今朝、と言ってももうお昼だったけど、いつもの瞑想を10分ほどしていました。目をつむり、腹式呼吸をします。断続的にですが、もう5年ほど続いています。
目をつむっている間は、最近は、からだの中が「浄化」されているような、「細胞が生き返るような」ところをイメージします。「細胞が生き返るような」といってもよくわかりませんね。わたしもよくわからないですが、わからないなりに「こんな感じかな」と想いイメージしています。これは、七田眞さんが本の中で書いていた言葉で、そうイメージして腹式呼吸をすると、右脳の活性化に役立つそうです。
イメージの内容はよく変わります。「瞑想」と言っても、自分の想念をコントロールしているというより、わたしの場合は、「雑念」みたいなものも出てきます。「今日はあれをして、これもしよう」みたいな。だから他の人にとっては瞑想とは言えないのかもしれません。
それはともかく、この瞑想では、わたしにとっては呼吸も大切です。朝、この腹式呼吸をしないと、なんだか息が詰まりそうになるのです。それだけ深い呼吸が習慣化しているのだと思います。5年も続いているのはそのためです。
今日も、その腹式呼吸をしているときに、自分が将来望むことをイメージしようとすると、肉体労働をして働き、家族とご飯を食べている自分がそこにいました。
肉体労働は、わたしがもっとも怖れている職業です。わたしのなかでは、肉体労働とは、低賃金で、下品で、世の中から排除された汚い場所というイメージがあるからです。
冷静に考えれば、「肉体労働」といってもその種類は色々だし、また収入も様々です。でもわたしの中では、漠然とその「肉体労働」への怖れがあります。
でも、瞑想で出てきたのは、自分はその肉体労働をして稼いで、家族と暮らしているというイメージでした。その家族とは、わたしの父と母と姉です。
そのイメージが出てきたとき、一瞬ひるみましたが、あえてそのイメージに踏みとどまり、じっとその映像を見て、「わたしは肉体労働をしている」と思考してみました。からだは多少怖れの感情を感じていました。
瞑想が終わった後、このイメージがどこから来たのかはすぐにわかりました。それはわたしが小さいころの家族の食卓のイメージでした。わたしの父は大工さんで、夜6時ごろに帰ってくる父と、姉二人と、母と、家族五人で夕食をとっていました。わたしが小学生の終わりごろまでそれは続いていたと思います。
わたしは、父が大工さんであるということに対して何かを想ったことはありません。それはあまりにも当たり前の事実だし、またそのことが嫌だとも好きだとも考えたことはありませんでした。
ただ、自分がその仕事をするということは考えられなかったし、そういう大工さんの仕事や肉体労働を「軽蔑」している想念がわたしのなかにはあります。
この「軽蔑」はわたしのなかの怖れが源ですが、同時にわたしは、自分の小さいころの食卓のことに憧憬を感じているのかもしれません。同時に、父がしている肉体労働こそが労働として「正しい」のだ、という想いもあるのかも。
つまりわたしの中には、肉体労働への怖れと憧れが同居しているようなのです。その憧れは言うまでもなく、子どものころの父への畏敬から来ているのでしょう。
私の育った環境では、「働く」ことをしていたのは父であり、その父がしていたのは肉体労働だったのですから、私の中では、「働くとは肉体労働である」という想念が心の奥に埋め込まれていたのかも。
わたしの頭から肉体労働にまつわる想念が消えないのはそのためなのでしょう。
心理学者チャック・スペザーノさんは、わたしたちは怖れているものに対して同時に魅力を感じている、と指摘しています。
「ある心理テストでは、恐怖心が高まると性的エネルギーも高まるという結果が出ています。深層のレベルでいえば、私たちは恐怖を感じるものに同時に魅力も感じているのです。つまり、死を怖れているのなら、そしてあるレベルでは死にひかれ、パートナーに何かが起こることを怖れているのなら、あるレベルではそうなってほしいという願望ももっている証拠です」((『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。
「怖れ」と「こだわりがない」ことは全くちがいますよね。本当に無関心であれば、それは「こだわりがない」になります。「怖れる」とき、それは極端にその対象に関心をもっていることを示しています。
わたしの肉体労働への「怖れ」は、まさに肉体労働をしている父を見て育ったことが関係しているのだと思います。また同時に、おそらく農業などの肉体労働をしてきた父の祖先から受け継がれてきた想念と感情が、わたしの中にもあるのかもしれません。
いずれにせよ、それに関心を持ち、わたしが「怖れ」を抱いているのは事実です。ならば、私がすべきことは、その怖れを感じつくしていくことだと思います。それを感じつくしていく過程で、わたしは肉体労働を偏見のない目でみつめることができ、同時に私自身が願っていることも明らかになるでしょう。
「怖れに光をあて、あなたが本当に願っていることを見つめましょう。あなたの心の暗闇にあったものを光のなかにもってくると、癒しが生まれることを知ってください」(『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。
涼風
P.S. チャックさんは、「心の暗闇にあったものを光のなかにもってくる」、つまり心の奥にある怖れを表に引き出すための方法として、「怖れていること」を「起こるのを願っていること」だと考えてみることをわたしたちに薦めています。
これは、感情を感じるための一つの有効な方法です。この方法を実践すると、自分でも知らなかったような感情が体から浮き上がり、やがて消えていきます。「感じる」というヒーリングの手法に興味のある方は試してみてはいかがでしょうか。
