いま、葛根湯を飲みながらこれを書いています。葛根湯を飲み始めて、もう3週間近くがたちます。風邪のひきかけで改善するために飲み始めたのだけど、そのあいだ思いっきり熱が出たりして、あれ?と思うこともありました。
ただ、この少し苦いお薬をあたたかいお湯に溶かして飲んでいると、なんだかじぶんを大切にしている感覚があって、それが好きで飲んでいます。
気温が下がり、部屋にも冷えが入り込んでいる中で、コップに顆粒を落としてお湯を入れて、茶色がかった熱い液体をかき混ぜ、すするようにそれを飲んでいると、「あぁ、じぶんは今、かよわい病人だぁ。お薬飲んで大事にしてあげよう」という感じになります。きっとそれが好きで飲んでいるのだとおもう。
ひとはもっと自分を病人だと思えばいいのかも。こころでも体でもいいけど、自分を病人だと思って、みんなが自分を大事に大事にすればいいのかも。みんな、自分をいたわればいいんだ。
今日、神戸の町をひとりで歩いていました。そのときの気分はそれほどよくなく、不安や嫉妬、憂鬱を感じていました。目の前に見える風景は、灰色の空とコンクリートの道路、沈んだお店通りの雰囲気でした。そのとき、ふと、「もし今のこの状態で自分が恵まれているとしたら」と考えてみました。もし、じぶんが幸せなのだとしたら。
そう考えたとき、目の前の灰色のコンクリートの風景が少し変わりました。それまでは、コンクリートはギスギスした雰囲気を出して、こちらの気持ちを余計に落ちこませようとしているようでした。でも、じぶんが今恵まれているとしたら、と考えてみると、そのコンクリートの道路や壁、建物がすこしやさしくなったように感じました。
やさしくなると同時に、それら道路、壁、建物たちのつながりを感じるようでした。実際にそれらはつながっています。でも、それまではそのつながりが感じられず、建物は建物として、お店はお店として、道路は道路として、壁は壁としてバラバラにそこにありました。しかし、自分が幸せなのだとしたら、と考えると、それらのつながりが感じられ、同時にそれらがやさしくそこに存在しているように感じたのです。ただの人工物ではなく、やさしさを表現するものとして。それらの存在は、わたしをあたたかく迎えてくれているようでした。
夕方近くになり、夕陽が三ノ宮(神戸の中心地)の街にも差し込んできました。きょうの夕陽は、量は多くなくても、するどく光る黄金のような色をして、つやを感じさせるものでした。
夕方に電車で朝霧駅、私の家の最寄り駅まで帰ってくると、空は鮮やかな薄いブルーでした。その鮮やかな薄さは、見ているこちらのきもちを澄んだものにし、地上の世界を絵画の一部にしているようです。つまり、この世のものとは思えない微妙な色彩だったのです。
朝霧駅の海岸から見える雲は、遠くにあるようなのに、同時に目の前に浮かんでいるようです。それは実際の雲ではなく、絵描きがわざわざ舞子の空に描いたように感じられます。実際の雲のようなよそよそしさはなく、とてもくっきりして、とてもわかりやすく、同時に微妙な薄い空にマッチした青と白と灰色が混ざったような特別な雲です。
その朝霧の海岸はとてもきれいでした。そこだけは、別の世界のようです。人もなぜか少ない。それだけに、特別に描かれた作品のようでした。
その場に少しいたあと、家路につきました。家に帰るとき、「ありがとうございます」と唱えてみました。
私には欲しいものがたくさんあります。そして、その欲しいものが得られるかどうかで不安と渇望感が湧き起こります。そういうとき、「ありがとうございます」と言うと、欲しいものではなく、これまで与えられたものが頭に甦ります。これから何が欲しいかではなく、今まで与えてもらったものに感謝しているのです。そのとき、欲しいものを手放している感覚になります。
「ありがとうございます」という言葉の力は、そういうところに(も)あるのでしょう。「未来」へとマインドが暴走していくのを抑え、与えられたものに感謝させることで、「今、ここ」へとわたしたちを連れ戻してくれるのです。
欲しいものがあり不安になるとき、「ありがとうございます」と唱えてみます。
涼風
