joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

前にあるものと

2004年12月17日 | 見たこと感じたこと
きょう、午前に、JR神戸線の電車に乗っていました。有名な明石の隣にある朝霧駅というところからわたしはよく乗ります。

朝霧駅から神戸、大阪方面へとわたしの乗った電車は動いていきます。電車からは見渡すかぎりの海と、淡路島が見えます。

電車に乗るまではいろいろな雑念が頭の中をうごめいていました。不安、心配とか、自分の至らなさとか。

でも、電車に乗り、海の見える席に座ると、すっと気もちが透き通っていくようでした。海に反射するひとつひとつの白い輝きや青い空が前にあり、じぶんがそのような存在とおなじ場所と時間を過ごしていることに目をうばわれて、ただその場に自分がいるだけ、という感じになりました。


プレゼント“present”とは、pre-(前に) –sent(ある、存在する)=「前にあるもの」という意味だそうですね。そこから、「出席している」とか、「現在」という意味が出てきますが、贈り物としてのプレゼントも、「人前に置かれた物」という意味から来ているそうですから、「そこにあるもの」という意味とつながっているのでしょう。

今ここにいること、今そこにあるもの、それがすべて贈り物であると言えるのは、偶然ではないのかもしれません。

わたしたちは、目の前に何かを置かれて、それを見て喜びます。目の前にあるものを見て、わたしたちは喜びます。

だったら、よろこびたいのであれば、まず目の前にあるものを見ることなんですね。


涼風



「自分」が消える

2004年12月16日 | 語学
わたしは、しばらく前から、英語の音読を毎日しています。教材は登内和夫さんの『超右脳つぶやき英語トレーニング』(総合法令出版)などです。

この教材は、テキストを見ながらCDに吹き込まれているネイティヴの朗読を聴いて一緒に音読していきます。CDには、普通の速さと2倍、3倍の速度が入っています。

でも最初は、正直言って2倍でもついていけないし、3倍なんてもってのほか、でした。やはり英語ですからね。それで、Windows Media Playerの速度調節を使って、1.3倍とかで音読していました。

ただ、TOEICを受けようと思うようになって、もっと真剣にやるようになってからは、その速度を少し速めるようにしました。

それで最近は3倍近くまで上げて音読しようとしているのですが、そこまでになると、やはり速くてついていけません。テキストを目で追うのも満足に行かず、まともに口で発音することはできません。

その音読を今日もやっていました。やはりCDの速さについていけず、ろくに音読もできません。ただ始めてから数分後に、「自分はこのCDの速さについていくのが怖いのかもしれない」と思ってみました。もしこの速さに自由についていってしまったら、自分は英語をぺらぺらになってしまうのかもしれない。頭の中は英語で考えるようになり、自分の中にまったくべつの英語圏の人格ができてしまうのかもしれない。もしそうなったら、どうなってしまうだろう。自分が自分じゃなくなってしまう。そんな怖れがあるのかもしれない、と思いました(もちろん、音読の最中はここまではっきりと言語化していませんが)。

ただ、「自分はCDの速さについていけないのではなくて、ついていくのが怖いのかも」と思ってからは、(比較的)口の動きがCDに合わせられるような感覚になったのです。

もちろん、とても速い速度なので、満足な朗読はまだできません。でも、なにかそれまでとはちがって、自分の口が早く動くような感覚になったのです。これはとても面白い体験でした。


ある人が外国語を話せるかどうかは、もちろんその人のそれまでの努力にかかっています。しかし、ひょっとしたら、本当は話せる実力があるにもかかわらず、「外国語が話せるようになるのが怖い」と心の奥で思ってしまうことは多いんじゃないか、と思いました。そういう人は、じつはとても多いのかも、と。

外国語をぺらぺら話せるようになるというのは、それまでの「外国語ができない自分」というセルフ・イメージを手放すことです。これは、外国語コンプレックスをもった多くの日本人にとって、じつはとても怖いことなのかもしれない。

だって、外国語ができないほうがいいじゃないですか。「あまり話せない。わたしはだめだ」と思い、「ダメな自分」でいたほうが、自分の羽根を広げてぱっと人前に立つよりラクなのですから。


わたしが愛読している心理学者チャック・スペザーノさんは、ひとはじつは幸せになることを怖れている、とよく言います。

「人々が持つ一般的な怖れというのは、“もしも自分たちが本当に幸せだとしたら、自分たちはコントロールを失ってしまうだろう”というものです」(『30日間でどんな人でもあなたの味方にする法』ヴォイス)

これは、逆説的な言葉だし、理解するのが難しい言葉ですよね。だって、幸せになりたいと自分は思っているはず、とわたしたちは思っているのですから。わたしも、この言葉の言っていることは難しいと思ってきましたし、今でもちゃんと分かっているのか分かりません。

ただ、この「幸せ」というのを、例えば、大きく羽を広げること、みんなを引っ張っていくこと、人前で自身あふれた姿をみせること、大きな事業を起こすこと、不可能に思えることでもチャレンジして実際に行動すること、例えばそういうように解釈してみると、比較的分かるような気もします。そんなすばらしい人になってしまったら、わたしたちはどんどんと前に出て、実際に動くことが求められます。そんなの、しんどいし、怖いし、イヤですよね。


外国語がぺらぺらになっちゃったらどうなるのでしょう。他の国の人の言葉が完全に分かっちゃったら、どうなるのでしょう。もうボソボソと、ゆっくりとはしゃべっていられず、頭を早く回転させなければなりません。片言でしゃべっている間は、そのスピードを自分でコントロールできますが、ネイティヴのようになってしまったら、自分で気づかぬうちに頭が回転し、言葉が出てきてしまう。自分なのに、自分でなくなってしまう。自分なのに、自分ではない何かが勝手に反応してしまっている。

外国語学習では、じつはそのことを多くの人がおそれているのかもしれない、そんなことをふと想いました。

ただよう暗さの起源(2) 『共同幻想論』 吉本隆明(著)

2004年12月15日 | Book
(前の記事「ただよう暗さの起源(1)」の続きです。今回は、吉本隆明さんの『共同幻想論』の中から、自分にとって興味深かった部分を簡単にまとめました。「国家」というものについて考えたいと思ったので、この本を読みました。(1)と(2)で全部で1万字400字あります。興味のある方は、読んでいただけるとうれしくおもいます。読んでいただける場合は、前の記事の(1)からお読みください。)


「共同体」についてここからは「共同幻想」という言葉を使うと、この「共同幻想」は、最初は「対幻想」との区分が必然的に曖昧なものでした。しかし吉本さんは、歴史上のある時点で、この「共同幻想」と「対幻想」の間にはっきりとした分離が起こったと考えます。

吉本さんはその分離を、『古事記』を手がかりに追います。

「対幻想」と「共同幻想」が未分化な段階とは、兄弟と姉妹との間の「対幻想」が「共同幻想」を作っている段階です。

しかし、ある歴史的な時期に生じた、同母の兄弟と姉妹が政権を分担し、司ることにより、「対幻想」と「共同幻想」が分離していく契機が(そのときははっきりとはしなくとも)生まれました。『古事記』に、アマテラスとスサノオの関係など、兄弟と姉妹が政治的な権力と宗教的な権威を分担して司っていることを示唆する記述がみられますが、吉本さんはその記述を、日本史の中で、兄弟姉妹の「対幻想」が同時に「共同幻想」を生んでいた段階ととらえています。


このとき「姉妹」は宗教的な権威を司ります。吉本さんは、これを、女性に特有な現象とみます。「対幻想」とは、人間が自らを「男性」あるいは「女性」として意識することを指し、また同時にその自分と異性が「対」であるという意識を指します。

吉本さんは、ある日本史の時期で、権力の座にある女性が「共同体」という観念と自分が「対」になっていると意識することが起こったとみています。この「対幻想」は、「幻想」ですから、絶対に相手が具体的な異性の人間でなければ生じないというものではありません。それは具体的な人間であってもよいし、また「共同体」という観念でもかまいません。その場合、その権力の位置にある女性は、自分は「共同体」と「対」になり、この「共同体」を営んでいるという「幻想」をもちます。まわりも、そういう「幻想」をもちます。このとき、「対幻想」は、同時に「共同幻想」となります。

ここで、なぜ女性だけが「共同体」と「対幻想」を結ぶことができるのか、という疑問が出てきますが、その疑問に対して吉本さんは次のように述べています。

「かれ(フロイト)によれば〈女性〉というのは、乳幼児期の最初の〈性〉的な拘束が〈同姓〉(母親)であったものをさしている。…身体的にはもちろん、心性としても男女の差別はすべて相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が〈同姓〉であったことだけが〈女性〉にとって本質的な意味をもつ…。最初の〈性〉的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向は少なくとも〈性〉的な拘束からの逃亡ではありえない。母性に対する回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの〈男性〉を逃れるために女性に向うことはありえないだろう。

 〈女性〉が最初の〈性〉的な拘束から逃げようとするとき、男性以外のものを対象として措定したとすれば、その志向対象はどういう水準と位相になければならないだろうか?

