joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

じぶんに向き合う勇気

2004年12月22日 | 日記
東京にある、ヒーリングとビジネスのセミナーを行なう団体「ビジョン心理学ジャパン」のHPで不定期に連載されている、心理トレーナーの栗原弘美さんのコラムが最近更新されていました。それはとても印象に残るものでした。

詳しくは読んでもらえるとわかるのですが、高3で演劇科に通う弘美さんの息子さんが、合宿で同じ科の同級生を集め、それぞれに対する不満などを率直に打ち明けることで団結を深めたという話です。

かれは、じぶんは陰口を言うのがイヤだから、ここで正直にみんなに不満に思っていることを言う、と宣言し、それがきっかけで同級生同士で胸のうちを明かすことになり、それによってお互いのことを理解し合い、つながりが深まったそうです。しかも、それは一回だけでなく、何度か行なわれたそうです。

これは、書けば簡単のことのように思えますが、実際にそれを実践するひとはほとんどいないことでしょう。

わたしたちは他人に対していろいろな不満を持ちます。人にその不満をそのまま述べるひとは、まだいるかもしれません。しかし、それは往々にして、「なぜあなたが悪いのか、かしこい私が教えてあげるよ」という態度になってしまいがちです。

しかし、大切なのは、不満をそのまま述べることではなくて、その不満を相手に対して口にしているのは、相手を攻撃したいからではなくて、そういう不満を持っていることで自分はつらいこと、そんなつらさを抱えたままあなたと表面的なつきあいをするのは嫌なこと、だからその不満をあなたに打ち明けることで、本当のあなたと本当の私でつきあっていきたいのだということ。そのことを姿勢で示すことなのだと思います。

でも、これも書けば簡単だけど、実践するのは(わたしには)とても難しいように思います。どんなにこちらが率直に打ち明けているつもりでも、不満を述べられた方は、自分が攻撃されたと思ってしまう可能性があるからです。そして、不満を打ち明けた自分に対して相手が「仕返し」をしてきたとき、「ああ、この人にはどれだけ言っても永遠にはわからないな」とこちら(わたし)は思い、コミュニケーションを打ち切ります。

弘美さんはこういうような状態になったコミュニケーションについて、つぎのように述べています。


「私たちはこころの中でいとも簡単に人を切り捨ててしまいがちです。「あの人は違う世界に住んでいる人」「言ってもわからない」などと言い訳をして。よく私たちは「何度言っても聞かない」と言いますが、いったい何度言ったのでしょうか。多くの場合、その人に直接伝えるよりも影で文句を言っていることのほうが 何倍も多いのでは?また、伝え方はどうだったでしょうか。感情に任せて責め立てたり、権威的であったり、あるいは人の前でその人に恥をかかせたりはしませんでしたか?思いやりと誠実さを持ってコミュニケーションをとったら、その人に対してもっとちがう体験ができるのではないでしょうか。」


わたしは栗原弘美さんのセミナーには何度も出たことがありますが、彼女自身はつねに自分の中の嘘偽りのない正直さがどこにあるのかを探し続け、それをセミナーの受講者に積極的にわかちあうことを実践しているひとです。

ただ、彼女が言うように、わたしたちはいとも簡単に人を切り捨てます。しかし、その切り捨てたときの自分の頭や胸の中には、とても冷たいものが流れています。

おそらく、わたし(たち)は、他人が自分の言うことを分かってくれなかったとき、「相手に認めてもらえなかった自分」を受け入れるのが怖いのでしょう。そのときの屈辱感に直面するくらいなら、こころのなかで相手を切り捨てた方がましだと思います。

でも本当は、そのとき切り捨てているのは、相手の人ではなくて、屈辱感を抱えたじぶんなのでしょう。その切り捨てられた「屈辱感を抱えた自分」は、こころの奥にずっと埋め込まれてしまい、結局残るのは、「クールに振舞うわたし」というニセのじぶんです。

わたし(たち)は、相手に正直になってもらいたいと言いながら、じぶんの本当の姿に直面するのさえ怖いのです。「相手に認めてもらえない自分」という屈辱感に直面するのが怖いのに、相手にだけ正直になって欲しいというのはおかど違いでしょう。

もし「わかちあい」が成功するとしたら、相手に不満を言う勇気(だけ)ではなくて、不満を言われたときの自分の「屈辱」「恥」といった感情にどれだけ向き合えるかという勇気が大切になってくるのでしょう。

それらの感情をじぶんが受け入れていくのにどれだけ時間がかかるかを考えれば、他人が自分(わたし)の言うことを理解してくれるのに時間が必要なのも、当然ではないでしょうか。


涼風