先日、いろいろと個人的にお世話になっているところに遊びに行かせてもらい、授業を体験させてもらいました。きょうはそのときの感想を簡単にまとめてみたいとおもいます。
最近は右脳ブームですよね。七田眞さんや中谷彰宏さん、他にもいろいろの方が「右脳」という題名の本を出しています。御存知の方は何年も前から精通しているのだとおもいます。
船井幸雄さんの本でも七田さんの右脳訓練をよく紹介していますし、わたしも七田さんの本を何冊か読ませてもらいました。その印象だと、どんなに七田さんが言葉を尽くしても、「右脳には記憶力や直観力ですごい力があるんですよ」という以上のことは言えていないような気がしました。「右脳にはすごい奇跡的な力がある」ということを言いたいのだから、それを従来の論理的・科学的な言語で説明すること自体に矛盾があるので、読者にはうまく伝わらないように感じたのです。
ただ、その七田さんの本『右脳がぐんぐん目覚める4倍速...』に付いている2倍速・4倍速の朗読CDに合わせて日本語の文章を読むという実践をしたときに、わたしは3.4倍ぐらいまでついて行けるようになったのですが、たしかに速い速度の文章に合わせて文章を読んでいると、自分の意識的な力ではない、なにか自分以外の力に身を任せて読むようにすると、倍速CDについていけたという体験があります。
「自分の力で」速く読もうとしてもうまくいかないのが、なにか気を楽にして、「速く読ませてください」と何かにお願いするような感じでいると、スムーズにCDについていけたのです。「これがひょっとすると超自然的な力なのかな」と思ったりもしました。
最近はその日本語の朗読はやめたのですが、英語とドイツ語の2倍速の朗読をしています。ただ、2倍だと、元のCDのスピードが遅いと物足りない感じもします(わたしのパソコンでは、速度調節は2倍が限度です)。
などなどの右脳体験しているときに、幼児教育をしている方に「教室に遊びに来てもいいよ」と言われたので、ぜひ、と思って出かけました。
授業では、赤ちゃんから幼稚園、小学生ぐらいまでの授業を見させてもらいました。内容は、出された問題通りに複数の積み木を重ね合わせる、色々な形の紙を組み合わせて正方形をつくる、先生の話を聞いてあとでそのストーリー通りに自分で話を組み立てる(記憶力を試す)、カルタ、などなど他にも沢山あり、それを次から次へと先生が子どもにさせていきます。
それは、休む暇などありません、まさにぶっ通しで50分その授業をするのです。わたしたちの学校時代を思い出してください。50分の授業が永遠のように感じられませんでしたか?わたしは、その授業の長さに耐えかねて、ぼーっと空想にふけっていました。しかし、その50分の授業に幼稚園ぐらいの子どもたちがダレもせず真剣に取り組んでいるのです!
これは、一つには、少人数で次から次へと課題が与えられるため、退屈する暇がないこと、また幼児にはそうした充実した課題に応えられるだけの能力がちゃんとあるということだと思います。逆に言えば、その幼児の能力を引き出すには、次から次へと課題を与えていくスピードがとても大切だということだと思います。
小学校や中学校・高校の授業が退屈だった原因の一つは、大人数でレヴェルにばらつきがあるので、のろまにしか授業を先生ができないからなのでしょう。授業の進行がのろまな分だけ生徒の頭ものろまにしか働かず、結果的に何も理解できずに終わるのです。
他に興味深かったのは、授業の内容が、「不確実なもの・見えないもの」を信頼する力を子どもに与えている印象を(わたしが)受けたことです。
たとえば、出された課題の形通りに複数の積み木を組み合わせる作業があります。ふつうに積み木を見ていては、その組み合わせは思いつきません。何度も試行錯誤しながらその組み合わせを見つける必要があります。その過程で生徒は、見たそのままの積み木の形からは飛躍した組み合わせを発想する必要にかられます。目の前にある積み木の形とは違う側面を「みる」必要があるのです。もう一つの目をもつ、と言い換えてもいいのかもしれません。
そのもう一つの目にたどり着くには、やはり「なにか」を信頼して、普通では見えない答えに自分が辿りつけるということへの信頼が必要になるような気がしました。
子ども達はこの課題も他の課題も、わたしの3、4倍以上の速さで行ないます。おそらく彼らには、わたしの知らないなにかを感じる力があるのかもしれません。
この積み木かさね以外の課題も、どれも似たような性格を持っています。「確実なもの・見えるもの」を頼っていては解けない問題ばかりが出てきます。頭を180度ひっくり返さないとダメなのです。「ひっくり返さないと」と言うけど、でも子ども達はそれを自然にできてしまうのだと思います。
