンタリストの事績に対して、せいぜい、彼らの学問的業績は素晴らしいが、政治的には問題がある、というような的外れな評価をするしかない。我々が継承した学問を擁護するために、その犠牲としてかつての学者の政治性が非難される。彼らオリエンタリストはこうした屈折した不幸な運命のもとにあるのだ━━これが、本書のタイトルを「オリエンタリストの憂鬱」としてゆえんである。こうしたまったく都合のよい学問礼賛と政治批判の現状にある学問史を克服し、すぐれて政治的であったオリエンタリスムの一つの歴史を描き出すことが本書の目的なのである。

(p160-161)

なお、引用文のなかのフーシェとは、ガンダーラ美術の権威で、「アフガニスタン考古学代表団」を結成、調査した人物。
イギリスと戦争を繰り返していたアフガニスタンに、1923年から乗り込み、積極的に政治に介入し、フランスの独占的調査を確立した。

上記引用だけ読むと、堅苦しい学術書に見えるが、おもしろい話がてんこもりである。また、フランス語文献学者によくある、ムツカシイ言葉使いはありませんので、その点安心してください。

しかも、人名辞典にさえ載っていないような無名の人物から超有名人まで、19世紀末から20世紀半ばのフランスの学界を横断した視野の広い著作である。

さらにすばらしいのは索引。
(1)人名・(2)団体名と機関名・(3)著作物・(4)主要遺跡と芸術作品・(5)そのほか、出来事や事件、法令、主要概念など、と五つのセクションにわかれている。

これがありがたい。すべて原綴り付き。
たとえば、
インド = シナ考古学調査団 Mission archeologique d'Iind-Chine
という団体があるのだが、一見すると、これは測量器具や鉄砲を担いで奥地へわけいって調査した団体みたいに思える。しかし、これは1898年に結成されたフランス極東学院の前身の組織であり、具体的な遺跡調査はやっていない。できなかった。

まだ、アンコール地区がシャム国王の統治下にあった時期に、フランス極東学院が開設されたのである。
アンコールがカンボジアに返還されたのは1907年。
インドシナ総督と(上座仏教の)僧侶たちの間で交渉が成立し、アンコール・ワットから僧侶が立ち退くのが1910年3月である。翌年、カンボジア国王によって「アンコール国定公園指定の法令」が発布され、「指定された地域はフランス極東学院によって管理される」法的根拠が固まる……というような細かい話を続けるとキリがない。

こうした状況で、中国とインドという巨大な文化遺産を持つ地域に挟まれたインドシナをいかにフランス圏内の偉大な文明遺跡とするか、それが当時のオリエンタリストが直面した問題である。
ジャワを独占したオランダ、インドを独占したイギリスに対抗し、それにドイツの学問伝統に対抗し、いかにフランス独自の学問をうちたてるかが課題でもあった。

その結果、本書に登場するオリエンタリストたちは、インド・中国はもちろん、カイロとアテネの東洋学、日本・オランダ領東インド・内陸アジアの考古学・美術史と交差する。スケールの大きな思想史であり政治史である。

ぜひ御一読を!


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