 このばあい〈他者〉はまず対象から排除される。〈他者〉というのは〈性〉的な対象としては男性である他の個体か、女性である他の個体の他にありえない。するとこのような排除のあとでなおのこされる対象は、自己幻想であるか、共同幻想であるほかないはずである。ここまできてわたしなりに〈女性〉を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ、と。そしてほんとうは〈性〉的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味していない。なぜなら、このふたつは、女性にとってじぶんの〈生誕〉そのものをえらぶか〈生誕〉の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである。

 たんに男〈巫〉にたいして女〈巫〉というとき、この巫女には共同的な権威は与えられていない。けれど自己幻想と共同幻想がべつのものではない本質的な巫女は、共同性にとって宗教的な権威をもっている。そして人間(史)のある段階ではその権威が、普遍的な時代があったとかんがえられてよい」(102-4頁)。


(私にとって)難解なこの記述を強引に解釈すると、男性が「対幻想」を結ぼうとするとき、「乳幼児期の最初の拘束」である母が女性であるため、同じく女性を抵抗なく対象として選びます。母性への回帰という幻想に容易に男性は捕らえられるので、母に似た女性と「対幻想」を結ぶことが多いでしょう。

しかし女性は、「乳幼児期の最初の拘束」は同性であったため、自ら主体的に「対幻想」の対象を選ぶ必要にかられます。そのとき、女性には、レズピアンになるか、「男性」を選ぶか、それとも別のものを選ぶかという立場に立たされる点で、男性以上により主体的な決断を迫られます。つまり、その選択が主体的である分、女性は、必ずしも異性を「対幻想」の唯一の相手として選ばない自由をえることになります。

そのとき女性には、「対幻想」を結ぶ相手としては、自分(自己幻想)か、共同体(共同幻想)が残ります。ここに、男性とは異なり、女性が「共同幻想」と「対幻想」を結ぶ可能性が生まれます。

そのような可能性をもった女性という存在が兄弟とともに権力を握るとき、彼女は巫女的な存在として、共同幻想と自分は「対」であるということを表明します。そのとき彼女は、共同体全体と対等に対峙できる唯一の個人となり、それにより彼女には共同体を司る「権威」が生じます。

この権威者である女性は、「共同体」と対幻想を結ぶと同時に、前述したように、血縁関係によりその兄弟とも対幻想を結んでいます。つまり、二つの方向に同時に対幻想を結んでいます。それにより、兄弟は、その姉妹が宗教的権威をもつことで、現実の政治的権力を行使できることになります。

吉本さんは、『古事記』のなかのアマテラスとスサノオとの関係などから、日本史のある段階で、このように兄弟と姉妹が宗教的権威と政治的権力を分担し合った時期があり、そのとき共同幻想は共同体の権力としての地位を明確に確立したと述べています。

共同幻想自体は、兄弟姉妹の「対幻想」が、兄弟姉妹の分散により拡張することで生じると言えます。しかしそれが権力へと転化するには、権力の座にある女性が「共同体」という観念(共同幻想)と対幻想を結ぶ必要があります。

それにより、「共同体」という観念(共同幻想)は、権力者の現実的な権力と同一視されるようになります。このとき、共同幻想は、共同体の人々にとって「権力」として、圧迫的なものと感じられるようになります。吉本さんの言葉で言えば、共同幻想が対幻想とも自己幻想とも「逆立」する関係になります。

この「逆立」した関係が時代を経るにしたがい洗練されるにつれて、それは「法」あるいは政治権力となって、民衆にとって抗し難いものとなります。


吉本さんによれば、日本史の中で「対幻想」と「共同幻想」の間が未分化であった状態とは、民衆の「家族」(対幻想)が行なう現実的な農耕行為と密接に結びついていた宗教的儀式が、その民衆的性格を強く残していたことを意味します。そのような共同体の祭儀は、未だにそれら個々の民衆の生活と密着しているため、「対幻想」と「共同幻想」は未分化であると言えます。

そのとき権力者が追求したのは、この民衆的な性格を残した祭儀を、権力者のための祭儀へと転化させることでした。吉本さんによれば、天皇の世襲大嘗祭はその転化のための権力者による儀式でした。

吉本さんは、民衆の農耕社会の祭儀、つまり民衆が田の神を奉る行為が、数ヶ月にも及ぶ時間的な長さを持ち、またその祭儀では民衆の田々と家々という現実的な空間が重要な意義を持っていることを紹介した上で、天皇の世襲大嘗祭では、それも同様に農耕社会の祭儀行為を示しているにもかかわらず、現実の民衆の田と家との関係を失い、また時間的にも極度に短くされていることを指摘します。

「天皇の世襲大嘗祭では、民俗的な農耕祭儀の〈田神迎え〉である十二月五日と〈田神送り〉である二月十日とのあいだの祭儀時間は、共時的に圧縮されて、一夜のうちに行なわれる悠紀殿と主基殿でのおなじ祭儀の繰り返しに転化される。彼は薄べりひとつへだてた悠紀殿と主基殿を出入りするだけで、農耕民の〈家〉と所有(あるいは耕作)田のあいだの祭儀空間を抽象的に往来し、同時に〈田神迎え〉と〈田神送り〉のあいだの二ヶ月ほどの祭儀時間を数時間に圧縮するのである。

 このあとでさらにつぎの問題があらわれる。

 民俗的な農耕祭儀では、すくなくとも形式的には〈田神迎え〉と〈田神送り〉の模倣行為を主体としているが、世襲大嘗祭では、その祭儀空間と時間とが極度に〈抽象化〉されているために、〈田神〉という土地耕作につきまとう観念事態が無意味なものになる。そこで天皇は司祭であると同時に、みずからを民族祭儀での〈田神〉とおなじように〈神〉として擬定する。かれの人格は司祭と、擬定された〈神〉とに二重化せざるをえない」(149-50頁)。

 元々は、民衆の生活に密着した農耕の神を敬う儀式であった宗教行為は、天皇という権力者によって模倣されることにより、民衆ではなく権力者(天皇)と神との結びつきを象徴する儀式へと転化するのです。

このときの天皇は、それが実際には男性であろうと女性であろうと、神に対して異性として向き合い、神と対幻想を結ぼうとしているのです。それにより権力者(天皇)は、神の力を手に入れることになります。吉本さんは次のように述べています。とても長くなりますが、引用します。

「…この大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも圧縮されているため、(…)穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。また(…)純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ〈神〉とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって、対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がじぶん自身の人身に、世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味すると考えられる。

わたしたちは、農耕民の民俗的な農耕祭儀の形式が〈昇華〉されて世襲大嘗祭の形式にゆきつく過程に、農耕的な共同体の共同利害に関与する祭儀が、規範力〈強力〉に転化する本質的な過程をみつけだすことができよう。

…民俗的な農耕祭儀では、〈田神〉と農民とはべつべつであった。世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された農民であるとともに〈抽象〉された〈田神〉に対する異性〈神〉としてじぶんを二重化させる。だから農耕祭儀では農民は〈田神〉のほうへ貌をむけている。だが世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された〈田神〉のほうへ貌をむけるとともに、じぶんの半顔を〈抽象〉された〈田神〉の対幻想の対象である異性〈神〉として、農民のほうへむけるのである。祭儀が支配的な規範力に転化する秘密は、この二重化のなかにかくされている。なぜならば、農民たちがついに天皇を〈田神〉と錯覚できる機構ができあがっているからである」(150-51頁)。


わたしたち日本の最初の国家権力が、つまり大和朝廷がいつどこで成立したのかは、歴史家によって未だに論争があります。しかし、吉本さんの議論に従うなら、問題はそうした具体的な「国家」の形を取った制度がいつどこでできたかではなく、共同幻想を象徴する民衆の神が、権力者の儀式によって吸収され、民衆がじぶんたちの農耕を支配する神とそのときの権力者を同一視するようになったのかはいつか、というように問題が置き換えられる必要があります。なぜなら、そのときこそ、民衆は(現在の言葉で言う)「国家」というものがこの世界に存在し、じぶんはその団体の構成員でありながら、生れ落ちたときからその共同体の規範にそって生きることを強いられているからであり、それこそ、まさに太古の民衆と現在の私たちとを結ぶ糸になるからです。

 国家とは、ある面では政府や自治体などの具体的な制度にすぎません。それ自体は一種の機械的なもので、手続きに従えば変更することは(原理上)可能です。

 しかし、天皇制という存在が醸し出す「暗さ」、あるいは時の首相や政治家が「日本の使命」という名の下に国民を戦地に派遣する事態、君が代や国旗掲揚の強制など、それらはわたしに気分が悪くなるような生理的嫌悪感を呼び起こします。

もし吉本さんの議論が正当であるならば、このわたしの嫌悪感は、古代の日本の権力者が、元々は民衆の神がもっていた聖性をじぶんたちの側へと引き寄せ、その聖性と権力者である自身とを同一視するよう民衆を納得させることに成功したからだと言えます。その成功の歴史が何千年、何万年と続いてきた場合、この日本で生まれ育つものは、必然的に、その祖先によって引き継がれた「権力の神」の観念を、自らも抱え込まざるをえないのでしょう。しかもその神の観念は、民衆の共同利害からは抽象化されているため、必然的に権力として民衆に対して圧迫的なものとなる性質のものです。


天皇について議論するとき、たとえば昭和天皇に戦争責任があるかどうかという議論の形もあります。しかし、天皇家の個人個人も人間なのですから、好戦的な人間が生まれることもあれば、心優しい人が生まれる可能性もあります。現在の皇太子は、私がうまれてから初めて見た、その人間としての率直さと勇気を身をもって示した皇室の人です。また現在の天皇は、国旗・国歌の強制に疑問を表明するバランス感覚に優れた人です。次の言葉は、平成(今上)天皇によるものです。

 「経済状況の厳しい中で、お祝いをして下さる事を心苦しく思っていました」と天皇が皇后と共に皇居・宮殿「石橋の間」で切り出し、「言い尽くせない事も 有るといけないので、紙を見ながらお話しします」と予定を遥かに上回る45分間もに亘って思いを開陳したのは、「天皇陛下御在位10年記念式典」開催前日 に当たる99年11月11日でした。
 「私の幼い日の記憶は3歳の時」「盧溝橋事件が起こり」「戦争の無い時を知らないで育ちました」。「先の大戦が終わってから54年の歳月が経ち、戦争を 経験しなかった世代」「も多くなっています」が、「戦争の惨禍を忘れず語り継ぎ、過去の教訓を生かして平和の為に力を尽くす事は、非常に大切な事」。
 「軍人と県民が共に島の南部に退き、そこで」「敵・味方、戦闘員・非戦闘員の別なく」「無数の命が失われ」た「沖縄の歴史と文化に(私が)関心を寄せているのも、復帰に当たって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有する事が県民を迎える私どもの務めだと思ったからです」(ゲンダイネット「「平和・護憲」の天皇・皇太子の人格を否定する政治家と宮内庁官僚」より)