ただ、この少し苦いお薬をあたたかいお湯に溶かして飲んでいると、なんだかじぶんを大切にしている感覚があって、それが好きで飲んでいます。
気温が下がり、部屋にも冷えが入り込んでいる中で、コップに顆粒を落としてお湯を入れて、茶色がかった熱い液体をかき混ぜ、すするようにそれを飲んでいると、「あぁ、じぶんは今、かよわい病人だぁ。お薬飲んで大事にしてあげよう」という感じになります。きっとそれが好きで飲んでいるのだとおもう。
ひとはもっと自分を病人だと思えばいいのかも。こころでも体でもいいけど、自分を病人だと思って、みんなが自分を大事に大事にすればいいのかも。みんな、自分をいたわればいいんだ。
今日、神戸の町をひとりで歩いていました。そのときの気分はそれほどよくなく、不安や嫉妬、憂鬱を感じていました。目の前に見える風景は、灰色の空とコンクリートの道路、沈んだお店通りの雰囲気でした。そのとき、ふと、「もし今のこの状態で自分が恵まれているとしたら」と考えてみました。もし、じぶんが幸せなのだとしたら。
そう考えたとき、目の前の灰色のコンクリートの風景が少し変わりました。それまでは、コンクリートはギスギスした雰囲気を出して、こちらの気持ちを余計に落ちこませようとしているようでした。でも、じぶんが今恵まれているとしたら、と考えてみると、そのコンクリートの道路や壁、建物がすこしやさしくなったように感じました。
やさしくなると同時に、それら道路、壁、建物たちのつながりを感じるようでした。実際にそれらはつながっています。でも、それまではそのつながりが感じられず、建物は建物として、お店はお店として、道路は道路として、壁は壁としてバラバラにそこにありました。しかし、自分が幸せなのだとしたら、と考えると、それらのつながりが感じられ、同時にそれらがやさしくそこに存在しているように感じたのです。ただの人工物ではなく、やさしさを表現するものとして。それらの存在は、わたしをあたたかく迎えてくれているようでした。
夕方近くになり、夕陽が三ノ宮(神戸の中心地)の街にも差し込んできました。きょうの夕陽は、量は多くなくても、するどく光る黄金のような色をして、つやを感じさせるものでした。
夕方に電車で朝霧駅、私の家の最寄り駅まで帰ってくると、空は鮮やかな薄いブルーでした。その鮮やかな薄さは、見ているこちらのきもちを澄んだものにし、地上の世界を絵画の一部にしているようです。つまり、この世のものとは思えない微妙な色彩だったのです。
朝霧駅の海岸から見える雲は、遠くにあるようなのに、同時に目の前に浮かんでいるようです。それは実際の雲ではなく、絵描きがわざわざ舞子の空に描いたように感じられます。実際の雲のようなよそよそしさはなく、とてもくっきりして、とてもわかりやすく、同時に微妙な薄い空にマッチした青と白と灰色が混ざったような特別な雲です。
その朝霧の海岸はとてもきれいでした。そこだけは、別の世界のようです。人もなぜか少ない。それだけに、特別に描かれた作品のようでした。
その場に少しいたあと、家路につきました。家に帰るとき、「ありがとうございます」と唱えてみました。
私には欲しいものがたくさんあります。そして、その欲しいものが得られるかどうかで不安と渇望感が湧き起こります。そういうとき、「ありがとうございます」と言うと、欲しいものではなく、これまで与えられたものが頭に甦ります。これから何が欲しいかではなく、今まで与えてもらったものに感謝しているのです。そのとき、欲しいものを手放している感覚になります。
「ありがとうございます」という言葉の力は、そういうところに(も)あるのでしょう。「未来」へとマインドが暴走していくのを抑え、与えられたものに感謝させることで、「今、ここ」へとわたしたちを連れ戻してくれるのです。
欲しいものがあり不安になるとき、「ありがとうございます」と唱えてみます。
涼風
わたしもそう思います。
感謝するということはちゃんと受け取るということなんですね。空気も、空も、物も、感謝して受けとれることがしあわせなんだとおもいます。
何かがあるから幸せというより、何かを受け取ることができるから、何かに感謝できるから、わたしたちはしあわせなんですね。