東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』,めこん,2008 その2

2009-06-13 21:26:29 | 通史はむずかしい
全体の対立軸は、インドシナへ実際に出かけて発掘や修復をした極東学院のメンバーと、メトロポール=パリのエリート学者たちである。
対立を悪と見るのではない。むしろ、対立の中で考古学や美術史、歴史学の成果が生まれた。

象徴的で画期的な事件がいくつかあるが、まず、
フィリップ・ステルネ著『アンコール遺跡のバイヨン』の衝撃(第4章 10節)

1927年発表。そうとう有名な著作で、画期的な研究らしいが、恥ずかしながら初めて知った。もっとも、知った後で過去に読んだ本をみると、けっこういろいろな本に出ている。

アンコール・トムのバイヨン寺院の年代考証で、それ以前の説を覆し、アンコール・ワット建設の後の時代、とした。
その後、セデスが碑文解読から13世紀建設という説で補強する。ジャヤヴァルマン建立の寺院として定説となる。

定説もなにも、現在ではあまりにも当然のことで、ことさら強調されないし、年代考証に論争があったことすら説明されない。

ところが、これは1927年になって、やっと明らかになった学説なのだ。
しかも、現場の極東学院のスタッフの頭越しに、一度もアンコールを実見したことのないパリの学者ステルネによって提唱された。
これは、アンコールの現場にいる研究者たちに、深い屈辱を与えた。

著者によれば、そしてわたしも同意するが、これは現物の遺跡を見たことがないパリの学者だからこそ発見できた成果である。
ステルネは、〈寸法が必ずしも正確でないデッサンや写真だけを検討し〉、推測した。
実証的な研究成果ではなく、理論から導かれた考証である。しかし、やんぬるかな!その理論的な考証のほうが、地道な現場の研究よりも正しかったのだ。

現在から冷静に考えると、ステルネの方法は格別めずらしくもなく、極東学院のスタッフが悔しがるほどでもない、とも言える。

現実の遺跡の前に立てば、暑さと埃、泥と砂、植物と昆虫、そういった混乱と自然の猛威のほうが圧倒する。
実際の修復作業にかかると、カビや湿気で変色した石材の細部を検討して元の位置を考える。とても全体の様式を考察している余裕はない。
いや、全体的な様式を予見せずに、地道に部分部分を修復していくのが学問的な修復なのだ。それと反対に、最初から完成図を予想して「復元図」を作ってしまったのが第1章で紹介されたドラポルトなど19世紀の学者である。

ちょっと脱線するが、実際の遺跡を見て、たとえば、これがヴィシュヌ像か!おお、ウプサラ像だな、あれは乳海攪拌か、なんてわかる人は、そうとう訓練を積んだ研究者だけである。
たいていの人は写真や美術全集で見たものを確認するだけだ。
遺跡現場では、仏像の様式や浮彫の構成よりも、アリやアブやトカゲのほうに注目してしまう。

そして、現在簡単にアクセルできるあの美術全集の構成、オリエント、エジプトからアフリカ、ポリネシアまでを系列に並べるという発想は、このアンコール研究の直前に生まれた新しい発想なのである。
この新しい発想の上で、世界各地の様式を俯瞰できる立場のメトロポールのエリートだからこそ、クメール美術の年代も推定できたというわけだ。

このような、学問的成果を積むメトロポールのエリート VS. 予算も人材も不足した極東学院の現場の対立が本書の主題である。

双方に関わったメンバーを紹介した第3章・第4章がわたしには一番おもしろかった。(著者の友人からの反応には、くどすぎる、というものがあったそうだ。)

その後の章では、遺跡からの美術品売却というスキャンダラスな話題が論考される。この部分については別項で。

第7章 パリ国際植民地博覧会とアンコール遺跡の考古学

大仏帝国の威信を世界に発信し、同時にアンコール調査の成果を一般大衆や政府関係者にアッピールするイヴェントが1930年のパリ国際植民地博覧会である。
この博覧会の最大のモニュメントが、実物大アンコール・ワット復元である。
莫大な経費をかけ、この経費の十分の一でも実際の遺跡研究に向けられたら……と、現在なら思える、壮大な無駄である。

この有名な博覧会は、他の面でも悪名高くさまざまな方面からの研究がある。
イスラーム諸国をエキゾチックな退廃とみなし、アフリカの原始的な美を賞賛し、カリブ海の文明化を称揚し、ポリネシアの無垢の野生を愛で……といった調子で、現在批判される偏見のオン・パレードである。
コロニアリズム、人種主義、文明化、といった用語を使って、いくらでも批判できる。シュール・リアリストらの反対運動も有名だ。

その中で、最大の呼び物がアンコール・ワットであった。
すでに、極東学院は地道な調査・研究のほかに、観光地としてのアンコールの整備も業務の一環であり、ツアーのプロモーションの意味もあった。
バリ島で進行していたような観光化がアンコールでも進行していたのだ。

博覧会のパヴィリオンは閉会後すべて取壊されたが、恒久施設として「植民地宮」だけが保存される。
1939年まで「植民地博物館」、その後1960年まで「フランス海外県美術館」1961年からは「アフリカ・オセアニア美術館」と何度も名称を替えて存続した施設であるが、2006年開設の「ブランリー美術館」に展示物が移管され、役割を終えるはずであった。取壊される予定だったのが保存運動が起き、現在「国立移民博物館」として再生されている。
ちなみに、パリの観光案内などでは、無数の有名博物館、個性的な美術館の蔭になって、ほとんど無視されているようですね。

その現在の「国立移民博物館」の建築様式と外壁装飾、内部のフレスコ装飾が紹介されている。アンコール、というよりアンコールもどきも描かれている。観光客の訪れないパリの穴場、過去の遺産か恥辱か、という感じのものであるようだ。

さすがパリ、奥が深いもんですね。


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