こうした言葉を公の場で発言できる人格を天皇家の人々がそなえているにもかかわらず、天皇制が国民に対して「権力」として、圧迫的なものとして存在せざるをえない歴史がこの国にあるのであれば、この制度に対して、国民が主体的に議論する必要があるのだと思います。

また、「国家」というものが個々人に対して圧迫的に感じられる観念である以上、政治家は、自分はその「国家」という共同幻想の論理に取り込まれて個々人の利害を見失っているのかどうかを、つねに反省しなければなりません。「国家」という共同幻想が実際の生活から抽象化された規範的権力としての何千年、何万年にもおよぶ歴史を持っている以上、その個々人の利害と「逆立する」幻想から自由になる必要が、政治家にはあると思うのです。

この共同幻想に取り込まれてしまったとき、政治家は、国民の利害とは逆立する、「日本国家の使命」という共同幻想の論理に引きずられていく危険性があるように思います。



今日の記事では吉本さんの『共同幻想論』の中から自分にとって印象に残った部分だけを簡単にまとめ、その簡単な解釈を書きました。でも、この本は非常に複雑な論理がしかれている本なので、わたしのこの記事はこの本の内容のごく一部を扱っただけです。またその論理の複雑さについていっているかどうかもわからないので、誤読もあると思います。

ただ、1968年に書かれたこの本が提示した自己幻想・対幻想・共同幻想というロジックは、やはりとても卓抜なものに思えます。「国民国家」という概念について多くの議論が重ねられながらも、そのどれもに新味が感じられない中で、「性」としての人間から共同体の観念が生まれる過程を論理的に突き詰めて記述したこの書物は、今でも多くの人々に知的刺激を与えうるのではないかと思いました。

興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

最後まで読んでくださってありがとうございます。


涼風



ただよう暗さの起源(1) 『共同幻想論』吉本隆明(著)

2004年12月15日 | Book
わたしは天皇家の人々をみると複雑な感情を抱きます。天皇家の人たちの、100%善良そうな雰囲気をみると、このひとたちは本当にノーブルで、まじりっけのないいい人たちなのだ、と思わされます。

皇太子が宮内庁による雅子さんへの不当な扱いに公に抗議したときなど、ああ、この人は本当に正義のために闘う人なんだ、と感動しました。

しかし、にもかかわらず、天皇家の人たちを見ると、なにかとても複雑なものも感じてしまいます。彼らの人格にかかわらず、なにか暗い気分になってしまうのです。君が代や日の丸にもやはり同様のものを感じます。

国会議員の人たちの下品さまる出しの言動をみると、わたしは微笑ましい気もちになったり、ただ呆れたりします。学歴を詐称したりとか、年金の払い忘れとか、1億円をもらって「記憶にない」とか、バカバカしいほど人間らしいじゃないですか。

でも、そうした彼らの個人的言動とはべつに、自衛隊の海外派兵を強行したり、自衛隊の訓練に出向いて彼らの前で演説をしたり、戦車に乗って東京都の中を行進したりするのを見ると、とても気もちの悪い、生理的嫌悪感を感じます。それは、おそらくそういうときの政治家の行動が、かれら個人の人格を越えて、「国家」という論理に取り込まれているからでしょう。

天皇家の人たちの存在に暗いものをわたしが感じてしまうのも、彼らの個人的な清廉潔白さとはべつに、かれらの環境自体が、ふつうの家族とはちがう論理に従っているからなのでしょう。


そうしたことをあらためて考えさせてくれたのが、最近読んだ、文芸批評家の吉本隆明さんの著書『共同幻想論』でした。

わたしは以前にもこの本にチャレンジしたことがあるのですが、全然読めませんでした。どれだけ文字を追っても頭に残らず、何か書いてあるのかさっぱりわからなかったんですね。それで放っていたら、気づいたらなくなっていました。

だけど、このブログで天皇について書いているうちにまた読んでみようと思ったのですが、意外に(以前より)本の内容が頭に入ったように感じています。もちろん難解な本なので、その理解度には不安はあるのですが。

今日は、簡単にこの本の解釈をまとめてみたいと思います。ただ、結果的に今日の記事は1万字になってしまいました。少し長い上に、この本の内容を簡単にまとめて感想を少し付け加えたものなので、すでに『共同幻想論』を呼んだことのある方や、そういう本には興味のない人には、とても長くかんじられるかもしれません。


『共同幻想論』が試みているのは、「国家」というものの明確な定義づけです。

わたしたちは「国家」という言葉をよく使いますが、そのメルクマールは人によってかなり曖昧でしょう。政府と自治体という具体的な制度を思い浮かべる人もいるし、その国の「領土」という地理学的な線引きを考える人もいます。あるいは、その国に住む人々の集団というように考える人もいるでしょう。「国家」という言葉には、明らかなようでいて、いろいろな内容が入り込んできます。吉本さんは、この言葉の内容をはっきりとさせようとしました。


吉本さんは、「国家」を一つの「幻想」と位置づけます。「幻想」と言うと非現実的な空想を思い浮かべるかもしれませんが、この「幻想」は、むしろ「観念」と言い換えてもいいでしょう。つまり、わたしたちの頭の中に張り付いている「観念」「想念」です。そういう意味での「幻想」です。


「国家」が「存在」するためには、「国家」というものが存在するという「観念」をわたしたちがもつ必要があります。逆に言えば、この「観念」がなければ、「国家」はこの世に存在しません。


そこで疑問として出てくるのは、この「観念」がいつ成立したか、ということです。いつから、どのようにして人々は、この「国家」という「観念」を現実のものと認めるようになったのか、この問いを吉本さんは追及しました。


「国家」という「観念」はなぜ成立したのかと問うことは、共同体という「観念」はなぜ成立したのかと問うことであると言ってよいでしょう。そこで吉本さんは、「共同体」という「観念」の成立の起源を追います。


共同体とはなぜできたのか。それは人と人がたんに集まってできるものではありません。そうではなく、一つの結束性のある集団として個人に想念されている必要があります。

その結束性をもっとも生みやすいのが、血縁です。家族と言い換えてもいいでしょう。男性と女性が出会うとき、そこにひとつの「夫婦」という観念がうまれる可能性が生じます。そこで生じる「男性と女性は対である」という観念が、「夫婦」という一つの「対幻想」を生むのです。

そこで、この「夫婦」つまり男性と女性の出会いから、「共同体」を構成する可能性が出てきます。事実、「夫婦」が「家族」となるとき、それも「共同体」のひとつです。しかし、一対の男女とその子どもだけでは、のちの「国家」となるような共同体にはなりえません。その血縁意識が、ある程度の量的規模を伴う「共同体」という観念へとつながる必要性があります。


吉本さんは、この血縁という意識がなぜ「家族」(だけ)ではなく「共同体」という観念を生んだのかを考察します。

一人の男が沢山の女性に子どもを産ませることに「共同体」の起源をみようとすると、つまり、その男性と女性と子どもたちの間の血縁意識の量的拡大に「共同体」の起源をみようとすると、その血縁意識が拡大していく可能性は、それら「夫婦」の死とともに終わります。その子どもたちが後にまた沢山子どもを作ったとしても、また夫婦と子どもとの間の血縁だけに注目する限り、それが共同体の拡大につながることはありません。親と子のつながりがたくさんできるだけです。

吉本さんは、対幻想である「夫婦」が共同体へと拡大していく契機は何かという問題の難解さを次のよう述べています。

「いまでもなく、家族の〈対なる幻想〉がの〈共同幻想〉に同致するためには〈対なる幻想〉の意識が〈空間〉的に拡大しなければならない。このばあい〈空間〉的な拡大にたえるのは、けっして〈夫婦〉ではないだろう。夫婦としての一対の男・女はかならず〈空間〉的には縮小する志向性をもっている。それではできるならばまったく外界の共同性から窺い知れないところに分離しようとするにちがいない

 エンゲルスはこれを誤解したとおもえる。かれは一対の男女が〈夫婦〉としての内部にあまねく拡大する場面をおもいえがいた。この場面を想定するかぎり、内のすべての男性が内のすべての女性と〈性〉的にかかわり、ある期間同居できる集団婚を想定するほかなかったのである」(161‐2頁)。

しかし、どれほど沢山の男が沢山の女を通して子どもを産もうと、そこでは多くの男女の出会いという「対幻想」が生じるだけで、その「対幻想」がそのまま「共同体」という観念を生む契機にはなりえません。「対幻想」が「共同体」の観念(共同幻想)となるには、男と女の単なる出会いによって生じる人間と人間の間の幻想とは違う幻想が生じる必要があるからです。集団婚は多くの「対幻想」を生じさせますが、それはそのままでは「共同幻想」とはなりえません。


そこで、もし「夫婦」という「観念」が「共同体」へと広がるとすれば、それは男と女が産む子供たちが兄弟姉妹という「性」をもった人間であることによる、と吉本さんは考えました。

なぜ男と女が兄弟姉妹であることによって、「共同体」という「観念」が生まれるのでしょうか。


「夫婦」という「観念」が生まれるのは、人間が男性あるいは女性であることに由来します。わたしたちはひとりの「個人」として振舞うこともできますが、異性と交わり、性行為を行い、家計を営むときは、じぶんを「男性」あるいは「女性」であると意識しています。

