joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

《感覚》で学ぶと...(!!!)

2004年12月05日 | 語学
以前にも書きましたが、最近、英語の勉強を始めました。TOEICを受けようと思ったのです。学校には通わず、自学自習でやっています。教材は、英語学習サイト「TOEICスコアアップ」の「お薦めのテキスト」を参考にしています。

その中で強く薦められている「ネイティヴスピーカー・シリーズ」(研究社)という累計30万部のベストセラー英語参考書シリーズがあります。著者は東洋女子短期大学助教授の大西奉斗さんと、イギリス出身で日本やスペインなどで英語を教えているポール・マクベイさんです。

わたしは現時点でこの著者たちの『ネイティヴスピーカーの英文法』『ネイティヴスピーカーの前置詞』『ネイティヴスピーカーの英語感覚』を読みました。これらの感想をちょっと書いてみたいと思います。


著者たちがこれらの本で目指しているのは、英語を一つ一つ日本語に置き換えて理解させるこれまでの英語教育の克服です。それに代えて彼らは、ある英語の単語を用いるときに、その単語に対して英語圏の人たちがどんな感覚をもっているのかを説明することで、その感覚に応じて柔軟に英語を使うことを提唱しています。

例えばatという前置詞を『新英和中辞典』(研究社 1977年版)という薄めの辞書で引いても、8つの用法が出ています。8つあるのはいいのですが、そこでは

「位置」at the front door
「時刻」at 5 o’clock
「状態」at peace
「方向」look at the moon
「感情の原因」wonder at the sight
「割合」at full speed
「数量・代価」at a good price
「じょうず・へた」be good at

など、およそ日常の会話・感覚からかけ離れた定義づけが日本語でなされ、そして用法・例文がいくつか挙げられています。

でも、常識的に考えて、英語圏の人が「状態を言うときはatだから」とか「方向を言いたいときはatを使って」なんて考えているわけないですよね。私たちだって、「5時《に》」「学校《へ》」など、「に」「へ」を使うときに意識していないのと同じです。

また、「位置」と言ったって他にもonやinやby、「方向」でもforなどもあるのですから、「atの意味は位置だから」なんて向こうの人は考えていない。じゃあどうしているのかと言うと、著者たちは、英語圏の人はatを使うときonでもinでもforでもない独自の感覚を感じていて、その感覚を表現したいときにatを使っているだけだということを説明していきます。

じゃあその感覚は何かというと、詳しい説明はもちろん本を見てもらうほうがいいのですが、簡単に言うと、「atの基本イメージは『点(point)』」だそうです。この「点(point)』の感覚を言い表したいときに英語圏の人はinでもonでもforでもacrossでもなく、atを使うのだそうです。

例えば 

The plane arrived at London.
The plane arrived in London.

を日本語訳すると「飛行機はロンドンに着きました」という同じ文章になりますが、英語圏の人は、atによって、たんに一つの「点(point)」としてのロンドンという地点をイメージしています。わたしの解釈だと、地図上の単なる一点という感じです。それに対してinを使うと、ロンドンを空間的にもっと具体的に思い浮かべ、その中のどこかに到着した、という感じですね(『ネイティヴスピーカーの前置詞』より)。

このように「点(point)」という感覚としてatをとらえると、上の8つの意味もすべて、その「点(point)」の感覚を表していることがわかるのです。

at 5 o’clockは、5時という「時点」を指して(point)います。at a good priceも、一つのお買い得価格を明確に指しています。

さまざまな用法があるように見えて、じつは、ある点(point)を指す(point)という感覚において、atの使い方は一貫しているんですよね。

つまり、私たちが学ぶべきは、一つ一つの用法・日本語訳ではなく、その言葉がもつ「感覚」であり、あとはその「感覚」にそって、英語を組み合わせていけばいいのです。

たとえば

He 〔is good at〕 playing baseball.

のbe good at という基本的なイディオムがありますよね。これも、向こうの人は学校で「イディオム」として暗記したのではなく、「野球をする」という一つの「点」について彼はgoodだと言いたいから、自然にそう言うだけなのです。何か、神様が「be good at」と言いなさいと命令したのではなくて、atの特性に合わせて自然にそう言うようになったんですね。


このネイティヴスピーカー・シリーズでは、このように英語の一つ一つの言葉について英語圏の人々が感じている《感覚》を、イラストやキーワードなどを用いながら説明していきます。この感覚にそうと、意外なことがわかったりします。

たとえば、anyは否定文や疑問文で使うとわたしたちは学校で教えられてきましたが、じつはその説明は間違い!であること。willとbe going toははっきりと違うこと。aとtheは何が違うのかということ。なぜwouldやcouldなどの助動詞の「過去形」が現在を表す文章で多用されるのかということ。英語には未来形がないこと、などなど。英語の勉強を始めた私にとっては、目からウロコの出る事実をたくさん教わりました。


アマゾンの書評を読むと、アメリカに留学してTOEICで900点をとった人でも大西さんの本を読むと教えられることがあると書いてありました。興味のある方は読んでみてもいいのではと思います。


またこれらの本を読んで面白かったのは、英語を学ぶことは、英語の規則を覚えることではなく、英語をつかっているときの英語圏の人たちの《感情・感覚》を学ぶことだということです。

英語を規則として学ぶ限り、わたしたちはつねに英語を頭の中で日本語に置き換えざるをえません。「I」は「わたし」、「must」は「しなきゃ」と、決まった対応関係に従う必要があります。

でも英語の言葉を使うときの英語圏の人たちの感覚を学ぶと、言葉を学ぶことが、英語で生まれ育った人たちの気持ちを理解することになるのです。大げさに言えば、異文化理解です。

わたしはまだそのレベルには到達していませんが、言葉を学ぶことは一つの文化を学ぶことに通じることを、この本たちは、わたしたちにはっきりと教えてくれます。


すでに衆知のことになっているように、20世紀の言語学者ソシュールは、わたしたちの目の前に広がる世界は、世界が先にあって私たちがそれを視ているのではなく、わたしたちの言語がものの見方を決定し、その見方が世界を作っていることを主張しました。

わたしはそのことをとっくに理解しているつもりでいましたが、このネイティヴスピーカー・シリーズを読むと、ある言語を使用することによって、その言語がある感情をわたしたちのなかに生み出し、それによって世界の視方がつくられていることが、もっと理解できるのではないか、という興味をそそられました。


とても興味深い、面白い本たちでした。この本が教えてくれた、感覚・イメージにそって言葉を体験するということを、これからもしていきたいと思います。


涼風