でも、こうしたことに関連する話は、誰でもどこかで聞いたことがありますよね。
以前、サッカーの中田英寿選手は、「じぶんは子どものころのほうがサッカーが上手かった」と言っていました。「こどものころは、後ろを向かなくてもボールがどこにあるかわかっていた」と。
彼の「キラーパス」が美しかったのは、そういう非常識な発想から繰り出されるパスだったからでしょう。以前の彼は、わたしたちがただ漫然と見ていては気づかない、相手のディフェンダーのあいだにあるスペースをグラウンドの中に見つけ、そこにパスをだしていました。その発想があまりにも意表をつくため、味方もついていけなかったのです。きっと中田選手は、自分がグラウンドにいながらにして、一人だけグラウンドを高く真上からみるもう一つの目をもっていたのだと思います。
あるいはよく知られているように、『スター・ウォーズ』の話も同じようなことを扱っていますよね。「フォース」という力は、ただ見えるものだけを見ていては使えませんよね。77年に公開された作品のクライマックスでスカイウォーカーは、敵の基地のわずかなスペースに爆弾を落とすとき、自分の力ではない「なにか」の助けを借りて飛行機を操縦する必要にかられました(『帝国の逆襲』では、そのスカイウォーカーが「フォース」を身につける訓練の困難さが描かれていましたよね)。
そうした普通では見えないものを「見る」力を養うことを、幼児右脳教育はたしかにしているような印象を受けました。
考えれば、いまのわたしたちの社会の悲劇は、確実に見えるもの・確実に感じられるものだけを信用することに始まります。つまり、お金・物質・他人に勝っているという勝利感。これらを信用していることに多くの悲劇は由来します。なにか、「確実なもの」に拠りかかることに飢えています。普段の人間関係にいざこざから、アメリカによるイラク攻撃まで、すべてそれが元凶のように思います。
右脳に秘められた力が個人の能力を開発するだけでなく、社会をよくすることにつながるとしたら、やはり「見えないもの」を見ることにあるのかもしれません。
これは、現実を否定して山にこもるとか、インドに行って修業するのがいいと言っているわけではありません。
そうではなくて、現実をもっとカラフルに、いろいろな面から見る力を養うということです。具体的に狭めて言えば、お金・物質・他人に勝っているという勝利感など以外の側面がこの世界にはあるということへの信頼感をもつということです。一見普通の道徳的なことのように思えますが、それを実際に感じる力が衰えている、つまり世界をいろいろな面から見る能力がわたしたちからはなくなっています。
それゆえに、わたしたちは、既成の価値観から自分は外れている(リストラされた、出世コースから外れた、30代なのに結婚していない、いまだに童貞・処女だ)といったことに敏感になり、絶望に陥りやすくなります。
でも、人生のゴールにたどり着くのに必要なのは、そういう見える物差しで自分を測るのではなく、ルーク・スカイウォーカーのように、現実に目の前にある狭すぎるスペースにとらわれるのではなく、なにかの力を感じてそれに導かれることなのかもしれません。
これは、先日にもポストした記事「belief that anything is good」「最高のプレゼント」で取り上げた、心理学者チャック・スペザーノさんが言う「信頼」と同じことなのでしょう。チャックさんはつぎのように言います。
「どうしたら状況がうまくいくかなんて、あなたが知る必要はありません。それはあなたの仕事ではないのですから。あなたの仕事は、平和を感じるまで「信頼」を送り続けることです」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』)。
つまり、見えるものだけを見るのではなく、見えるものをちゃんと見ながら、同時に見えないものを信頼し、じぶんがゴールにたどり着くことを信頼するのです。
それは不可能に思えるかもしれませんが、子ども達はじっさいに、一見不可能に見えるような積み木や図形の組み合わせをやすやすと見つけていきます。一見見えなくてもゴールはあること、それに自分はたどりつけること、それを彼らは知っているのだし、わたしたちが思い出すべきなのもそういう力なのでしょう。
そういったいろいろなことを考えさせてくれる右脳教育体験でした。こんな面白いことを体験させてもらって、杉浦Rumikoさんには本当に心から感謝したいと思います。
あと、読者の方には、最後まで読んでくださってありがとうございます。
最後に、この体験感想記を載せていいか方に確認したときに、お返事で次のような言葉をもらいました。素敵な言葉なので、ここに記させていただきたいと思います(いいですよね)。