「夫婦」とは、この自分の中にある「性」という「観念」を意識する場であると言えます。ここから吉本さんは、「対幻想」という言葉を生みます。男性と女性がお互いの「性」を意識しながら「対」になって一つの「家族」を営むこと、それが「対幻想」です。この「対幻想」により、その男と女は、じぶんは「家族」の一員であるという「観念(幻想)」をもつことができます。

この「対幻想」を、吉本さんは、もっとも基礎的な人間間の集合体の観念であると考えているようにわたしは思います。

そこで問題となるのは、いかにしてこの「対幻想」が「共同体」へと規模を拡大していくかです。

このような問題の立て方は、吉本さん以前の学者もしてきましたが、かつての学者は、古い歴史に見られる多夫多妻や乱交などの現象に答えを求めたようです。

しかし吉本さんは、よほど人間が未分化で非文明的な意識をもっているかを想定しない限り、そのような答えは正しくない、と考えました。人間が自分を「性」として意識することは、そこに「自分とは何か」という意識があることを意味します。そのような自己意識を想定するかぎり、乱交によって人間は集団意識を高めたという答えは、吉本さんの腑に落ちなかったのではないかと思います。

吉本さんは、「対幻想」が「共同体」へと拡大したのは、同じ家族の兄弟姉妹がみずからを「性」として意識し、また兄弟は姉妹を「女性」として、姉妹は兄弟を「男性」として意識したことに由来する、と考えました。

そのとき兄弟姉妹の間に実際に性交渉があったかどうかは問題ではありません。お互いが互いを「異性」として意識しあう(現代の言葉で言えば「恋愛感情」をもつ)ことにより、兄弟姉妹のあいだに「対幻想」が生まれるのです。

兄弟姉妹は、やがて他の家族から生まれた外部の人間と家族をもちます。しかし、兄弟と姉妹が互いを「異性」として意識しあう「対幻想」は消えることはありません。このとき、「対幻想」は、ひとつの「家族」という枠を破り、より大きな共同体へと飛躍するきっかけが生じます。兄弟姉妹がばらばらの家族に散っても、「対幻想」が残る限り、その「幻想」は拡大していくのです。そこに、より大きな「共同体」という幻想が生まれる契機があります。

吉本さんはこういう論理の導きにより、「対幻想」があることをきっかけにして広がりをみせたとき、「共同体」という観念が生まれたと考えました。それは、歴史的にははるか何万年も前のことですが、そのとき人類は、「共同体」という観念を手に入れました。吉本さんはこのような、「対幻想」から「共同幻想」が生じる点について、歴史的に見られる母系制を例にとりながら、次のように述べています。

 「いまエンゲルスのいうとおりに同母の〈姉妹〉と〈兄弟〉を、原始的な〈母系〉制の社会で純粋に取り出してみたと仮定する。この両者の間には普遍的な意味では自然な〈性〉行為、いいかえれば性交はないだろう。たとえあっても、性交があったとしても、なかったとしても〈母系〉制社会の本質には、どちらでもいいといった意味においてである。だがたとえ性交はなくとも〈姉妹〉と〈兄弟〉のあいだには〈性〉的な関係の意識は、いいかえれば〈対なる幻想〉は、自然的な〈性〉行為に基づかないからゆるくはあるが、また逆にいえばかえって永続する〈対幻想〉だともいえる。そしてこの永*続*す*る*という意味を空間的に疎外すれば〈共同幻想〉との同致を想定できる。…

 こうして同母の〈姉妹〉と〈兄弟〉は〈母〉を同一の崇拝の対象としながらも、空間的には四散し、またそれぞれ独立した集団をつくることになる。〈姉妹〉の系列は世代をつなぐ媒体としては尊重されながら、現実的には四散した〈兄弟〉たちによって守護され、また兄弟たちは〈母系〉の系列からは傍系でありながら、現実的には〈母系〉制の外に立つ自由な存在になる。ただ同母にたいする崇拝の意識としては、いいかえれば制度としては、この〈母系〉の周辺に存在するだろう。ここに氏族制へ転化する契機がはらまれている」(172-3頁)。
 

(次の記事「ただよう暗さの起源(2)」に続く)


涼風



悪いところとは、弱っているところ

2004年12月13日 | reflexion
最近、ちょっと疲れ気味です。これは、自分で勝手に根を詰めているというところもあるし、一週間ぐらい前から風邪の流行にとらえられたという面もあります。

風邪については、葛根湯を食前に三回飲んでいます。お湯に溶かしているのだけど、すこし苦いですね。でも、冬の食卓で、食事前に、カップにお湯を入れ薬を溶かし、それを飲んでいると、なにかに守られているような感じにもなります。

冬は寒いので、温かい飲み物であるお薬をのむという行為が、なんだか、自分を大切にしようとしているということの確認のようにも感じます。たしかにからだは疲れているのだけど、疲れているがゆえに、薬を飲んでいると、それが自分を大切にしているんだというように感じているみたいです。

寒かったり、風邪を引いたり、疲れたりすることのメリットって、そんなところにあるのかもしれませんね。そうやってからだが弱ることで、わたしたちは自分をあらためて大切にしようとする。自分を大事にしようとする。


病気のときは、ちゃんと病人になったほうがいいのかもしれない。病人になると、じぶんは普通じゃないと認識するので、普通に行動できない自分を責めることからも、ある程度解放されるのでしょう。

風邪ではなくても、わたしたちは、誰でも、どこか病気なのだ。誰もが、「普通に」、つまり人から期待されているようには行動できない。

世の中には、もっと「病院」みたいな場所が増えるといいのかも。からだの病気も、こころの病気も。みんなが自分は病人だと認識して、自分をいたわればいいのだ。「普通」でない自分を大切にしていけばいいのだ。

自分を良くするとは、悪いところを治すことだと思う。ということは、良くするということは、悪いところをそっとしたり、いたわったりすることになる。

みんなが、自分には「悪い」ところがあって、それを「治す」のに人の力を借りることを認めるようになると、自分の弱さを受け入れられる世界になるかもしれない。


涼風

依存

2004年12月12日 | 日記
きょう、ひさしぶりに髪を散髪屋さんで切ってもらいに行きました。散髪屋さんにいるというのは、どうしてあんなに苦痛なんですかね。苦痛だけど行かなきゃならない、そんな場所のような気がします。(「苦痛」という文字は表現がきつすぎる感じもするけど・・・)

苦痛だけど行かなきゃならないという点では、散髪屋さんは病院に似ているのかも。そこに行くときは、「そこに行かなければならない “must”」という感覚にとらえられています。

そして待ち合い場所に座って、呼ばれるのを待ち、呼ばれたらイスに腰をかけ、「症状」(「ここが長いので切ってください」)を言わなくてはならない。

「症状」を言うときはとても不安です。なんだかへりくだった気もちになりながら、ちょっと弱気になって、「横は耳が出るぐらいに短く」とか言ったりします。でも、それを言うことで、自分の真意がどれだけ伝わっているのか不安になります。そもそも、自分でもどんな結果(髪型)が欲しいのかよく分かっていないのです。このあたりも、症状を説明しながら、でも自分の身体についてわかっているわけではない病院の診察時と似ている。

そして、診察されるあいだ(髪を切られる間)、じぶんはまな板の鯉になって、ひたすら時を待ちます。このときが一番苦痛です。髪を切られて頭が軽くなっていくのは気持ちいいのだけど。

途中でいろいろとお医者さん(散髪屋さん)に「ここはこのぐらいでいいですか?」と聞かれても、気分的に専門家の前でまな板の鯉になっているので、もう「いえ、ここはこうです」と強く言うことなどできません。何とか、「いや、こうです」と言って、でも思い通りにならなくても、再度「抗議」する気力は僕にはありません(笑)。

今はともかく、20歳のころなんて少しはしゃれっ気があったから、よけいにドキドキして何も言えませんでした。

そして診察(散髪)が終わると、もう患者(わたし)は何も言えません。だって、すべては終わっているのですから。覆水盆に帰らず、です。

わたしはこれから残りの人生で何回病院(散髪屋さん)に行くのだろう。自分で自分を診断する(髪を自分で切る)のはむずかしいだろうから、わたしたちは散髪屋さんなしでは生きていけない。もしお医者さん(散髪屋さん)がみんな医者(散髪屋)をやめたら、きっと世界は混乱に陥る。わたしたちはお医者さん(散髪屋さん)に依存しながら生きていくしかない。自分の身体(髪)がどうなるかを彼らにゆだねながら。

そう、わたしたちは自分で自分のことをどうすることもできない。他人に全面的に依存しながら生きていかなくてはならない。だったら、気持ちよく依存したい。時にはまな板の鯉になりながら、他人を信頼して、身も心も気持ちよく預けたい。

わたしは自分を他人に依存させたい。

そして、他人に依存してもらえる存在になりたい。


涼風



その人の本当の顔が見たい

2004年12月11日 | 日記
最近、朝にFMラジオをよく聞きます。神戸の民放の放送局です。台所にある小さなラジオでは、FMは、この神戸の局とNHKしか入らないけど、NHKはくらーい曲(クラシックや日本の古典舞踊に使う曲?)を朝から流していて、あまりさわやかな気もちにもならないので、民放にしています。

これまでは、親や姉がAM朝日放送のおっちゃんDJたちの「しゃべり」を聴いていたので、それに合わせていました。道上洋三さんや妹尾和夫さん(関西では有名)とかですね。

たしかに彼らの「しゃべり」も面白いのだけど、でも、ラジオから流れるこてこての関西弁が生理的に僕はだめなんですね。むりやり人情を作り出しているみたいで、ねちゃねちゃした感じがしてあまり好きじゃありません。