目をつむっている間は、最近は、からだの中が「浄化」されているような、「細胞が生き返るような」ところをイメージします。「細胞が生き返るような」といってもよくわかりませんね。わたしもよくわからないですが、わからないなりに「こんな感じかな」と想いイメージしています。これは、七田眞さんが本の中で書いていた言葉で、そうイメージして腹式呼吸をすると、右脳の活性化に役立つそうです。
イメージの内容はよく変わります。「瞑想」と言っても、自分の想念をコントロールしているというより、わたしの場合は、「雑念」みたいなものも出てきます。「今日はあれをして、これもしよう」みたいな。だから他の人にとっては瞑想とは言えないのかもしれません。
それはともかく、この瞑想では、わたしにとっては呼吸も大切です。朝、この腹式呼吸をしないと、なんだか息が詰まりそうになるのです。それだけ深い呼吸が習慣化しているのだと思います。5年も続いているのはそのためです。
今日も、その腹式呼吸をしているときに、自分が将来望むことをイメージしようとすると、肉体労働をして働き、家族とご飯を食べている自分がそこにいました。
肉体労働は、わたしがもっとも怖れている職業です。わたしのなかでは、肉体労働とは、低賃金で、下品で、世の中から排除された汚い場所というイメージがあるからです。
冷静に考えれば、「肉体労働」といってもその種類は色々だし、また収入も様々です。でもわたしの中では、漠然とその「肉体労働」への怖れがあります。
でも、瞑想で出てきたのは、自分はその肉体労働をして稼いで、家族と暮らしているというイメージでした。その家族とは、わたしの父と母と姉です。
そのイメージが出てきたとき、一瞬ひるみましたが、あえてそのイメージに踏みとどまり、じっとその映像を見て、「わたしは肉体労働をしている」と思考してみました。からだは多少怖れの感情を感じていました。
瞑想が終わった後、このイメージがどこから来たのかはすぐにわかりました。それはわたしが小さいころの家族の食卓のイメージでした。わたしの父は大工さんで、夜6時ごろに帰ってくる父と、姉二人と、母と、家族五人で夕食をとっていました。わたしが小学生の終わりごろまでそれは続いていたと思います。
わたしは、父が大工さんであるということに対して何かを想ったことはありません。それはあまりにも当たり前の事実だし、またそのことが嫌だとも好きだとも考えたことはありませんでした。
ただ、自分がその仕事をするということは考えられなかったし、そういう大工さんの仕事や肉体労働を「軽蔑」している想念がわたしのなかにはあります。
この「軽蔑」はわたしのなかの怖れが源ですが、同時にわたしは、自分の小さいころの食卓のことに憧憬を感じているのかもしれません。同時に、父がしている肉体労働こそが労働として「正しい」のだ、という想いもあるのかも。
つまりわたしの中には、肉体労働への怖れと憧れが同居しているようなのです。その憧れは言うまでもなく、子どものころの父への畏敬から来ているのでしょう。
私の育った環境では、「働く」ことをしていたのは父であり、その父がしていたのは肉体労働だったのですから、私の中では、「働くとは肉体労働である」という想念が心の奥に埋め込まれていたのかも。
わたしの頭から肉体労働にまつわる想念が消えないのはそのためなのでしょう。
心理学者チャック・スペザーノさんは、わたしたちは怖れているものに対して同時に魅力を感じている、と指摘しています。
「ある心理テストでは、恐怖心が高まると性的エネルギーも高まるという結果が出ています。深層のレベルでいえば、私たちは恐怖を感じるものに同時に魅力も感じているのです。つまり、死を怖れているのなら、そしてあるレベルでは死にひかれ、パートナーに何かが起こることを怖れているのなら、あるレベルではそうなってほしいという願望ももっている証拠です」((『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。
「怖れ」と「こだわりがない」ことは全くちがいますよね。本当に無関心であれば、それは「こだわりがない」になります。「怖れる」とき、それは極端にその対象に関心をもっていることを示しています。
わたしの肉体労働への「怖れ」は、まさに肉体労働をしている父を見て育ったことが関係しているのだと思います。また同時に、おそらく農業などの肉体労働をしてきた父の祖先から受け継がれてきた想念と感情が、わたしの中にもあるのかもしれません。
いずれにせよ、それに関心を持ち、わたしが「怖れ」を抱いているのは事実です。ならば、私がすべきことは、その怖れを感じつくしていくことだと思います。それを感じつくしていく過程で、わたしは肉体労働を偏見のない目でみつめることができ、同時に私自身が願っていることも明らかになるでしょう。
「怖れに光をあて、あなたが本当に願っていることを見つめましょう。あなたの心の暗闇にあったものを光のなかにもってくると、癒しが生まれることを知ってください」(『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。
涼風
P.S. チャックさんは、「心の暗闇にあったものを光のなかにもってくる」、つまり心の奥にある怖れを表に引き出すための方法として、「怖れていること」を「起こるのを願っていること」だと考えてみることをわたしたちに薦めています。
これは、感情を感じるための一つの有効な方法です。この方法を実践すると、自分でも知らなかったような感情が体から浮き上がり、やがて消えていきます。「感じる」というヒーリングの手法に興味のある方は試してみてはいかがでしょうか。
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