「右脳教育の1番の効果は 心が広くなり愛に満ちたやさしい子に育つところです。」
涼風
最近は右脳ブームですよね。七田眞さんや中谷彰宏さん、他にもいろいろの方が「右脳」という題名の本を出しています。御存知の方は何年も前から精通しているのだとおもいます。
船井幸雄さんの本でも七田さんの右脳訓練をよく紹介していますし、わたしも七田さんの本を何冊か読ませてもらいました。その印象だと、どんなに七田さんが言葉を尽くしても、「右脳には記憶力や直観力ですごい力があるんですよ」という以上のことは言えていないような気がしました。「右脳にはすごい奇跡的な力がある」ということを言いたいのだから、それを従来の論理的・科学的な言語で説明すること自体に矛盾があるので、読者にはうまく伝わらないように感じたのです。
ただ、その七田さんの本『右脳がぐんぐん目覚める4倍速...』に付いている2倍速・4倍速の朗読CDに合わせて日本語の文章を読むという実践をしたときに、わたしは3.4倍ぐらいまでついて行けるようになったのですが、たしかに速い速度の文章に合わせて文章を読んでいると、自分の意識的な力ではない、なにか自分以外の力に身を任せて読むようにすると、倍速CDについていけたという体験があります。
「自分の力で」速く読もうとしてもうまくいかないのが、なにか気を楽にして、「速く読ませてください」と何かにお願いするような感じでいると、スムーズにCDについていけたのです。「これがひょっとすると超自然的な力なのかな」と思ったりもしました。
最近はその日本語の朗読はやめたのですが、英語とドイツ語の2倍速の朗読をしています。ただ、2倍だと、元のCDのスピードが遅いと物足りない感じもします(わたしのパソコンでは、速度調節は2倍が限度です)。
などなどの右脳体験しているときに、幼児教育をしている方に「教室に遊びに来てもいいよ」と言われたので、ぜひ、と思って出かけました。
授業では、赤ちゃんから幼稚園、小学生ぐらいまでの授業を見させてもらいました。内容は、出された問題通りに複数の積み木を重ね合わせる、色々な形の紙を組み合わせて正方形をつくる、先生の話を聞いてあとでそのストーリー通りに自分で話を組み立てる(記憶力を試す)、カルタ、などなど他にも沢山あり、それを次から次へと先生が子どもにさせていきます。
それは、休む暇などありません、まさにぶっ通しで50分その授業をするのです。わたしたちの学校時代を思い出してください。50分の授業が永遠のように感じられませんでしたか?わたしは、その授業の長さに耐えかねて、ぼーっと空想にふけっていました。しかし、その50分の授業に幼稚園ぐらいの子どもたちがダレもせず真剣に取り組んでいるのです!
これは、一つには、少人数で次から次へと課題が与えられるため、退屈する暇がないこと、また幼児にはそうした充実した課題に応えられるだけの能力がちゃんとあるということだと思います。逆に言えば、その幼児の能力を引き出すには、次から次へと課題を与えていくスピードがとても大切だということだと思います。
小学校や中学校・高校の授業が退屈だった原因の一つは、大人数でレヴェルにばらつきがあるので、のろまにしか授業を先生ができないからなのでしょう。授業の進行がのろまな分だけ生徒の頭ものろまにしか働かず、結果的に何も理解できずに終わるのです。
他に興味深かったのは、授業の内容が、「不確実なもの・見えないもの」を信頼する力を子どもに与えている印象を(わたしが)受けたことです。
たとえば、出された課題の形通りに複数の積み木を組み合わせる作業があります。ふつうに積み木を見ていては、その組み合わせは思いつきません。何度も試行錯誤しながらその組み合わせを見つける必要があります。その過程で生徒は、見たそのままの積み木の形からは飛躍した組み合わせを発想する必要にかられます。目の前にある積み木の形とは違う側面を「みる」必要があるのです。もう一つの目をもつ、と言い換えてもいいのかもしれません。
そのもう一つの目にたどり着くには、やはり「なにか」を信頼して、普通では見えない答えに自分が辿りつけるということへの信頼が必要になるような気がしました。
子ども達はこの課題も他の課題も、わたしの3、4倍以上の速さで行ないます。おそらく彼らには、わたしの知らないなにかを感じる力があるのかもしれません。
この積み木かさね以外の課題も、どれも似たような性格を持っています。「確実なもの・見えるもの」を頼っていては解けない問題ばかりが出てきます。頭を180度ひっくり返さないとダメなのです。「ひっくり返さないと」と言うけど、でも子ども達はそれを自然にできてしまうのだと思います。
でも、こうしたことに関連する話は、誰でもどこかで聞いたことがありますよね。