まあ、その僕自身も関西弁をばりばりに使えるバイリンガルだし、日常の関西弁には抵抗感はないんですが。

そういう関西的なノリに違和感を感じるので、朝に聴くのはFMに換えました。

ラジオの局を変えただけで、こんなに気分が変わるのかと思います。おっちゃんのおしゃべりを聴いていると、頭には勝手に大阪のにぎやかな繁華街とおっちゃん・おばちゃんたちの顔が想像で出てくるのだけど、FMに替えるとなんだか「シティ」(笑)の風景が見えてきます。

面白いのは、そういうFM番組の雰囲気というのは、おそらく何十年も前とほとんど変わっていないだろうということ。以前、洋楽に興味を持ち始めた子どものころ、よくFMを聞いていました。雑誌「FMステーション」(今でもあるのか?)で番組をチェックして。

そのときの番組も、みな一様に、無内容の話を英語風の日本語(笑)でDJがしゃべり、洋楽や日本のポップスをかけ、たまに英語のナレーションが入っていました(「ウェザー・リポート!」「トラフィック・インフォメーション!」みたいな)。

FM番組のいいところは、なんだか乾いた雰囲気がするところ。とくにリスナーと情緒的な関係を結ぼうとせずに、軽い話と曲を適当にかけているので、番組に自分の気持ちに入ってこられずに、かつ曲を楽しむことが出来ます。そこがわたしはFMの好きなところです。

でも、いつまでも英語のようなノリの日本語を話すのはどうかと思う。DJのおしゃべりも、意味のないことを無理やりに楽しそうに話しています。

AMでもFMでも共通しているのは、無理やりに楽しく話そうとしているところだと思う。それが関西弁か、あるいは英語風の日本語か、という違いがあるだけで。一方は、こてこての関西の雰囲気を作り出そうとし、もう一方はこの関西という場所を(おっちゃんとおじちゃんが支配するこの町を!)無理やりアメリカのウェスト・コーストにしようとしている。

もっと自然な番組づくりをして欲しいな。べつに深い内容の番組じゃなくてもいいけど、そのときDJ(あるいは放送作家)が想ったり感じたりしていることを正直に話して欲しいのです。FMのDJはみんな内容のない話を英語風の日本語で勢いよく話すけど、あれでは他のDJと差別化できなくて、人気DJになれないし、それは本人にとってもリスナーにとっても惜しいことだとおもう。もっと、その人自身でいて欲しいのです。

関西弁でも標準語でもいい。(話の内容というより)その人のそのままさを聴きたい。


涼風



求めていること

2004年12月10日 | 日記
今日のニュースでは、クリスマスのライトアップが全国で始まっていることが伝えられていました。とりわけ、LED(発光ダイオード)を使った青いライトがどこでももてはやされているそうです(と言っても、原理はよくわからないけど)。

たとえキリスト教の信者ではなくても、クリスマスというのは無条件にワクワクしますね。たとえ日本にキリスト教の伝統はなくても、12月の暮れという、何か地上全体が一つの終わりに近づいているようなイヴェント感のある時期と、「憧れの」西洋文明のもっとも大切な日が重なったことが、ここまで日本でクリスマスが定着した要因なのかもしれませんね。

一年半ドイツに住んでいたとき、仲良くしてくれたドイツ人の友達には、「日本のクリスマスなんて、こっちとちがってただの商業主義にのせられているだけなんだよ」とぼくは言っていました。なんだか日本のことを紹介するときは、よく自虐的になっていました。

でも、それは間違いなのでしょう。クリスマスの雰囲気は、日本でも、多くの人に憩いを与えてくれている。たとえプレゼントを与える人がいなくても、クリスマスに近づいていく日々は、なんだかワクワクさせてくれる。

たしかにクリスマスの雰囲気は企業の広告で大部分が演出されている。でも、それは、企業にみんなが踊らされているというより、みんなが求めている年末の世界全体のイヴェント性、なにかこの世界全体がワクワクしたもので包まれて欲しいという欲求を、企業が上手く汲み取ってくれた結果だと思います。少なくとも、そう思いたいものが、クリスマスにはある。


クリスマスに無条件にワクワクしてしまうのは、きっと、国や文化の違いを越えて、無条件にうれしくなるような雰囲気をクリスマスがもっているからで、また、国や文化の違いを越えて、誰もがそういう日を求めているからかもしれない。誰もが、この世界が天国であることを感じたいからかもしれない。


涼風

読まなくてもワクワク 買わなくてもワクワク

2004年12月09日 | 店舗を観察して
今日、神戸の三ノ宮のセンター街にあるジュンク堂で本を買いました。

時間帯が夕方だったので、レジにも人が並んでいます。元々いつも盛況な店なので、なおさらレジ前は混雑しています。

図書券と追加のお金を払うと、小銭のお釣りが来ました。わたしは本をかばんに入れながら、同時に小銭を財布に入れなければなりません。わたしはたった今書籍を買ったお客です。だから、お店の売り上げに貢献したはず。もっと丁寧に扱われてもいいはず、と単純に発想します。

しかし、ここのジュンク堂は、後にも人が並んでいるので、「早くどいてよ」という無言のプレッシャーを(こっちが勝手に)感じてしまいます。かばんを片手に持ち、それに本を入れながら、同時に小銭を財布に入れる。それをすばやくしなければ、という心の焦りにおそわれます。わたしがすべての動作を終える前に、店員さんはつぎのお客さんの対応に忙しいのか、わたしの前から消えていきました。


ジュンク堂はJR神戸線の多くの駅で店を出しています。少なくとも、神戸一帯では彼らは成功しているような雰囲気です。実際、店内は広くて白い明るさが行き届いていて、清潔な木目の本棚が並び、雰囲気はどの店もとてもいい。私の家から歩いて行ける舞子店などは、何メートルにも広がるガラス窓一面から明石海峡大橋と海を見渡すことができ、天気のいいときなどはリゾート気分の書店になります。

本の品揃えも、ちょうど注目を集めている本を外さずに、三ノ宮店のよう中心的な店などは硬いものから柔らかいものまでバランスよく揃えていながら、舞子店や明石店などの中規模店では装丁や内容が明るい雰囲気の本を目につくように配置している気がします。そのためか、なんだか癒されるような印象があります。きっと、消費者の目には届かない細かい目配りがもっとされているのでしょう。

それだけ神経を使って店作りをしているのに、なぜか僕とここの店員さんとは相性がよくないことがある。アルバイト店員が多いからなのか、たまにとても不愉快な思いをしたこともあります。

また、女性の店員さんがおおいのだけど、彼女たち正社員風の人たちは、すこし疲れた顔をしながら、本をどう置くかに必死で、あまりお客さんとのコミュニケーションにはそれほど気を使っているようには見えない。もちろん、失礼な態度を彼女たちが取っているわけではないし、質問するとちゃんと丁寧に答えてくれるのだけど。

ジュンク堂のHPでは、現社員の方が、「本屋の仕事というのは結構孤独なもので、接客をしながらもお客様の心に触れることは稀です」とおっしゃっています。店員さんの立場ではそう感じられるのかもしれません。

でも、喫茶店ではレジ前しか店員さんと接触しない店が増えているけど、本屋さんでは、とくに大きな本屋さんでは、地味な本を探しに来ることもあるので、お客は店員さんが頼りなのだ。そんなとき、ないかもしれない本を質問するのだから、こちらは心細い。表面上はクールに装っていても、店員さんに対してびくびくしながら質問しているのです。

だから、むりやりな笑顔を作るのはしんどいだろうけど、お客さんの不安な気持ちをほどいてくれる対応をしてくれると、とてもうれしい。とくに、本屋は街の中にあり、街というのはお互いが知らない顔同士の人であふれかえっているのだから、よけいに心細くなっているので、人にやさしくして欲しいという気もちもあります。まあ、こちらの一方的なわがままなんですけどね。

でも、お店の内装には神経をとても使っているように見えるのに、なぜか店員さんの対応には会社として全然気を使っていない感じがして、そのアンバランスさが目立つ感じがします。これは、苦情ではなく、どうしても目についてしまうこと、という感じです。

実際、神戸近辺のジュンク堂のお店の雰囲気はいいと思う。東京駅にある八重洲ブックセンターや新宿のアルタ近くの紀伊国屋のような超有名店とかよりもよっぽどいいと思うのだけど。


東京にいたときに僕が好きだった本屋さんは、恵比寿駅のアトレにある有隣堂でした。 べつに品揃えがいいわけじゃないけど、なんだかお店の雰囲気がウキウキさせるようなおしゃれな感じがして、近くに来ると(そこでは本を買わないのに)よく立ち読みしました。

多くの芸術ファンの要望で閉店が取りやめになったことで有名な青山ブックセンターも、たしかに楽しいお店ですね。でも、置いてあるファッション雑誌にしても、普通の書籍にしても、ぼくにはちょっとあまりにも洗練されすぎている印象もあったかな。趣味がよすぎるというか。でも、残ってくれたのはうれしいです。


本屋さんの店員さんは、概してぶっきらぼうな感じがする。そこが変わってくれると、もっと楽しい場所になるのだけど。


涼風

見る力

2004年12月08日 | 日記
先日、いろいろと個人的にお世話になっているところに遊びに行かせてもらい、授業を体験させてもらいました。きょうはそのときの感想を簡単にまとめてみたいとおもいます。


最近は右脳ブームですよね。七田眞さんや中谷彰宏さん、他にもいろいろの方が「右脳」という題名の本を出しています。御存知の方は何年も前から精通しているのだとおもいます。

船井幸雄さんの本でも七田さんの右脳訓練をよく紹介していますし、わたしも七田さんの本を何冊か読ませてもらいました。その印象だと、どんなに七田さんが言葉を尽くしても、「右脳には記憶力や直観力ですごい力があるんですよ」という以上のことは言えていないような気がしました。「右脳にはすごい奇跡的な力がある」ということを言いたいのだから、それを従来の論理的・科学的な言語で説明すること自体に矛盾があるので、読者にはうまく伝わらないように感じたのです。

