淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「night is just around the corner」

2015年08月16日 | Weblog
 昔から、人と別れるということが、とにかく辛くて辛くてしょうがなかった。
 異常なほど、それまで親しくしていた人とか、身内の人間とか、友達とか、あるいは恋人とかと何がしかの理由で離れ離れになると分かると、もうそれだけで切なくて切なくて、精神的にどうしようもなくなるのである。

 小学校だったか幼稚園のとき、家庭の事情で東京に転校する近所の友達がいて、青森駅の長いプラットホームで見送ったのだけれど、その友人が遠くに行っちゃう事が悲しくて悲しくて、突然大声で泣き叫んだことがあった。
 そのシーンは、今でも鮮明に覚えている。

 いい歳をした男が、ひと恋しいというか、極度な淋しがりやというか、乳離れしないというか、依存症的というか、もうどうしようもない。

 祖母と祖父に溺愛されて育ったことが起因しているんだろうか。
 それとも単なる甘えん坊なんだろうか。
 
 これは別にいい意味じゃなくて、本当に呆れ返っていうんだけれど、これって、余りにも心がおかしく研ぎ澄まされていて、余りにも脆くて、余りにも壊れやすく出来ているせいだからじゃないんだろうか。

 こういうヤワ過ぎる性格って、心底、疲れる。
 毎日毎晩、へとへとになる。
 心が絶えず疲弊しているから、かなり生きること自体に難儀する。
 心がいつもヒリヒリしていて、とても苦痛だ。

 今日の日曜日も、午後あたりから心が乱れ出してきた。
 空はまだ夏の青空が残っていて、太陽も眩し過ぎるほどに眩しい、そんな残暑の日曜日。
 そうなると、そういう前向きな夏の風景と、それとは全然裏腹な暗い気分との、乖離が辛くなる。

 明日からまた仕事が始まるのかぁ・・・なんて、ふとそんなことが脳裏を掠めた。
 ここ数年は、仕事でもプライヴェートでも、大抵のことなら(もちろん、深く傷ついたり悩んだりしたことだって沢山あったけど)平気の平左だったのに、最近はちょっとしたことでも鋭利な刃物で切り付けられるみたいな感覚に襲われる。

 午前中もほんとは少しばかり落ち込んでいたのだけれど、朝、ラインで「今日も一日、はりきっていきましょう!」というラインが届いて、そこから気持ちが随分と落ち着いたというのに・・・。

 まるでポツポツと曇天の空から大粒の雨が落ちてくるみたいに、心の襞にも冷たい雫が落ちてくる。

 ああ、今日の日曜日の夜、この繊細で弱々しい心は平静を保つことが出来るんだろうか。
 また、あのスポーツジムで突然襲って来たような、どろどろしたどす黒い負の塊が、胸の辺りから這い上がってきたらどうしよう。
 不安が募る。
 夜が途轍もなく厭だ。

 それにしても、なんと弱い精神力!
 些細なことで傷つき、異常なほどメゲてしまう自分がいる。
 これって、どうにかならないんだろうか。

 夕方になる。
 宵闇が迫って来る。
 今日はランニングさえ出来る状態ではなかった。

 圧倒的な寂寥感、圧倒的な空虚感、それらがまた侵食してくる。
 脱出したい。一生人生に悩んでもいいし、一生満足しない自分がいても全然構わない。
 この圧倒的な苦しさから開放される、ただそれだけでいい。あともうほかには何もいらない。

 東京に帰るという身内を青森駅まで見送るために、一緒に夕暮れの街を歩いて向かう。
 中心市街地の新町通りは、いつもよりも通行人が多い。旅行バッグを担いでいる人たちが目立っている。

 すっかり夕風が涼しくなってきた。
 西の空が橙色に滲んでいる。
 とても美しいけれど、とても物悲しい風景だ。
 
 少し新幹線接続電車が来るまで時間があったので、青森駅前の「スターバックス」に入って珈琲を頼む。
 珈琲を飲み干し、時間が来たので、こちらも入場券を買って青森駅のプラットホームまで行って見送ることにした。

