joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

belief that anything is good

2004年12月02日 | reflexion
基本的に、そして応用的にも、わたしは羨望の激しい性格です。きょうも、外出からの帰り道、羨望、それもまだ実現しているかどうかもわからないことへの羨望の念が心のなかにむくむくと顔を出してきました。

羨望を色にたとえると、どんな感じでしょうかね。僕の印象だと、ちょうど口を開いたときに見える赤色と肌色のまざったような感じかな。血の色がまざっているような。体を切って開くと、そんな色がたくさん見えるかもしれないですね。

羨望とは、他の人がもっているモノや状況を自分も欲しがることですけど、この感情を感じていると、身体の中がねじれていくような感じになるときもあります。

とてもイヤな感情だし、これが出てくると、人生が地獄のように感じるときもあります。


この感情を見ていて思ったのは、これは、つまり、自分が世界の動きをコントロールしようとして、でもできないことへの悲しみと怒りの叫びだということです。

心理学を勉強していると、自分が「誰々はこう行動すべき」という期待をもっていることがよくわかると思います。家族や知り合いなどに対して、「本当は俺に対してこう言うべきだろ」「そんな態度を取るな」と、誰でも思いますよね。たしかに、これがコントロールの典型だと思います。そして、その期待は、上手く行かない場合が多いので、わたしたちは現実に失望します。

しかし、羨望というのは、多くの場合は、誰かが自分に対して取った失礼な行動に腹が立つというより、他人が得ているモノ・状況に対して湧き起こる感情ですよね。つまり、本来であれば、自分自身はそのことで実害を被っているわけではないので、そのことに思い煩う必要はないはずです。

たしかに、自分の嫌いな人が恵まれていると羨望が起こるけど、でも、その嫌いな人が恵まれていることと、自分のこととは、よく考えてみれば関係はない場合が多いと思います。

嫌いな人が自分のものを奪っても、羨望は起こりません。そこで生じるのは怒りであって羨望ではないと思います。

つまり、羨望とは、直接はじぶんには関係ないことなのに、それでも気になってしようがない状態です。たしかに自分と近しい人が恵まれることで羨望は生じるけど、でもその人が恵まれることと、じぶんが恵まれないことは、直接には結びつかないことが多いのではないでしょうか。

こうみていくと、羨望とは、あらゆる感情のなかでもとりわけ非合理なもののようです。

たとえば怒りのばあいは、大抵は怒る「正当な」理由があったりします。「失礼なことを俺にしやがって」とか。

でも羨望の場合は、自分と離れたところで起こった出来事に対して生じる場合が多いのではないでしょうか。


このことは、つまり、わたしたちは、単に自分に対する他人の行動だけでなく、世界の動きそれ自体をもコントロールしたいという欲求をもっていることを意味しているようです。

つまり、例えば、わたしの嫌いなAさんがBさんから何かモノをもらったことを羨ましがるということは、わたしたちは、このBさんの行為をすら本当はコントロールして阻止したいわけです。

もしこのBさんがわたしの知らない人であれば、わたしは自分の知らない人の行動までコントロールしたい。

もしこの「Bさん」が人ではなく、ある状況、例えば「好景気」だとしたら、わたしは景気の動き、経済の流れまでコントロールしたい。Aさんにだけはいいことがおこらないように、経済をコントロールしたいのです。

こういうように見ていくと、羨望とは、まさに自分の手の届かないところをコントロールしようとする欲求だということがわかります。そこまでして、Bさんの幸せを阻止するためなら、世界の動きを支配したいのです。

そう考えると、わたしのコントロール欲というのは、とてつもない(無駄な)エネルギーなのだなと思います。人の欲の大きさを思い知らされます。


心理トレーナー、チャック・スペザーノさんは、コントロールしたいという罠をぬけるためには、《信頼》することが大切だと言っています。


「信頼すれば、前に進んでいくのに必要な自信が湧いてきます。自分を信頼すること、そしてなおかつ、天の力を信頼することで、楽に前進できるでしょう」

『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』
ヴォイス社より)

欲求・コントロールとは、他人への信頼が失われた状態だということですね。でも欲求も信頼も、両方とも「こうであって欲しい」というイメージがあります。なのに、この二つのどこが違うのでしょう?

わたしが思うに、コントロールとは、自分の中の足りない部分を外側のもので埋めようとする行為だろうと思います。自分は不十分だという想いがあるので、せめて自分の外の世界だけでも「こうあるべき」という状態にしておこうとする行為ですね。

それに対して、信頼とは、自分が満たされていることをまず信頼することのように思います。自分が満たされており、その自分を創造してくれた神も満たされた完全な存在であり、その神がつかさどっている世界の進行も完全なものであることを、《信頼》することのように思えます。

自分が満たされたいのであれば、自分が満たされていることを《信頼》すること。たとえ初めはそう思えなくても、「こんなに自分はだめなヤツじゃないか」と思えても、自分は満たされているのだということを《信頼》すること。そこから、天や世界、人々への信頼が生まれてくるように思います。


羨望とは、自分には何かが不足している現実を直視していることへの恐れであると同時に、自分が満たされていることを《信頼》することへの怖れなのでしょう。もし今の自分が満たされてしまったら、こんなに不足している自分を創った親や神を恨むことができないし、自分の問題の責任を他人になすりつけることももうできなくなるのですから。


わたしたちは幸せになることを怖れている、とよく本には書かれています。逆説的な言葉ですが、その言葉が意味していることの一つは、現状がどうであれ、《信頼》すればすべてが完全であることが分かるのに、わたしたち自身がそう認識することを拒否しているのだよ、ということのように思いました。

《信頼》とは、世界に対するわたしたちの感じ方を変え、なにかポンッと向こうに足を伸ばして飛び越えていくような感じがします。