ただ、その七田さんの本『右脳がぐんぐん目覚める4倍速...』に付いている2倍速・4倍速の朗読CDに合わせて日本語の文章を読むという実践をしたときに、わたしは3.4倍ぐらいまでついて行けるようになったのですが、たしかに速い速度の文章に合わせて文章を読んでいると、自分の意識的な力ではない、なにか自分以外の力に身を任せて読むようにすると、倍速CDについていけたという体験があります。

「自分の力で」速く読もうとしてもうまくいかないのが、なにか気を楽にして、「速く読ませてください」と何かにお願いするような感じでいると、スムーズにCDについていけたのです。「これがひょっとすると超自然的な力なのかな」と思ったりもしました。

最近はその日本語の朗読はやめたのですが、英語とドイツ語の2倍速の朗読をしています。ただ、2倍だと、元のCDのスピードが遅いと物足りない感じもします(わたしのパソコンでは、速度調節は2倍が限度です)。


などなどの右脳体験しているときに、幼児教育をしている方に「教室に遊びに来てもいいよ」と言われたので、ぜひ、と思って出かけました。


授業では、赤ちゃんから幼稚園、小学生ぐらいまでの授業を見させてもらいました。内容は、出された問題通りに複数の積み木を重ね合わせる、色々な形の紙を組み合わせて正方形をつくる、先生の話を聞いてあとでそのストーリー通りに自分で話を組み立てる(記憶力を試す)、カルタ、などなど他にも沢山あり、それを次から次へと先生が子どもにさせていきます。

それは、休む暇などありません、まさにぶっ通しで50分その授業をするのです。わたしたちの学校時代を思い出してください。50分の授業が永遠のように感じられませんでしたか?わたしは、その授業の長さに耐えかねて、ぼーっと空想にふけっていました。しかし、その50分の授業に幼稚園ぐらいの子どもたちがダレもせず真剣に取り組んでいるのです!

これは、一つには、少人数で次から次へと課題が与えられるため、退屈する暇がないこと、また幼児にはそうした充実した課題に応えられるだけの能力がちゃんとあるということだと思います。逆に言えば、その幼児の能力を引き出すには、次から次へと課題を与えていくスピードがとても大切だということだと思います。

小学校や中学校・高校の授業が退屈だった原因の一つは、大人数でレヴェルにばらつきがあるので、のろまにしか授業を先生ができないからなのでしょう。授業の進行がのろまな分だけ生徒の頭ものろまにしか働かず、結果的に何も理解できずに終わるのです。


他に興味深かったのは、授業の内容が、「不確実なもの・見えないもの」を信頼する力を子どもに与えている印象を(わたしが)受けたことです。

たとえば、出された課題の形通りに複数の積み木を組み合わせる作業があります。ふつうに積み木を見ていては、その組み合わせは思いつきません。何度も試行錯誤しながらその組み合わせを見つける必要があります。その過程で生徒は、見たそのままの積み木の形からは飛躍した組み合わせを発想する必要にかられます。目の前にある積み木の形とは違う側面を「みる」必要があるのです。もう一つの目をもつ、と言い換えてもいいのかもしれません。

そのもう一つの目にたどり着くには、やはり「なにか」を信頼して、普通では見えない答えに自分が辿りつけるということへの信頼が必要になるような気がしました。

子ども達はこの課題も他の課題も、わたしの3、4倍以上の速さで行ないます。おそらく彼らには、わたしの知らないなにかを感じる力があるのかもしれません。

この積み木かさね以外の課題も、どれも似たような性格を持っています。「確実なもの・見えるもの」を頼っていては解けない問題ばかりが出てきます。頭を180度ひっくり返さないとダメなのです。「ひっくり返さないと」と言うけど、でも子ども達はそれを自然にできてしまうのだと思います。


でも、こうしたことに関連する話は、誰でもどこかで聞いたことがありますよね。

以前、サッカーの中田英寿選手は、「じぶんは子どものころのほうがサッカーが上手かった」と言っていました。「こどものころは、後ろを向かなくてもボールがどこにあるかわかっていた」と。

彼の「キラーパス」が美しかったのは、そういう非常識な発想から繰り出されるパスだったからでしょう。以前の彼は、わたしたちがただ漫然と見ていては気づかない、相手のディフェンダーのあいだにあるスペースをグラウンドの中に見つけ、そこにパスをだしていました。その発想があまりにも意表をつくため、味方もついていけなかったのです。きっと中田選手は、自分がグラウンドにいながらにして、一人だけグラウンドを高く真上からみるもう一つの目をもっていたのだと思います。

あるいはよく知られているように、『スター・ウォーズ』の話も同じようなことを扱っていますよね。「フォース」という力は、ただ見えるものだけを見ていては使えませんよね。77年に公開された作品のクライマックスでスカイウォーカーは、敵の基地のわずかなスペースに爆弾を落とすとき、自分の力ではない「なにか」の助けを借りて飛行機を操縦する必要にかられました(『帝国の逆襲』では、そのスカイウォーカーが「フォース」を身につける訓練の困難さが描かれていましたよね)。


そうした普通では見えないものを「見る」力を養うことを、幼児右脳教育はたしかにしているような印象を受けました。


考えれば、いまのわたしたちの社会の悲劇は、確実に見えるもの・確実に感じられるものだけを信用することに始まります。つまり、お金・物質・他人に勝っているという勝利感。これらを信用していることに多くの悲劇は由来します。なにか、「確実なもの」に拠りかかることに飢えています。普段の人間関係にいざこざから、アメリカによるイラク攻撃まで、すべてそれが元凶のように思います。


右脳に秘められた力が個人の能力を開発するだけでなく、社会をよくすることにつながるとしたら、やはり「見えないもの」を見ることにあるのかもしれません。

これは、現実を否定して山にこもるとか、インドに行って修業するのがいいと言っているわけではありません。

そうではなくて、現実をもっとカラフルに、いろいろな面から見る力を養うということです。具体的に狭めて言えば、お金・物質・他人に勝っているという勝利感など以外の側面がこの世界にはあるということへの信頼感をもつということです。一見普通の道徳的なことのように思えますが、それを実際に感じる力が衰えている、つまり世界をいろいろな面から見る能力がわたしたちからはなくなっています。

それゆえに、わたしたちは、既成の価値観から自分は外れている(リストラされた、出世コースから外れた、30代なのに結婚していない、いまだに童貞・処女だ)といったことに敏感になり、絶望に陥りやすくなります。

でも、人生のゴールにたどり着くのに必要なのは、そういう見える物差しで自分を測るのではなく、ルーク・スカイウォーカーのように、現実に目の前にある狭すぎるスペースにとらわれるのではなく、なにかの力を感じてそれに導かれることなのかもしれません。

これは、先日にもポストした記事「belief that anything is good」「最高のプレゼント」で取り上げた、心理学者チャック・スペザーノさんが言う「信頼」と同じことなのでしょう。チャックさんはつぎのように言います。


「どうしたら状況がうまくいくかなんて、あなたが知る必要はありません。それはあなたの仕事ではないのですから。あなたの仕事は、平和を感じるまで「信頼」を送り続けることです」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』)。


つまり、見えるものだけを見るのではなく、見えるものをちゃんと見ながら、同時に見えないものを信頼し、じぶんがゴールにたどり着くことを信頼するのです。

それは不可能に思えるかもしれませんが、子ども達はじっさいに、一見不可能に見えるような積み木や図形の組み合わせをやすやすと見つけていきます。一見見えなくてもゴールはあること、それに自分はたどりつけること、それを彼らは知っているのだし、わたしたちが思い出すべきなのもそういう力なのでしょう。


そういったいろいろなことを考えさせてくれる右脳教育体験でした。こんな面白いことを体験させてもらって、杉浦Rumikoさんには本当に心から感謝したいと思います。

あと、読者の方には、最後まで読んでくださってありがとうございます。

最後に、この体験感想記を載せていいか方に確認したときに、お返事で次のような言葉をもらいました。素敵な言葉なので、ここに記させていただきたいと思います(いいですよね)。


「右脳教育の1番の効果は 心が広くなり愛に満ちたやさしい子に育つところです。」


涼風

大阪に行く

2004年12月07日 | 日記
きのう、用事があり大阪の堺市まで行ってきました。堺というのは、大阪湾にそって南の方に下ったところにある、大阪市の下にある都市です。そこに行く途中に電車からの風景を見ていると、いろんな感情が喚起されます。

大阪というのは、なんだか不思議なところです。なんだか、人が沢山住んでいる大都市なのに、大都市というステイタス感を住む人に呼び起こさないような気がします。

東京に住んでいるときに私が経験したのは、東京の人はみんな東京が大好きだ、ということでした。東京にいることに、優越感とか誇りとは言わないけど、うれしがっている感じはしました。

大阪の人はそういうことを思っているのだろうか?たとえば、大阪に、あそこに行きたいと思わせる場所があるとすればどこなのだろう?