 昔、東京に転校する近所の友達を青森駅の長いプラットホームで見送った際に、遠くに行っちゃう事が悲しくて突然大声で泣き叫んだことを、ふと思い出した。

 何を見ても、何をやっても、すべてを悲しみや苦悩や虚しさに結び付けてしまう、そんな強引な自分が常にいる。
 
 俺は、ここからいつになったら立ち直れるんだろう・・・。
 もう限界に近い。









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「某文学賞、見事に惨敗で撃沈す! これまでのいい加減な生き方、その場凌ぎの人生のツケが回って来た」

2015年08月16日 | Weblog
 箸にも棒にもかからなかった。
 起死回生の一打逆転満塁ホームランを狙ったのに、かすりともしなかった。完敗である。

 ここで、もしも大手出版社の文学賞を獲れたなら、自分を鼓舞させ、全部始めから人生そのものをやり直すことが出来る、そう思って、必死で書き上げて提出した100枚の小説が、完膚無きまでに否定されてしまったのである。
 箸にも棒にもかからなかったのである。

 ショックだ。

 生まれて初めて書き上げた100枚の小説だった。自分にとって初めての自信作だった。
 これまでに賞を獲った幾つかの短編小説は、書き上げてはみたもののどれも自信がなくて、応募するたび、提出するのをやめようかといつも戸惑っていた。
 でも応募してみると、何故かどの小説もそれなりの評価を受けてきた。

 慢心していたのだろう。
 大手出版社の文学賞は、やはりそれほど甘くない。
 アホと言われるかもしれないけれど、絶対に評価されると思っていた。

 でもまったく無視された。
 そりゃ、そうだ。
 数年前、ある評論家の先生に、「ずいぶん、筆が荒い」と言われたことを今更ながらに思い出す。

 他人の小説なんて一年間で数冊読む程度で、あとは音楽評論とか自己啓発に関する本をぺらぺらと捲るだけ。
 やっと書き上げた100枚の小説だって、単に10年間寝かせていただけで、一年に一度か二度ほど数枚程度書き進むだけだった。
 ブログを読んでいるひとなら分かるだろうけど・・・。

 小説だけに限らない。
 マラソンも中途半端。
 走ったり走らなかったり。その繰り返しで一年が終わる。

 一ヶ月のうち、ジムに行くのだって4~5回行くのがやっとという体たらく。
 鍛えたいのか、鍛えたくないのか。
 口先だけで実行が伴わない・・・。

 映画と音楽の評論集を書き上げて出版するというのも、単なる宣言だけで、結局何にも進まない。
 いわんや、小説さえ、ここ何年も、やっと30枚程度をなんとか頑張って締め切り一週間で急いで書く始末。
 書く気があるのかないのか、自分でもよく分からなくなる。

 いい年して、淋しがり屋で、自己顕示欲が強く、自分が大好きで、神経質で、嫉妬深く、他人の評価がいつも気になり、ちょっとでも批判めいた噂を聞くと、徹底的に落ち込み、立ち直れなくなる。

 小心者で、気持ちがせこく、いい人間に見られたいと絶えず周りに気を配る。
 太っ腹なところをみせるけれど、本当はケチで、何事にも石橋を叩いて渡るくらい慎重で、表面上は男気を繕っている。

 いつも、いつの時でも、必死で安全な場所を確保しようと努め、予防線を張り巡らすことだけに集中し、他人を信用しているようにみせてはいても、本心はまったく違っている。

 懐疑心が強く、いつも祭り上げられていないと気分が悪く、癇癪持ちで、怒りっぽく、放蕩癖が直らず、いつも散財を繰り返している。

 とにかく言っていることと実際の行動がまったく逆で、ちょっとのことでも激しく悩み、まるで生死に関わる一大事のように大袈裟な対応に終始する。
 そんなクソッタレな軽薄野郎が、文学賞など獲れるはずが無いではないか。

 これまでのいい加減な生き方、その場凌ぎの人生のツケが、確実に回って来ているのだ。
 すべての責任は自分にある。
 今の人生は、過去の自分の決断の結果でしかない。
 今を作っているのは、今までの生き方そのものだ。

 心の負債は天文学的に大きい。
 とても払える体力も知力も無い。

 どん詰まりである。
 やってこなかったその人生のツケが、雪だるま式に増えている。
 アスパムよりも、陸奥湾よりも大きくて広い。

 本当にショックである。
 やっと書き上げた小説なのに・・・。
 自信作だったのに・・・。

 最低最悪だ。
 ここ数ヶ月って、ほんと一体何なんだ?









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