以前、サッカーの中田英寿選手は、「じぶんは子どものころのほうがサッカーが上手かった」と言っていました。「こどものころは、後ろを向かなくてもボールがどこにあるかわかっていた」と。
彼の「キラーパス」が美しかったのは、そういう非常識な発想から繰り出されるパスだったからでしょう。以前の彼は、わたしたちがただ漫然と見ていては気づかない、相手のディフェンダーのあいだにあるスペースをグラウンドの中に見つけ、そこにパスをだしていました。その発想があまりにも意表をつくため、味方もついていけなかったのです。きっと中田選手は、自分がグラウンドにいながらにして、一人だけグラウンドを高く真上からみるもう一つの目をもっていたのだと思います。
あるいはよく知られているように、『スター・ウォーズ』の話も同じようなことを扱っていますよね。「フォース」という力は、ただ見えるものだけを見ていては使えませんよね。77年に公開された作品のクライマックスでスカイウォーカーは、敵の基地のわずかなスペースに爆弾を落とすとき、自分の力ではない「なにか」の助けを借りて飛行機を操縦する必要にかられました(『帝国の逆襲』では、そのスカイウォーカーが「フォース」を身につける訓練の困難さが描かれていましたよね)。
そうした普通では見えないものを「見る」力を養うことを、幼児右脳教育はたしかにしているような印象を受けました。
考えれば、いまのわたしたちの社会の悲劇は、確実に見えるもの・確実に感じられるものだけを信用することに始まります。つまり、お金・物質・他人に勝っているという勝利感。これらを信用していることに多くの悲劇は由来します。なにか、「確実なもの」に拠りかかることに飢えています。普段の人間関係にいざこざから、アメリカによるイラク攻撃まで、すべてそれが元凶のように思います。
右脳に秘められた力が個人の能力を開発するだけでなく、社会をよくすることにつながるとしたら、やはり「見えないもの」を見ることにあるのかもしれません。
これは、現実を否定して山にこもるとか、インドに行って修業するのがいいと言っているわけではありません。
そうではなくて、現実をもっとカラフルに、いろいろな面から見る力を養うということです。具体的に狭めて言えば、お金・物質・他人に勝っているという勝利感など以外の側面がこの世界にはあるということへの信頼感をもつということです。一見普通の道徳的なことのように思えますが、それを実際に感じる力が衰えている、つまり世界をいろいろな面から見る能力がわたしたちからはなくなっています。
それゆえに、わたしたちは、既成の価値観から自分は外れている(リストラされた、出世コースから外れた、30代なのに結婚していない、いまだに童貞・処女だ)といったことに敏感になり、絶望に陥りやすくなります。
でも、人生のゴールにたどり着くのに必要なのは、そういう見える物差しで自分を測るのではなく、ルーク・スカイウォーカーのように、現実に目の前にある狭すぎるスペースにとらわれるのではなく、なにかの力を感じてそれに導かれることなのかもしれません。
これは、先日にもポストした記事「belief that anything is good」「最高のプレゼント」で取り上げた、心理学者チャック・スペザーノさんが言う「信頼」と同じことなのでしょう。チャックさんはつぎのように言います。
「どうしたら状況がうまくいくかなんて、あなたが知る必要はありません。それはあなたの仕事ではないのですから。あなたの仕事は、平和を感じるまで「信頼」を送り続けることです」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』)。
つまり、見えるものだけを見るのではなく、見えるものをちゃんと見ながら、同時に見えないものを信頼し、じぶんがゴールにたどり着くことを信頼するのです。
それは不可能に思えるかもしれませんが、子ども達はじっさいに、一見不可能に見えるような積み木や図形の組み合わせをやすやすと見つけていきます。一見見えなくてもゴールはあること、それに自分はたどりつけること、それを彼らは知っているのだし、わたしたちが思い出すべきなのもそういう力なのでしょう。
そういったいろいろなことを考えさせてくれる右脳教育体験でした。こんな面白いことを体験させてもらって、杉浦Rumikoさんには本当に心から感謝したいと思います。
あと、読者の方には、最後まで読んでくださってありがとうございます。
最後に、この体験感想記を載せていいか方に確認したときに、お返事で次のような言葉をもらいました。素敵な言葉なので、ここに記させていただきたいと思います(いいですよね)。
「右脳教育の1番の効果は 心が広くなり愛に満ちたやさしい子に育つところです。」
涼風