東京は大都市にもかかわらず緑の多い場所だと思います。また、きれいなところはとてもきれいです。

わたしが住んでいたのは国立市で、中央線自体は殺風景な感じがして好きじゃなかった。でも、用事があって恵比寿とかに行くと、なぜか無条件にうれしくなった。原宿や渋谷自体はうるさくて汚くて好きじゃないけど、青山のあたりを歩くのはイヤじゃないです。三軒茶屋やそこから乗る世田谷線から見える風景はとても楽しい。吉祥寺は自由な雰囲気があるし、井の頭線からみえる風景の独特なこじんまりとした市民的平和感も好きです。下北沢も歩いていてなんだかわくわくする。小田急線から見える緑と住宅の風景は、まるで夢の中にいるような感じがしたのを覚えています。そして横浜は神戸をよく思い出せてくれました。

東京には、楽しい場所が沢山あるように思います。

大阪にはそんな場所があるのだろうか。人は多いし、ビルも多い。だから遊ぶために作られているスポットもある。遊びに行くときは、だから、やっぱり大阪でも楽しい。だから、文句はないのだけど…

もちろん、大阪にも、わくわくする感じはあります。

ただ、きのう、環状線に乗っていて感じたのは、市内はとても寂れた感じがするということです。錆の多い古い建物が並んでいる感じがして、なんとなく、悲しみが漂っているような感じがしました。あるいは、もう活発には動いていないような工場が多いようにも感じました。

同じ大都市なのに、なぜか大阪の市内は、とても曇っていて、煙っている、埃が充満しているという印象があります。これはなぜなんだろうと思います。東京のほうがよっぽど人はおおいのに。

その市内の寂れた雰囲気には目をつむって、膨大なお金を使って、第三セクターの事業をし、むりやりに建てたきれいなビルが固まっている場所もあります。

だから、とてもアンバランスで、その環状線の錆びれ具合がよけいに印象的です。むかし、ある経済界の人が大阪のことを「痰壺の町」と言って問題になったことがありました。 でも中島らもさんは、「その通りだ」と言っていたのが面白かったです。

大阪ドームのような新しい建物の周りも、あまり活発な感じはなく、昔からの古いコンクリートの建物が残っています。

じゃあ、どうすればいいのだろう。むりやり綺麗にすればいいのだろうか。痰をきれいにふき取ればいいのだろうか。そもそも大阪のその場所に住んでいる人自体が、そんなことを望んでいるのだろうか。


なんだか、そんな悲しい感じの町を見ながら、JR環状線から南海電車に乗り換えて堺の方へ行きました。そうやってずっと市内から離れていくと、ぐっと「郊外」という雰囲気が出て、まるで大阪じゃないような、緑に囲まれた空気のきれいな感じの場所に出てきました。

涼風

言葉のギフト

2004年12月06日 | 語学
きのう、言語を学ぶことはその国のひとの気もちを学ぶこと、という話をしました。そう考えると、英語だけでなく、さまざまな国の言語を学ぶ機会を社会で確保しておくことの重要性も、今までよりわかるような気がします。


東京都は、現在、東京都立大学を新しい大学に変えようとしています。その具体的な構想は私は知りませんが、語学教育については英会話学校と連携して授業をしたいそうです。

大学を出て多くの人が英語を流暢に話せるわけではない現在の状況を考えれば、それは悪くないかもしれません。

ただ同時に、都はドイツ語やフランス語の授業などを減らすつもりでいるらしいです。

これについては、それはどうかな、と思いました。


ヨーロッパに滞在した人は御存知と思いますが、ほとんどの国の若者は英語を話すことができます。それはアジアでも同じだと思います。中国や韓国の日本ような大国はともかく、世界のほとんどの小国の人たちは、英語を話せなければ仕事を得る機会も減るため、英語を学ぶことに真剣です。

だから、英語を話せれば、とりあえず世界中の人とコミュニケートできますし、気持ちを通わせることもできると思います。

どんなに言葉がうまくなっても、やはり最後には、ある人とある人が仲良くなるかどうかは相性だと思います。だから、最低限通じ合う言葉があれば、人と人との相互理解は進むかもしれません。

その点では、英語教育を大学で充実させることは、悪くないのかもしれません。

ただ、そのおかげで、様々な言語を学ぶ機会を学生が「奪われる」ことになる恐れは、国や地方自治体や大学は意識してよいように思います。

大阪大学教授で、日本人で一番ドイツ語がうまいと言われている三島憲一さんが、10年以上前のエッセイで、「語学がうまくなるかどうかは、その人とその言葉の相性で決まる」と書いていたのが、今でも印象に残ります。

三島さんはドイツ語の達人と呼ばれていて、わたしも彼が同時通訳する様子を生で見たことがありますが、その圧倒的なドイツ語のスピードと日本語の説明のよどみのなさはびっくりしました(ドイツ語はわからなかった(笑))。

それだけの人が、あるとき韓国語を学ぼうと思いたったそうです。本人も、外国語の習得には覚えがあるから、2年ぐらいみっちりやればなんとかなると思ったそうです。

わたしは韓国語を知りませんが、私の知っているかぎりでは、日本に来ている外国の人で一番日本語を日本人並みに話せるのは韓国の人たちです。それだけ言葉がやはり似ているのでしょう。韓国語を学んでいる日本人の知り合いも、二つの言葉は似ているし、起源は同じではないかと言っていました。

しかし、にもかかわらず三島さんは韓国語には惨敗したそうです。そのとき、やはり言葉を学ぶのは相性だとつくづく思わされたそうです。


だから、英語教育の充実はいいけれど、英語以外の言語の才能をもった人がその言語にアクセスできる機会がなくなることだけは、やはり避けなければならないことなのだろうと思います。

ドイツ語やフランス語なんて、まだまだ勉強する機会もあるし、学習書も出ています。しかし、それ以外のマイナー言語となると、勉強できるチャンスすら少ないのが今の日本の現状だと思います。それによって多くの人の才能が発揮できないのであれば、それは日本にとっても損失のように思います。

《感覚》で学ぶと...(!!!)

2004年12月05日 | 語学
以前にも書きましたが、最近、英語の勉強を始めました。TOEICを受けようと思ったのです。学校には通わず、自学自習でやっています。教材は、英語学習サイト「TOEICスコアアップ」の「お薦めのテキスト」を参考にしています。

その中で強く薦められている「ネイティヴスピーカー・シリーズ」(研究社)という累計30万部のベストセラー英語参考書シリーズがあります。著者は東洋女子短期大学助教授の大西奉斗さんと、イギリス出身で日本やスペインなどで英語を教えているポール・マクベイさんです。

わたしは現時点でこの著者たちの『ネイティヴスピーカーの英文法』『ネイティヴスピーカーの前置詞』『ネイティヴスピーカーの英語感覚』を読みました。これらの感想をちょっと書いてみたいと思います。


著者たちがこれらの本で目指しているのは、英語を一つ一つ日本語に置き換えて理解させるこれまでの英語教育の克服です。それに代えて彼らは、ある英語の単語を用いるときに、その単語に対して英語圏の人たちがどんな感覚をもっているのかを説明することで、その感覚に応じて柔軟に英語を使うことを提唱しています。

例えばatという前置詞を『新英和中辞典』(研究社 1977年版)という薄めの辞書で引いても、8つの用法が出ています。8つあるのはいいのですが、そこでは

「位置」at the front door
「時刻」at 5 o’clock
「状態」at peace
「方向」look at the moon
「感情の原因」wonder at the sight
「割合」at full speed
「数量・代価」at a good price
「じょうず・へた」be good at

など、およそ日常の会話・感覚からかけ離れた定義づけが日本語でなされ、そして用法・例文がいくつか挙げられています。

でも、常識的に考えて、英語圏の人が「状態を言うときはatだから」とか「方向を言いたいときはatを使って」なんて考えているわけないですよね。私たちだって、「5時《に》」「学校《へ》」など、「に」「へ」を使うときに意識していないのと同じです。

また、「位置」と言ったって他にもonやinやby、「方向」でもforなどもあるのですから、「atの意味は位置だから」なんて向こうの人は考えていない。じゃあどうしているのかと言うと、著者たちは、英語圏の人はatを使うときonでもinでもforでもない独自の感覚を感じていて、その感覚を表現したいときにatを使っているだけだということを説明していきます。

じゃあその感覚は何かというと、詳しい説明はもちろん本を見てもらうほうがいいのですが、簡単に言うと、「atの基本イメージは『点(point)』」だそうです。この「点(point)』の感覚を言い表したいときに英語圏の人はinでもonでもforでもacrossでもなく、atを使うのだそうです。

例えば 

The plane arrived at London.
The plane arrived in London.

を日本語訳すると「飛行機はロンドンに着きました」という同じ文章になりますが、英語圏の人は、atによって、たんに一つの「点(point)」としてのロンドンという地点をイメージしています。わたしの解釈だと、地図上の単なる一点という感じです。それに対してinを使うと、ロンドンを空間的にもっと具体的に思い浮かべ、その中のどこかに到着した、という感じですね(『ネイティヴスピーカーの前置詞』より)。

このように「点(point)」という感覚としてatをとらえると、上の8つの意味もすべて、その「点(point)」の感覚を表していることがわかるのです。

at 5 o’clockは、5時という「時点」を指して(point)います。at a good priceも、一つのお買い得価格を明確に指しています。

さまざまな用法があるように見えて、じつは、ある点(point)を指す(point)という感覚において、atの使い方は一貫しているんですよね。

つまり、私たちが学ぶべきは、一つ一つの用法・日本語訳ではなく、その言葉がもつ「感覚」であり、あとはその「感覚」にそって、英語を組み合わせていけばいいのです。

たとえば

He 〔is good at〕 playing baseball.

のbe good at という基本的なイディオムがありますよね。これも、向こうの人は学校で「イディオム」として暗記したのではなく、「野球をする」という一つの「点」について彼はgoodだと言いたいから、自然にそう言うだけなのです。何か、神様が「be good at」と言いなさいと命令したのではなくて、atの特性に合わせて自然にそう言うようになったんですね。


このネイティヴスピーカー・シリーズでは、このように英語の一つ一つの言葉について英語圏の人々が感じている《感覚》を、イラストやキーワードなどを用いながら説明していきます。この感覚にそうと、意外なことがわかったりします。

たとえば、anyは否定文や疑問文で使うとわたしたちは学校で教えられてきましたが、じつはその説明は間違い!であること。willとbe going toははっきりと違うこと。aとtheは何が違うのかということ。なぜwouldやcouldなどの助動詞の「過去形」が現在を表す文章で多用されるのかということ。英語には未来形がないこと、などなど。英語の勉強を始めた私にとっては、目からウロコの出る事実をたくさん教わりました。


アマゾンの書評を読むと、アメリカに留学してTOEICで900点をとった人でも大西さんの本を読むと教えられることがあると書いてありました。興味のある方は読んでみてもいいのではと思います。


またこれらの本を読んで面白かったのは、英語を学ぶことは、英語の規則を覚えることではなく、英語をつかっているときの英語圏の人たちの《感情・感覚》を学ぶことだということです。

英語を規則として学ぶ限り、わたしたちはつねに英語を頭の中で日本語に置き換えざるをえません。「I」は「わたし」、「must」は「しなきゃ」と、決まった対応関係に従う必要があります。

でも英語の言葉を使うときの英語圏の人たちの感覚を学ぶと、言葉を学ぶことが、英語で生まれ育った人たちの気持ちを理解することになるのです。大げさに言えば、異文化理解です。

わたしはまだそのレベルには到達していませんが、言葉を学ぶことは一つの文化を学ぶことに通じることを、この本たちは、わたしたちにはっきりと教えてくれます。


すでに衆知のことになっているように、20世紀の言語学者ソシュールは、わたしたちの目の前に広がる世界は、世界が先にあって私たちがそれを視ているのではなく、わたしたちの言語がものの見方を決定し、その見方が世界を作っていることを主張しました。

わたしはそのことをとっくに理解しているつもりでいましたが、このネイティヴスピーカー・シリーズを読むと、ある言語を使用することによって、その言語がある感情をわたしたちのなかに生み出し、それによって世界の視方がつくられていることが、もっと理解できるのではないか、という興味をそそられました。


とても興味深い、面白い本たちでした。この本が教えてくれた、感覚・イメージにそって言葉を体験するということを、これからもしていきたいと思います。


涼風

5センチだけ

2004年12月04日 | 日記
きょうは、神戸地方は朝から曇りで、午後からは雨が降ってきました。わたしの気分もそんな感じでした。のらない日でした。元々そういう日だったんじゃないかなと思います。

時間があれば、ノートに頭に出てくる言葉を書き、それにまつわる感情を感じてみます。きょう感じたものは、それほど劇的じゃなくても、胸の中にはりつていた少し重いような感情だったです。

インターネットの時代なので、思わぬところから感情を誘発する出来事が舞い込んでくることがあります。もうあまり直接は話していない人たちのメーリング・リストを通して、その人たちの近況を伝えるメールがきのう送られてきました。

そういったメールがきっかけとなって、また、じぶんのなかにニーズ(欲求)や羨望の感情が出てきていました。

それらの感情をある程度感じると、すこしラクなところへ出てきたようになります。

いま読んでいる『愛と心理療法』(M スコット・ペック 創元社)という本のなかに、愛とは自分を広げること、という記述が出てきます。

著者が言わんとすることは、それまでの自分の思い込みや生き方をかえて、周りや状況と対峙していくことを愛ととらえています。

『なまけ者のさとり方』にも、「自分を広げる」という表現があったように思います。自分に起きる出来事を拒否せずに、それを直視して感じつくし、受け入れていくということです。

そうすることで、自分が抵抗する物事がこの世界から一つづつ消えていき、それだけ自分とまわりの世界との境界が少しずつなくなり、自分という存在がまわりの世界と溶け合っていくのです。「自分のヴァイブレーションが広がる」と表現されていました。


ある人が、「一日5センチだけ生き方をかえることで、人生は大きく変わる。5センチ変わると、それは未来ではとても大きな変化になる」と言っていました。

きょう自分の感情を感じたことが、5センチだけ自分を変えたことになっていれば、と思います。

最高のプレゼント

2004年12月03日 | 日記
きのう、《信頼》について書きました。もうすこし、信頼について考えてみたいと思います。

信頼するとは、どういうことなのでしょうか。英単熟語集のベストセラー『Duo 3.0』につぎのような例文があります。

You won’t let me down. I have great Faith in you. ...
(僕をがっかりさせないよね。信頼しているよ。...

これは信頼というより、他人を自分の思い通りにコントロールしようとしているようにわたしは感じました。そのときの状況次第では「俺を失望させるなよ」という脅しのように解釈できるからです。まあ、そのときの受け取り方しだいですけど。


それに対して、信頼とは、いまのわたしには、どんなことも、どんな結果になっても、OKとみなすことのように感じます。

アメリカの心理トレーナー、チャック・スペザーノさんは、信頼をつぎのように述べています。


「《信頼》とは、・・・、どんなに否定的に思えることでも、その状況を全体的に把握し、うまくいく方向に変えることです。マインドのパワーを使って、状況を肯定的に展開させるのです」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』ヴォイス)

「ネガティヴなものごとに《信頼》を置いてあげると、最善の方向に変化します」

「幸福、豊かさ、愛や真実など、望むことが実現すると選択し、《信頼》するだけでよいのです」
『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』ヴォイス)


こういう説明だけをみると、「信頼」ってとても便利な道具だなと思いたくなります。「なんでも想えば実現するんだ!」「これで人生ハッピーだぞ!」「イッヒッヒッ…」という感じですね。


でも、そういう解釈の仕方は、おそらく、というよりぜんぜん間違いなのでしょう。

信頼は、「(自分や他人や状況が)こうあらねばらない」という私たちの思い込み=コントロールを癒す、とチャックさんは言っています。つまり、信頼とはコントロールの対極にあるということです。

だから、「信頼したんだから、もう物事は思い通りにいくはずだ!!!」と思うことは、全然《信頼》にはなっていないわけですね。

わたしがチャックさんの心理学のなかでよくわからなかったのは、この信頼とコントロールの違いです。

信頼とはなになのでしょうか。


きのう思ったのは、信頼とは受容のひとつの形だということです。どんな状況も受け入れるということです。

チャックさんはつぎのように言っています。

「あなたの仕事は、平和を感じるまで「信頼」を送り続けることです。そのとき、何層もの違った感情を通り抜ける感じがするかもしれません。もしそうであれば、それは癒しそのものです」(『30日間で、どんな人でも・・・』)。

つまり、信頼とは、自分が嫌っている今の状況を直視して、その状況にまつわる感情をすべて感じていくことだとも言えます。どんなにそれが嫌な状況だとしても、現実にそれがこの世界に存在すること、それをはっきりと認めることです。

チャックさんは、《信頼》について説明するとき、いつもつぎのようなことばを付け加えます。

「《信頼》とは、情報や直観を無視して、何でもかんでも信用してしまうことではなく・・・」(『30日間で、どんな人でも・・・』

「信頼は世間知らずとは違います。何らかの感情や傷心につながるような情報を否定したりはしません」(『癒し大全』ヴォイス


繰り返しになりますけど、自分が嫌なことが現にあること、あるいは自分が何かに怖れをいだいていること、そのことをはっきりと認めるということですね。

それは、同時に、この《世界》というものを認める、承認するということだと思います。つまり、その状況あるいは人々がこの世界に存在することを許可するということ。許可という言い方が傲慢に聞こえて語弊があるとすれば、その状況が存在することが正当であると認めると言うことです(おんなじか)。

どんなことが起きようとも、その世界の進行が「正しい」と認めるということですね。

そうすると、感情を感じるということは、世界を肯定していくひとつの方法であると言えます。じぶんが人や状況を「嫌っている」ことを受け入れるということは、不完全な世界と自分を受け入れていくことなのだと思います。


じゃあ、どうしてこの「嫌い」という感情を受け入れると、ものごとが「最善の方向」に変化するのでしょうか?「幸福、豊かさ、愛や真実など、望むことが実現する」のでしょうか? 

どういうことなのだろう? わたしにとっては、チャックさんが言う《信頼》という概念のなかでは、ここのところが一番むずかしいです。「ホントに、そんなに物事がうまくいくの? それって《期待》じゃないの? 《期待》しちゃいけないんじゃないの?」


ただ、チャックさんはつぎのように言っています。

「《信頼》は、状況がどんな風に見えようとも、あなたにとってすべてがうまくいくと知っています。このことを知っていると、どんな状況でも、ありとあらゆる利点と恩恵を、見つけ出すことができるのです」(『30日間で、どんな人でも・・・』


つまり、《信頼》とは、現在の状況自体に、将来の自分の幸せの種があることを信じることだと言えるのかもしれません。いや、信じるのではなく、それは「知っている」のです。

この「知っている」という状態は、まさに、手に入れようとして手に入るものではないように思います。むしろ、現在の状況にまつわるあらゆる感情を感じつくし、その感情が消えたときに訪れる《平和》な感情の中で達成される状態のように思います。

少々理屈っぽく書いたけど、ほんとは、そんな大げさなことではないのでしょう。

ただ、ここまで書いてきてわたしが思ったのは、《信頼》とは、自分が嫌なものを受け入れるときに自分に訪れるプレゼントのような、平和な状態のように思えます。

つまり、その自分に訪れた《平和》という状態こそが、世界を《信頼》している状態であり、それが、「最善」なこと、「幸福、豊かさ、愛や真実」のように思えるのです。


タデウス・ゴラスさんはつぎのように言っています。

「地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです」(『なまけ者のさとり方』地湧社or角川文庫)

チャックさんの真意はべつのところにもあるかもしれませんが、癒しとしての《信頼》とは、そういうことだと思いました。

つまり、何か特定の望むことをイメージすることも《信頼》なのかもしれませんが、イメージするという行為以上に、あるいはその行為だけでなく、《信頼することができる状態》、つまり《平和な状態》に自分がいること、そのこと自体が癒しのように思いました。